黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

瀬戸内寂聴さんを悼んで

「源氏」について、25年前にインタビュー

 作家の瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなったと聞いた。現役時代のスクラップをひっくり返して確認してみたら、インタビューをさせていただいたのは瀬戸内さんが74歳の1997年3月か4月。ちょうど四半世紀、25年も前の話だ。

 (以下、四半世紀前の話なので、現代的なLGBTQ的基準には合わない部分があるかもしれないが予めご容赦を。)

 記事は「NHK to feature women of 'Genji'」というタイトルで英字紙に載った。話は日本語で聞いたのだけれど、英文にしてしまったので寂聴さんの言葉そのものが残っていなくて残念だ。さすがに取材メモは処分してしまったし。

 記事は、寂聴さんが現代語訳に取り組まれた関係で、紫式部の「源氏物語」に描かれる女性たちについて3か月のシリーズで語るという、NHK教育(当時)の「人間大学」という30分番組についてのものだった。高校以来「源氏大好き」の私は喜々としてインタビューさせていただいたのだった。

 番組で寂聴さんが取り上げたのは、紫式部桐壺の更衣藤壺の女御、葵の上、紫の上。作者と、作品の主な女性登場人物の面々だ。寂聴さんは、物語が展開する場所も番組で訪ねるという趣向で、幼い紫の上と源氏が出会った京都の鞍馬寺なども行かれたのだった。

 寂聴さんは、「源氏物語」がインモラルでスキャンダラスな単なる光源氏の恋愛遍歴についての話だと儒教的価値観から見做されていたのは不幸なことだとおっしゃり、中国の古典と仏教に精通した紫式部によって多様な人間模様が描かれていることと、平安社会を知る価値ある記録であることを評価されていた。

 権力ある男たちによる表の公式記録は欺瞞に満ちているけれど、女の手によるフィクションの物語には世の真実が書かれていると・・・皮肉だけれども面白い。

 そして、当初番組についてNHK側(ほぼ男性)と話をした時、源氏物語の女性キャラクターを取り上げたいと言ったら興味を持ってもらえず反対されてしまった、なんてこともおっしゃっていた。

 特に個人的に興味深かったのが、寂聴さんが「I noticed one very unusual thing」とおっしゃった点。物語に出てくる光源氏を巡る女性たちは、あの宗教がインパクトを持つ時代に固い決意を持って次々と出家を望んで尼になっていくのに、光源氏は口では出家を望みながらもそうしない。ポーズに見える。

 寂聴さんが出家されている身だけに、気になったのだろう。

 記事中で寂聴さんのコメントとして書いたのは「Lady Murasaki intended to show women how to overcome their unavoidable agony and their unhappy fate, in order to save themselves」という点だ。どんなに身分が高かったとしても、あの時代、生き方が縛られていた女性たち。出家によってその深い苦しみから自由を得られる道を紫式部は指し示したのだ。

 物語の最後、思慮深い薫でさえ浮舟の尼になりたいという苦しい気持ちを理解しない。他に恋人でもできたのか、などと疑うのだ。変な終わり方だという人もいるけれど「計算された皮肉」としてそんな終わり方になっている、と寂聴さんはおっしゃっていた。

 物語を読む限り、当時は、あの世へと無事に成仏するには出家するなり、戒を授かるなりすることが死ぬ前に必要だと信じられていたらしいけれど、私も、紫の上の死に際にどんなに出家を望んでも光源氏がそれを認めようとしないことに対して、紫の上が自分の極楽浄土への往生を諦めて光源氏のわがままを受け止めようとする慈愛に満ちた心が忘れられない。

 話は飛ぶのだけれど、萩尾望都の「トーマの心臓」でのトーマがユーリのために翼を諦めるのと似てる、と思った。相手への深い愛が自己犠牲をいとわない気持ちにさせるのだ。

 トーマの話までは寂聴さんとは多分しなかったと思うけれども、そんな感じで延々と「源氏物語」について話をしたのだった。

 インタビューはマンツーマンで、思えばなんて贅沢な。寂聴さんは、私のくだらない疑問「なんで藤原道長紫式部に書かせているのに『源氏物語』であって『藤原物語』じゃないんでしょうね」にも「あらまあ、考えたこともなかったわ」と面白がってくださり、私も半ば仕事を忘れる楽しい時間だった。

 でも・・・今思うと、寂聴さんの有難みが分かってないインタビュアーだったと反省している。

 何しろ、寂聴さんご自身については圧倒的に勉強不足で、寂聴さんの作品は400もあるというが、インタビューまでに読んでいたのも1つか2つ。「源氏物語」についても、現代語訳でしっかり読んだのは円地文子の手によるものぐらいで、谷崎潤一郎版、田辺聖子版はあまり肌に合わず途中で挫折。寂聴版は未だにちらちら見た程度だ。いつかちゃんと読みたいとは思っていたのだったが・・・。

 寂聴さんは、ご自分の現代語訳を底本に、誰かが新たに英訳源氏を作り上げてほしいと希望されていた。気になったのでググってみたら、英訳どころか、抄訳も含めてモンゴル語、ハングル、アラビア語もちゃんとあるらしい。(『源氏物語』翻訳史 – 海外平安文学情報 (genjiito.org)

 不甲斐ない私以外に、ちゃんと寂聴さんの現代語訳を生かしている方たちがおいでだったことに、何やらホッとした。

 寂聴さん、その節はありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。合掌

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「おかえりモネ」続きを待ってます

既視感満載の「カムカムエヴリバディ」

 NHKの朝ドラ「おかえりモネ」が終わり、もう今作の「カムカムエヴリバディ」がスタートして1週間経った。

 今のところ、どこかで見たような話が展開していて・・・なぜだろう、この後、第二次世界大戦に突入していくことがどうしても分かっているせいか、これまで見た戦争もので語られてきた悲劇に至る道筋をかいつまんで見ているような。既視感満載というか、そんな印象だ。

 描かれるキャラも、何か記号のように存在している。朝ドラのお父さんお母さんはあんな感じだよね、働き者で。娘が心配で。厳しいけれど孫には甘いおじいちゃん、とかね。不穏な要素は濱田岳の兄ぐらいか。ちょっと気の利く友達が面白いかな。

 村上虹郎はまた海軍に入るのかな・・・そんなことないか。戦前~戦中での報われない幼なじみへの恋+彼となると、思い出すのは「この世界の片隅に」だけれど、切ない感じがぴったりだった。それで今作も彼が選ばれたのかな。

 しばらく見続けないと何とも言えないけれども、一人目ヒロイン・上白石萌音と御曹司の恋も何か戦時下の定石を外さずに進むような気がしている。短命の予感が・・・それもこれも、二人目ヒロイン・深津絵里のストーリーを描くためのプロローグなんだろうか。

まだ「モネ」の話

 さて、まだ私の気持ちは「モネ」の方にある。味わい深いドラマだったな・・・とひとりで思い返している。

 どうしても親世代に共感してしまうのだけれども、モネの父親コージー内野聖陽(漢字がうろ覚え)はやっぱりいい役者さんだ。(こう書いてから、紫綬褒章の受章を知った。おめでとうございます!)

 菅波先生があいさつに訪れたにもかかわらず逃げた上、酔って帰って亜哉子さんに怒られた際の「帰ったー」と答えるグダグダ振りにはクスッと笑ってしまった(「真田丸」での伊賀越えの徳川家康役を思い出した)。

 また、自分が昔、恋焦がれていた相手でもある新次の妻が、震災以来ずっと行方不明という「あいまいな喪失」状態であり、その辛さにのたうち回っている新次を、耕治の側も粘り強く支えようとする姿。キリがないけど、端々で本当にいい役者さんだと思った。

 やっぱりモネと同様、被災当時に島にいなかったことと「何も失わなかった」ことで新次に対して罪悪感を抱いていた、そんな様子がちゃんとにじみ出ていた。

 (ここでは長くなるから書かないけれど、浅野忠信の新次も、被災者の苦しみを体現していて他には考えられないほど素晴らしかった。)

 最後、祖父・龍己さんと海に向かう姿にも、漁師としては全くこなれない雰囲気がうまく出ていて、緊張した顔にも第二の人生への覚悟が見えた。

 最終回で、耕治が新次に、りょーちんの船の初出航を見に行かないと伝えた時のセリフがこうだった。

 「亮が自分で買った船乗って、おまえ(新次)がそれをうれしそうに見送る。そんなとこ見てしまったら、オレたぶん泣く。オレ、見んのが怖いんだよ。見たら、オレが救われてしまうんじゃないかって。おまえたちに、何ができんだって、思ってきた。オレが、胸なで下ろしてしまうんじゃねぇかって。そんなもんじゃねぇだろ。そんな簡単じゃねぇだろ。だから、オレが見て泣くのは、もう少し、先にしときたいんだよ」

 このドラマは本当に取材が深いなと思うのは、こういったところだ。被災者を見守る側の私たちが問われている。そんな簡単じゃねえのだ。

 「早く立ち直って、早く元気になって」と周りは自分たちが安心したいから期待しがちだけれど、当事者には時間が必要だ。「ゆっくりでいいんだ」とのセリフは、たぶん龍己さんがどこかで言っていたようにも思うけれど、「ひよっこ」のラストでやはり家族の祖父ポジションの古谷一行が、家族に同じ言葉を言っていた。

toyamona.hatenablog.com

 個人的にいつも思うのだが「前を向く」という表現も、落ち込んでいる人を追い込むようで引っかかる。「いや、その人が向いている方向が前でしょ、みんな前を向いているよ」とどなたかが名言をおっしゃっていたが、本当にそうだ。

 後ろ向きだの前向きだの、しゃらくさい。歩みが止まっている時間があったとしても、それが必要だからそうなってるんだろうに。

 大きすぎる心の傷をどうにか抱えて再び歩み始めるには、かなりの時間がかかる。焦っていいことはないのに、自分が安心したいだけで苦しみの中にいる相手に「早く早く」言ってしまっていないか、気をつけなきゃいけないと自戒も込めて心から思う。

 こういうドラマでの描き方ができるまでには、どれだけ被災者の話を聞いてきたんだろう。被災者そのものずばりでなく、その被災者の周りで苦悩する人たちに、ヒロイン(とその父)を設定するなんて、なかなか考えている。

 実際に、内陸の方たちは、被災県であっても自分たちを「被災者」と位置付けることにためらいがある人もいたようだった。

 津波を見たか、見なかったか。それがドラマの姉妹をも分断した。

 「お姉ちゃん、津波見なかったもんね」との妹・未知の言葉に、あの日のモネは自分がノックアウトされてしまってその真意がつかめなかったけれど、ちゃんと違和感はおぼえていたから最後の最後に妹に「あの日、何があったの」と尋ねることができた。

 ここで、まさかの「おばあちゃんを置いて、逃げた」。津波を見たからこその闇落ち。こんなにも大きな楔を打ち込まれたまま、みーちゃんは生きてきたのか・・・と呆然とするような展開だった。

 これは辛い。でも、大人たちに助けられておばあちゃんは体育館に避難していた。だから、助かったんだからと誤魔化すこともできたのに、みーちゃんは正面から悩んできたところが切なかった。

 自責の念は厄介だ。私も、亡き息子クロスケの件では今も苛まれている。それを受け止めるモネの言葉「みーちゃんは悪くない」が、支援の場では正解として知られている言葉だったので、ちょっとまたびっくりしてしまった。

 モネは、本当にベテラン支援員さんのよう。

 自責の念にほぼ悩まされると言っていい、性犯罪被害者の方たちにかける言葉として「あなたは悪くない」が提唱されて久しいが、それがこうもすんなりモネの口から出てくるとは・・・。モネ、どこで支援を学んだのだろう?

 いや、モネだけじゃなかった。二次被害、三次被害に困らせられてきた被災地の方たちが見ることを意識すれば、こうやってちゃんと考えたドラマになるんだろう。心の傷に苦しむ人たちに接するにはこうやってみるといいんだよ、という一例を見せてくれるような、本当に難しいことにチャレンジしたドラマだった。

 ドラマが全て正解、という訳ではない。リアルに被災地に生きている方々には、色々と言いたいこともあるかもしれないし、考えることがあって当然だろう。私も、以前にちょっと被災者から話を伺っていた期間があっただけで、実際には何も知らない人間だ。

 しかし、あのモネと未知の姉妹を演じたふたり、清原果耶と蒔田彩珠が、まだ19歳と聞いて本当に空恐ろしい。

 ということで、まだまだモネの世界から離れられない。モネと菅波先生、みーちゃんとりょーちんのそれぞれの未来がまだ見てみたい。スピンオフでも第二弾でも何でもいいから、ゆっくりでいいから、続きをお待ちしています。(敬称略)

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丸腰の内親王、名誉を守るには

お祝いの花も無し

 秋篠宮眞子内親王が「降嫁」して小室眞子さんとなられた。どなたかが指摘していたけれど、孝明天皇の妹・和宮親子内親王が徳川14代将軍の家茂に降嫁した時でさえも「身分違い」だと大騒ぎだったそうだ。もちろんと言うか、お相手の小室圭さんは民間人だ。

 けれど、小室さんが皇族でも旧家出身でもない民間人であることは、今や上皇后と皇后のおふたりともが民間出身なのであり、現代日本ではそこまでの問題にはもうならないはず。今回の結婚が、父の秋篠宮がコメントしたように史上「皇室としては類例を見ない」内親王の結婚だと言われるのは、例の金銭スキャンダルによって、正式な儀式もない、まったく祝われない結婚になってしまったからなのだろう。

 それにしても、26日のあの結婚記者会見。ツイッター上の指摘で気づいたけれど、小室夫妻が着いた席には、テーブル上に花が無かった。マウスとマイクだけ。絵面が寂しくなるわけだ。ただ新婚のおふたりに相応しい笑顔が無いだけではなかった。

 「お花ぐらい、ホテルがお祝いとして用意すればよかったのに」という声もあったけれど、たぶん眞子さんがお断りになったのでは? あの記者会見を見ての推測だけれど。日本のホテル関係者は、それぐらいのことには気づくし、やろうとするだろう。

有名税」対応では古い

 こんな祝福に遠いスキャンダルにまみれた結婚となってしまって、ただただご本人にもご両親にも、気の毒だと思う。どうしてこんなことになったのだろう。

 まあ、小室さんのお母さんの金銭スキャンダルが問題だと言われているけれど、指摘したいのは別の点だ。「守り切れなかった」と宮内庁関係者が涙したとも聞くが、このネット・SNS時代に、皇族を守る仕組みがあまりに古くて手薄で、お母さんの元婚約者側(に付いた週刊誌)の情報操作に負けた、ということではないか。

 ちょうど最近、女優の戸田恵梨香さん、水川あさみさんのおふたりも、週刊誌報道に怒髪天を衝く思いをしたらしい。

水川あさみ事務所、「事実と異なる」週刊誌報道を非難 「しかるべき措置をとる」 (オリコン) - Yahoo!ニュース

 この「有名税」と呼ばれて数々の有名人が泣き寝入りをさせられてきた、根拠のない・裏付けの乏しい問題報道がなされた時、これまでは「金持ち喧嘩せず」的にスルーするのが大人の対応であるかのように言われてきた。

 面倒ごとは誰でも嫌う。「被害者さえ口を塞いでくれたら、話題にもなったのだし、以前のように稼げればどうでもいい」。被害者の周りでさえ、そんな捉え方ではなかったか。

 結果的に、嘘の報道をされてしまった有名人の被害当事者の痛みは無視されるか直視されず、ひどい扱いに心を痛めるだけに終わってきたのではないだろうか。

 昔は紙の週刊誌だけ読む人を気にしていれば「人の噂も七十五日」で済んだのかもしれないが、現代はそうはいかない。記事はネットで配信され、SNSで増幅されて怪しげな尾鰭が付いて拡散される可能性も大いにあり、それがバッシングとなって返ってくる。

 こんな状況下で精神を病む芸能人が多いのも納得だ。悪名高いコンクリ詰め殺人の一味かのようにネット上で扱われてひどい目に遭ったスマイリーキクチさんの例以降も、最近まで枚挙に暇がない。命も失われている。

迅速に丁寧に火の粉を払うべき

 そんなリスクを目の当たりにすれば、皇族だけが無事でいられるとも思えない。人目にさらされて育ってきた皇族、特に興味本位に書かれがちな皇族女子については、もっと戦略的に積極的に守る広報体制を取るべきではなかったのか。

 具体的には、誤報があるたびに、ナルハヤで「違います」と合理的な説明を公表することだ。「被害者ノート」にも書いたことだけれど、誤報を打ち消すには、質のいい情報を当事者側がタイミングを失わずに早く出すことに尽きると私は思っている。そうすることで、誤報は力を失い、伝播しないと考える。

 そこでぐずぐずしてしまうと、「本当はどっちなんだろう」と迷う人までも最初に触れた情報の刷り込みで信じてしまうかも。訂正は迅速に、が肝だと信じる。

 宮内庁のホームページを見ると、「皇室関連報道について」の一番最近の項目は「週刊新潮12月24日号の記事について(令和2年12月18日) - 宮内庁 (kunaicho.go.jp)」なので驚いてしまう。昨年の話だ。この報道については上皇后さま関連なので、宮内庁も公式に反応できたのだろう。

 その報道前も以降も、眞子内親王の結婚に関連しては、山のように報道されてきた印象がある。でも、公式には反応できない範囲なのだろうか? 眞子さんご本人のコメント掲載ぐらいできたのではないか?

 誤報の1つ1つが、当事者の胸には突き刺さっているはず。立場上、女優さんのように内親王SNSで反論もできないのだとしたら、宮内庁が丁寧に火の粉を払う役割を代行するしかないはずだ。それが宮内庁には法規定でできないとしたら、できるようにするべきだろう。

眞子さんだからできた

 結婚会見は、下手を打ったようにも見えるが、今までの人生でいたぶられてきた思いがあるからこそ、眞子さんご自身が前に出て自分の気持ちをはっきり言いたかったのだろう。朝ドラの「おかえりモネ」でも言うように、人の痛みは当人にしか本当にはわからない。完全には代弁できないのだから。

 世間的にうまくやろうと思えば、病気を理由に眞子さんご自身は会見に出ないで小室さんだけが腹をくくり、誤報についての説明を記者にとことんすれば一番良かったかもしれない。弁護士になる人なのだから、それぐらいチャレンジしてほしかった。

 今後、渡米までにそれができるなら勝手ながら見届けたい。成功すれば、弁護士としても大いに株が上がるだろう。

 しかし、もし小室さんだけが会見していたら・・・それでは皇族女子が軒並み精神を病んできた惨状を、世に問えない側面があるだろう。眞子さんが表に立つのがインパクト的には必死さが伝わり、一番だった。

 振り返ってみると、お気の毒にもこれまで散々傷つけられてはきたように見えるけれど、メンタルをやられるまでには至らなかった皇族女子は(表に出てないだけの可能性もあるが)内親王までで考えるとサーヤこと黒田清子さんと紀子さま、佳子さまぐらい? 上皇后失声症、皇后は適応障害、少し前には愛子さまガリガリに痩せてしまった時期があったが、こちらの目には勝手ながら拒食症に陥っていたように見えた。

 惨憺たるありさまだ。娘がいたぶられていたのを見てきた紀子さまは、診断は下っていないまでも心はズタズタだろう。他の皇族もそうだ。

 眞子さんは、自らの複雑性PTSDの例を考えれば、姉としては佳子さまの行く末が本気で心配だったはず。それで、ご自身が晴れて民間人になった記者会見で、「怖い」と言われようが、ぴしゃりと言うことで問題提起して現状を変えたかったのではないかと、記者会見を見ていて感じた。

 あそこまで言わねばならないほど、皇族女子は追い詰められているのだと思う。(いや、男子であってもそうかもしれない。)もう限界だ。

 人権侵害同然の報道ぶりを受けても黙っていなければならなかった彼女たちの中で、これが言えるのは誰だろう。他でもない、生え抜きでしっかり者の長女・眞子さんだったのかもしれない。

 ちょっと、安倍晋三元首相の「あんな人たちに負けるわけにはいかない」的な敵味方を隔てる(というか、国民を敵視する)ニュアンスがかなり醸し出されてしまったのが残念だったけれど。もうちょっと宮内庁が頑張り、良い印象になるように文案についてはじっくり相談に乗ってほしかった。

内親王名誉毀損で告訴できないのか?

 ただ、宮内庁が既に信頼を失っていた可能性は高いだろうなあ・・・あのHPの記載では。「頼りにならない」と、私なら思ってしまうだろう。宮内庁にも、効果的に守ろうと動くには「武器」が足りない。

 女優さんたちや一般人は、やろうと思えば、刑事上は名誉毀損罪で相手を告訴し、民事上でも「慰謝料請求」という形が取れる。(ただ、慰謝料額がビックリするほど安いので、書いた出版社側は痛くも痒くもない額を笑って払い、また同じように書く。これではイタチごっこにしかならず、被害者の泣き寝入りを生む環境。それを改善するためにも、慰謝料額は何とかならないかと思う。)

 皇族にはハードルがありそう。手元にある古い六法で刑法232条を読んでみると、第2項には「告訴をすることができる者が天皇、皇后、太皇太后、皇太后又は皇嗣であるときは内閣総理大臣が・・・代わって告訴を行う」とあるので、普通の親王内親王、王、女王はほったらかし(!)らしい。

 あれ?上皇さまは?ネットでも条文を確認したところ、やっぱり漏れてますよ💦(刑法 | e-Gov法令検索上皇さままで、ほったらかしとは・・・。

 そうすると、親告罪である名誉毀損には告訴が必要なので、内親王は自分で告訴をしてもいいのだろうか? そこが不明だ。告訴できなければ、最初から刑事事件にはできない。民事上も、一般人や女優さんたちのようには原告にはなれないのか?

 そこらへんはどうなっているのか、憲法皇室典範を読んでもわからなかった。

 内親王が刑事も民事も法廷闘争には関われない、国からもほったらかしだとしたら、ひどい話だ。皇族を離脱しないと何も言えないのか。

 不敬罪をそのまま復活させるわけにもいかないだろうから、名誉毀損の条文を少しいじって、親王内親王、王や女王を含む皇族に関する規定をきちんと設けるべきではないか。つまり、天皇と同じように、その他の皇族を守れるよう代理して国が戦えるようにする規定だ。

 そうでなければ、丸腰に等しい皇族女子を守り切れないのではないか? 素人考えだけれど。

 皇室典範を改めて見てみると、「皇族の身分の離脱」は内親王はもちろん、親王でも皇太子・皇太孫を除けば理論上はできるらしい。つまり、今なら悠仁さまでも皇太孫ではないから離脱できるのか。

 みなさんが「せーの」で一斉に皇族を離脱して逃げ出す事態になる前に、もう少し敏感に宮内庁がお守りできるよう、法整備をするべきだと思った。

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「おかえりモネ」支える側に立つ覚悟

話すことは、だいじ

 NHK朝ドラ「おかえりモネ」が佳境だ。人の気持ち、傷つきについて誠実に取り組んできた見ごたえのあるドラマだと思う。

 私はいつも、前作の余韻に引っ張られてなかなか新作朝ドラに入って行けないようなところがあるのだけれども、今作のモネの場合、オープニング曲が気に入ってしまって、毎朝あの曲を聴きたくて見始めがモタモタせずに済んだ。音楽の力は偉大だ。

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 それなのに・・・主人公は「音楽なんて何の役にも立たない」と序盤で言い放っていた。こちらも最終回までに回収してくれるかな? 脚本のすばらしさを日々感じているので、きっと音楽の力にもさらに言及するラストになってくれると信じたい。(追記:元アリキリの石井正則さんのホルンエピソードがいまいち私にはパンチが足りなかったので。)

 それにしても、東日本大震災の被災者の苦しみに真っ向から取り組んだというのは、やっぱりあれから10年ということなんだろう。区切り的な。それで被災地が舞台の朝ドラ制作が決まったのかと思う。

 ただ、周囲が勝手に○周年だ、区切りだ区切りだ言いたがっても、例えば被災者・被害者本人の心境からすると、ただ年数を重ねて○年になった、それがどうした?と感じる人も多くいると常々感じてきた。何も変わらない、苦しいまま、ということだ。

 もちろん、そうでない人もいる。人それぞれだ。

 そんな風に区切りを付けたがる周囲の空気が圧力になることもある。大事な人を失って粉々になった心をようやく繋ぎ止めて、どうにかバランスを保っているところに余計な傷つきを避けたいのは当たり前のことだ。

 だから、踏み込んできそうな相手には「大丈夫、あっちに行って」と笑顔でバイバイして遠ざけたくなるんだろうなと思う。亮親子のように。

 信頼していただいてお話を伺うのは大変なことだと、私も緊張する。相手を気遣う優しさがあるからこそ、簡単には心を開いてもらえるものではないともいつも感じる。

 でも、口に出すことで、いっぱいだった頭に余裕ができて、ぐちゃぐちゃだった考えが整理できる。思わぬ視点に気づくこともできる。心の内を話すことは、新たな道を見出すためには必要なことだと、私は信じて精神対話士の資格を取った。

地元を支えたいモネ

 脚本家の安達奈緒子さんは、絶対に支援の基本を執筆前に学んだ人だろうと感じる。

 対人支援に少しだけ関わってきて煙たがられてしまったこともある私は、時々痛いところを突かれる思いで見ている。被災地にボランティアに来ていた大学生の姿に、自らの苦い失敗を重ねて思い返す。

 私の場合、体力が足りなかった。病気ばかりで。そうすると、寄り添いたくても傍にいることができない。相手の期待に沿えないのは心苦しい。

 モネは、しぶとく、ちゃんと苦しさを突き抜けて被災地の支援者として踏みとどまれるかどうか、問われている局面にあるけれど、もう光は見えているような気もする。ともするとベテラン支援員さんかのような振る舞いにも既に見える、落ち着きもモネにはあるのだし。

 宇田川さんに寄り添う東京編での大家さんの菜津さん、りょーちんの傍に居続けたみーちゃん、もちろんふたりとも中途半端にできないけれど、男女の関係性が「恋愛」として理解され、周囲にも受け入れられやすく、応援されやすい側面はあるのではないか。

 でも、モネの場合。東京でテレビに出ることで、地元から認識されやすい成功者になってしまった。毎日、テレビに出ている気象予報士の人気ぶりは、スタート時の朝岡さんが登米で歓待されていた様子や、母・亜哉子さんが「モネが地元に帰れば島中の船に大漁旗が上がる」みたいなことを言っていたことからもわかる。

 「地元の誇り」に近い存在になってしまったのだろう。普通の朝ドラは、この東京での成功でめでたしめでたしとなるのではなかろうか。登米から東京に戻った菅波先生と結婚してのハッピーエンドを想像するところだ。

 ところがモネは、その立場を捨てて地元に帰ってきた。地元はガッカリだ。「何なの?」と地元スターの東京での活躍を少なからず応援して期待していた地元民は、モヤモヤ思うだろう。恵まれた立場を理解せず簡単に捨てたように見えるモネに、反感すら覚えるかもしれない。

 「なんで帰ってきちゃったの?」との市役所の課長(山ちゃん)の反応や、三生の言葉「モネは東京にいた方が良かった」にも、モネの「地元にいて、地元に貢献したい」思いへの理解の薄さが滲んでいる。

 その分かりにくさを突き破るには、そこに共に居続けて、行動によって徐々に理解を得て馴染んでもらうしかない。

 ドラマでは、りょーちんが乗った船が嵐に巻き込まれ、その危機を脱するのにモネの気象予報士としての「科学的データの集積とそれを分析する力」が寄与した。それによって、周囲との軋轢は、解消の方向に大きく1歩前進した。

 やっぱりそこで、信頼を得て誰かの力になるためには、ただただみーちゃんや菜津さんのような男女関係に落とし込めるような関係性や、三生が指摘した市役所、お寺さん、漁師、水産試験場といった既存のわかりやすい組織や職種に属さない場合、「そばにいること」だけでは反発されてしまって、なかなか貢献までに道が開かずダメなんだよな、と思う。

 そこで「私は気象予報士です。気象のことはわかります」と胸を張って言える国家資格があるからこそ、モネも踏みとどまれたんだろうし、単に「若いねーちゃんがグジュグジュうるさいことを言ってくる」のが我慢ならんぐらいに感じていたように見える漁業長以下の漁師たちも、まあ聞いてみるかと耳を傾けることになった。

 全面的な信用を勝ち得た訳じゃない旨は、告げられていたけれど。そこは相手のプライドは大事。尊重しないといけないけれどもね。

家族を支えるモネ

 第110話「嵐の気仙沼」でのみーちゃんとりょーちんの決着には、ホッとした。しかし、ふたりの話し合いにモネが関わったことについて、ネットでは「みーちゃんがモネに全部言わせている。自立していない」とか、「モネに依存したふたりは、何かあるたびにモネのせいにしそう」とかの意見があった。

 しかし、りょーちんの被災者としての複雑な葛藤を乗り越えるためには、当事者のみーちゃんだけでは何ともならなかったと思う。当事者だけで全部解決できるものではないのだから、客観的に物が見えている支援者(モネ)が、適切にサポートすることで道が開けるなら、それでいいじゃないの、と思う。

 支援に反発する人がいる(母がそうだった)が、支えあいは生活の知恵であって、恥ずかしいことでは全くない。困った時はお互いさまなのだから。

 人間関係を上下関係でとらえたがる人だと、支援を受けることは自分が弱い立場に立たされることであるかのように受け止めてしまうようだ。支援者に対して「偉そうに」「上から目線」と反発する人までいる。

 そうじゃなく、横の関係での支えあいとして、大らかに考えてもらいたいと思う。

 ところで、「ベテラン支援員さんかのよう」と私が感じたモネの立ち振る舞いは、みーちゃん相手に際立っている。近しいだけに、身内相手の支援は難しいのに。

 モネは、物語序盤でみーちゃんの「お姉ちゃん、津波見てないもんね」の隔てを置く言葉に動揺した(それは当然のことだ)。それを恨むことなく、みーちゃんのつらさを受け止められなかったことを悔やむことができるモネは、さすがNHK朝ドラの主人公だと思うキャラ設定だけれど、さらに、その言葉をバネに、今やみーちゃんに「何でも持ってるじゃん」等と言葉のナイフを投げられても、足を踏ん張って本音を引き出し受け止められるまでに成長している。

 ベテランさんというか、いや「絶対今度こそ支えるぞ」のモネの覚悟がすごい。みーちゃんへの姉妹愛の強さを想う。

りょーちんの背負ったもの

 りょーちんのつらさにも触れたい。

 家族に被害があった場合、それぞれが苦しさを抱えているにもかかわらず、ひとりで一方的に家族を支える立場に立たされてしまうと、自分の被災者としての苦しさを抱えたまま心に蓋をすることになる。そのつらさは、半端ではない。

 つまり、りょーちんは、自分でも被災して母親も亡くしている遺族なのに、「お父さんをよろしくね」「お父さんを支えてあげてね」と、周囲からの良かれと思っての残酷な言葉をかけられ続けたことは想像に難くない。

 それによって、支援者の立場に否応なく押し込められてしまった。

 もし言葉で投げかけられていなかったとしても、少なくとも「あそこは親父が壊れてしまったけれど、息子が頑張ってるから大丈夫だろう」と大いに期待をかけられ、それをヒリヒリと感じてここまで来たのだろうと思う。

 被災地であれば、みんな、自分のことで精一杯。そこで助けを求められる状況ではなかっただろうし。

 ありがちなことだ。「おかあさんをよろしくね」「あなたがしっかりして、おかあさんを支えてあげてね」と言われ、事故で子どもを亡くしたり、パートナーを亡くしたりして悲しみに暮れる親を支えようと、生き残っている子が頑張ってしまうことは。

 その子だって、大きな悲しみを抱えて支援が必要な遺族なのに、周りには都合がいいから、それが忘れられている。つらすぎる。

 だから、りょーちんの場合、第一段階で優秀な支援者モネが「大丈夫」の呪縛を解き放つことが必要だった。さらに第二段階で、幸せになることに逡巡する呪縛を、みーちゃんが蹴破る(実際は亮ちんの手を取る)ことで、ようやくふたりの未来が見えてきたのではないかなと思いながら見ていた。

 最後のシーンは、本当にみーちゃんの横顔がこの上なく美しかった。いつも伏し目がちな彼女が、真っすぐりょーちんを見つめて。彼の顔に光が差していく演出も、にくいなと思った。二人に幸あれ、だ。

 まだ、終わりまでには一波乱も二波乱も控えていそうだ。登米の楽しい森林組合の皆さん、サヤカさんにどんな結末が待っているのかが個人的には気になっているのだけれど、モネと、不器用だけれど誠実な「俺たちの菅波」との、幸せな未来を示唆する物語の終わりを期待している。

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変化しかなかった10年間

はてなブログ10周年特別お題
10年で変わったこと・変わらなかったこと

 はてブロの10周年企画に乗っかって書いてみるのも面白そう。10年を振り返ってみると、まず2011年の東日本大震災をきっかけに引っ越したことが大きな変化だった。家族との死別もあり、長くチャレンジしていた活動の挫折もあった。

 心境の変化もあり、この10年で変わらなかったことを見つけるのはちょっと難しいくらいに感じている。

仕方なかった引っ越し

 震災は、都内に住んでいても大きな変化をもたらした。自宅はまだ5年ぐらい前に大々的なリノベーションを施して住み始めた「猫御殿」マンションだったが、その自宅を出ることになってしまった。

 実は、外側の建物は前回の東京五輪の頃に建てられた代物だったので、いくら内部をきれいに設えようが、震災で大いにボロが出たのだった。

 建物出入口上の外壁タイルは剥がれ落ちた。その他も、あちこちのヒビ。それまで見ないようにしていたかもしれない耐震性にも、大きな不安を持つようになった住人が多かった。かなり揺れたことで、命の危険を感じたからだ。

 自宅も、キッチン床の大理石タイルが棚から降り注ぐ食器類で傷だらけになったし、当然食器も粉々になった。それは先日書いた通りだ。

toyamona.hatenablog.com

 最新の免震タワーマンションに住む友人に聞いたら、あれだけ私が恐怖を感じていた間に「ちょっと揺れたかなぐらいだった」と言っていた。やっぱりこの建物は、「当時にしたら、かなり頑丈にできてますよ。不動産会社の社長が住んでいたぐらい安心な建物で」と不動産屋さんがいくらアピールしていたとしても、古いものは古い、それなりの性能なんだと思い知った。

 そんな住人の浮足立つような不安を見越して、近隣のマンション3つを合わせて1つの大きなマンションに建て替える話がデベロッパーから持ち込まれた。

 建て替え話はあっという間に進み、そこがペット不可になると聞いて、愛する猫のために否応なく他に引っ越すことが決まったのだった。

 たった5年前に大金をはたき、猫ステップを設けるなど自分たちの望むとおりにスケルトンリフォームをして、古いけれど味のある、猫も楽しい住処に住み始めたばかりのつもりだったから、本音では未練タラタラ。業者とのやりとりは不信感で一杯、初めて自分たちのために弁護士にも相談した。

 「業者も仕事なんだから」と平静になろうと努めたが、仕方ないこととはいえ不愉快な経験もした。

 気に入った自宅が取り壊されるにあたり、建物からはできるだけ移動できる建具を新居に持ち込み、また同じような無垢材と漆喰を使ってのリノベーション工事を同じ施工業者にしてもらって、2012年3月末に引っ越したのだった。

 少し広くなり、猫型息子のステップも形を変えて復活。作り付けの棚やロフトも同様に。気に入っていた木の扉は、すべて持ってきた。青いバスタブとサヨナラしたのは残念だったが、おおむね同じような家になったことで、猫型息子も安心しただろう。

 山手線の内から外への引っ越しとなり、深呼吸のできる空気を得たのは田舎育ちの私にはうれしかった。建物の前後に余裕があるので日当たりも風通しも良くて、住環境としては安全で申し分ない。ちょっとお店関係が寂しくなったかなというのは、残念ながらあるけれど。

 終の棲家として良いところに引っ越せたと、今は事の成り行きに感謝している。

変化ばかりの10年

 その他、この10年間、父を事故で亡くしたことで裁判などの手続きを当事者として経験し、人の裏表もまざまざと見せられ、支援者としての活動に対する心境の変化もあった。コロナ禍の開始のタイミングで、家族の大きな支えだった愛猫も闘病の末に死んでいった。

 自分の持病も悪化したことで仕事も開店休業、生活も内に内にと閉じて行ったが、追い打ちとなったのが、コロナが席巻したことだった。

 でも、コロナによって社会が止まった期間、私はゆっくり療養に専念できた。今は幸いにして体調も回復してきている。

 そして、この10年、支えてくれた家族や友人等への信頼や絆は深まったと思う。

 新たなチャレンジも始めた今後の10年は、どう閉じた生活から変わっていくだろう。次の10年間、無事に生きているかもわからない。やりたいこと、延び延びにしてしまった、やらねばならないこともある。

 限りある人生、家族友人自分を大切に、楽しんで行こうと思う。

間違いを上塗り?ごめんね息子

目安箱とクロスケ

 オリパラ東京2020大会のためにNHK大河ドラマ「青天を衝け」が休止になっていた頃だと思うが、その頃、見た夢は楽しかったな、と今日になって思い出した。夢には、息子クロスケと、目安箱と、民部公子(徳川昭武)が出てきたような気がする。

 夢を見たのは、休止中だったドラマの録画を見たのと、徳川吉宗アメリカの歴史の教科書に2ページも割かれて長い説明が載ってると家族に聞いたことも、たぶん影響したのだろう。

 舞台は江戸時代だったのだが、着物姿の私は、普通にクロスケを大事に大事に抱きかかえていたような・・・目安箱に何かを書いて入れに行ったような・・・息子と。

 目が覚めて時間が経つと、どんどん内容を忘れてしまうのが残念なのだけれど、楽しい気分だけは起きても残っていたので、よほど楽しかったのだろう。こういう夢は大歓迎だ。

 毛並みの良い息子をたくさん撫でる自分の姿を、断片的に思い出す。そう、息子を思い出すのは基本的に楽しいのに・・・やはり、不意打ちを喰らうと辛かったりする。

 先日は、新聞に挟まれている折込広告にやられた。

 その広告には、ある場所に作られるという、いわゆる高級老人ホームが掲載されていた。どこだろうと思って地図を見たら、息子がお世話になっていた動物病院の近くだった。

 ドキーンとした。

 動物病院までは載っていなかったけれど、いつも苦しい泣きそうな思いを抱えて息子と通った道が、地図にはあった。もうそれだけで、息子につらい思いをさせた後悔がドッと襲ってきてしまう。

 ことごとくと言っていいほど、私は大事な選択を間違えてしまったような気がしている。息子をできるだけ苦しめずに天寿を全うさせたかったのに、初っ端から間違えて、引き返せない苦しい闘病生活を送らせてしまった。

 それは、これまでもブログに記した通りだ。

息子が強制成仏?

 その後悔を、上塗りするようなことをしでかしてしまったかもしれないと、最近気づいた。あるコミックの存在を知ったからだ。

 「視える」能力をお持ちの占い師・流光七奈さんの原作で、七奈さんが亡くなってしまったダンナさま「ハカセ」と、3回忌に成仏するまでは普通に同居するように暮らしていた(!)という、俄かには信じがたい驚きの内容が、この『ダンナさまは幽霊』には書かれていた。

 私にとって一番の驚きだったのは、このシリーズの「霊界だより」というバージョンの中で、亡き猫の霊が、お線香が自分のために上げられているとわかると、煙に乗って「強制成仏」してしまうというくだりだった。

 「愛するペットを亡くし良かれと思ってお線香を焚く・・・その煙が自分のために焚かれた煙だとわかると・・・本当はまだ大好きな飼い主のところにいたいと思っている子も強制成仏しちゃうんだよ」

 その猫ちゃんが、まだ成仏しないで一緒にいたいと思っていても、お線香で成仏させられてしまうので「死んだ子に線香電話を使うときは注意することがあるんだ!」と成仏したハカセが「あの世」から七奈さんに注意を促していたのだ。

 お線香を上げながら地上から声に出して気持ちを言うと、成仏した人間にはその内容が伝わるという機能があり、それが「線香電話」。

 七奈さんの場合は、成仏したハカセとやりとりできる能力があるため、その「線香電話」は一般人のように一方通行ではなく、双方向になることがまた驚きポイントではあるのだが・・・私は猫が強制成仏させられてしまうというその一点に、ドーンと衝撃を食らった。

 えー、だってお線香どころか、先日だって息子クロスケのための彼岸会に参加してしまったよ、私・・・。

 その後は、息子を夢にも見ないし、気配もない。ずっと一緒にいたいと思っているのに、息子を大事に思うから法要にも参加したのに、無理やり息子が望まない形で成仏させてしまったということになるのだろうか。

 法要の様子は、こちらで書いた通りだ→ ばれちゃったかな? - 黒猫の額:ペットロス日記 (nekonohitai.tokyo)

 ということは、イヤイヤしている息子が、成仏していく様子が子どもたちの目には見えてしまって、驚いてガン見していたのかな・・・。

 なんてことだろう。無理やり成仏させてしまって、息子がひとりで寂しい思いをしていたらどうしよう。息子が死んだ後まで、やることなすこと私は間違えているのか。

 コミックの続きでは、「強制成仏した子たちが不幸ってことじゃないんだよ」とハカセが説明する。

「もちろん次に生まれ変わる準備に入るよ。この世に未練がない子は(自分から)すぐに成仏してしまうしね。生まれ変わりは早い子も多いけど、飼い主さんに合わせて待っている子もいるみたい」

 悲しいかな、霊界については真実はどうなのか、全くわからない。でも、このコミックの通りだとすると・・・できるだけ息子を待たせないようにしたい。それだけだ。

 ごめんね、息子。

地震と息子

 地震があった。ニャンコたちがとても心配だ。イカ耳になったり、シッポを膨らませて警戒する猫がいるかと思うと、腰が抜けたニャンコもいるようだ。怖かったのだろう。家族のところで飼っている4匹のニャンズは、姿見が倒れ物が落ちた部屋の中を、恐怖に駆られてワーッと走り回っていたそうだ。

 うちの亡きクロスケも、地震後にはとてもビクビクしていたから、それを思い出している。東日本大震災の時には、私は少し離れていたもののちょうど家にいて、息子がひとりではなかったのが本当に良かった。息子がコタツの中で寝てくれていたのも助かった。

 あの大震災の揺れは長かった。なかなか息子のそばに行けなかったので相当怖かったらしく、後から見たら、コタツの敷布に息子がしがみついていた部分が冷や汗で濡れ、しっかり4つの肉球の跡が染みになっていた。

 私はキッチンにいて、テーブルの下に飛び込んだ。

 キッチンでは、揺れる方向がぴったり合ってしまったらしく、オープンな食器棚からかなりの数の食器が、揺れの波が来るたび、タイルの床へと降り注いだ。床は傷だらけ、陶磁器は粉々だった。

 「あー、あれをクロスケが踏んだらケガしちゃう、大変だ」と思いながら、私はテーブルの脚をつかんで一緒に跳ねるように揺れて、為す術もなく食器たちの落下を見ていた。揺れが収まってからは一番に床の破片を片付け、それから息子を探してコタツにいるのを見つけた。

 あの震災は、しばらくの間は余震続きで、テレビや携帯の警報が鳴ることが多かったように思う。息子は警報のせいでビクビクと神経質なまま。私も、めまい持ちだったから何となくずっと揺れているような、船酔いが続いているような状態になった。

 それで、その年の春休みの家族旅行は関西に足を延ばした。それが大正解だった。

 息子の安心の場となっていたコタツも持参することに決めたので、旅館では驚かれてしまったが、まずは家族全員がゆっくり眠って心身を休ませ、その後、忍者屋敷やお城巡りを満喫した。1週間近く同じ宿を拠点に関西にいたおかげで、息子も含めてみんなが落ち着き、それから帰ることができた。

 クロスケはあちこちに旅行に行ったが、あの関西旅行は、クロスケが行った旅の中では一番遠距離だっただろう。

網戸が無かったら

 今、地震が徐々に増えてきているように思うので「南海トラフか」と思うと不気味だが、東日本大震災前にもかなり揺れた地震があり、ヒヤリとしたことがあった。

 あの時、網戸が無かったら、息子は2階の窓から飛び出してしまっていたのではないか。その時いたのは親戚宅で、窓側の建物下は崖だった。

 地震だ!と揺れを感じた時に私も同じ部屋にいたので、クロスケは明らかに私の方に飛んできて抱きつこうとした。私も「クロスケ!」と名前を呼んで、息子を抱っこしようとした。

 けれど、その時、隣にいた幼い甥が「怖い!」と言って私に抱きついた方が早かったのだ。

 (ああクロスケ!)と内心では思っても、もちろん、甥を振り払うことなどできるわけがない。私も甥を抱きしめ返して「大丈夫だよ」と守りつつ、息子のことは目で追うしかなかった。

 甥が私に抱きついたのを見た息子は、一瞬びっくりしたような目をしてからクルリと方向転換、慣れない親戚宅で行く手に迷った挙句、開いていたように見えた窓に向かって走り出し、バーンと大きな音を立てて網戸に衝突した。

 その場にいた一同が今度はその音に驚いて、「戸を閉めてください!」と叫ぶ私の声に応えて、クロスケを逃がさないように動いてくれた。

 あれは本当に怖かったけれど・・・今思うと懐かしい息子の思い出だ。あの後、自宅に戻る車の中で、抱っこされていた息子はかなりホッとした顔をして甘えていた。

 あのとろけるような息子の顔を、いつの日かまた見たい。

 

きょうは月命日、ブロガーさんにも合掌

息子の重みはどこへ

 今日は、亡き息子の月命日。数えてみると、20回目だ。

 もう、そんなに経っていたのか・・・今でも私は、そしてどうやら家族も、息子とまだまだ一緒にいる気でいる。

 毎晩、以前いつもそうだったように、寝る時には息子に「寝るよー」と声をかけている。息子は専用のステップを駆け上がり、ロフトの上で私と寝たものだ。

 息子は、私の掛布団の上の足元というか、私の膝を枕にして寝ることが多かった。そうやって18年の間に、私はいつしか左膝が痛くなった。

 その後、膝にけがをした時に思わぬ重症になってしまったのも、もしかしたら、毎晩の重みの積み重なりが影響したのかもしれない。

 あんなに小さい猫の頭が載るだけなのに、大したインパクトだ。

 寒い時期は、息子は両足に挟まれるようにして寝たがるので、こちらは自由には寝返りもできなかった。

 だから、息子を起こさないように、そーっと足を抜いて姿勢を変えるようにしていた。それでも息子は、目が覚めてしまうのがほとんどだった。夜中にトイレに立つときは、寝ぼけ眼の息子に「そのまま、そのまま。すぐ帰ってくるから」と後をついてこないように言い聞かせた。

 お年寄りニャンコになっていくにつれ、布団にそのまま寝て待っていることが多くなったが、ドアを開けるときちんと座ってこちらを見上げニャーとひと声、迎えに来てしまっていることもあった。

 そうすると、息子を抱きかかえてまた布団に戻る。息子は早く横になって定位置になれ、急げと催促するので、息子のベッドとなるべく慌てていつもの姿勢を取ると、息子はノシノシと布団に乗ってきて眠るのだった。

 今でも、私は寝る時にその姿勢になっていることが多い。息子のスペースを自然に空けてしまう。

 その格好になってから、いつもの通り「いいよー、おいで」と言う。そうすると、膝の周りにフワッと乗ってくるような、息子の重みを感じるような気がしていた。

 もちろん、布団の重みをそう感じているだけかな?とも思っていた。本当に息子が帰ってきているのだとしたら、うれしくてたまらないけれど、現実には息子の姿はもうない。

 しかし・・・最近、布団に重みを感じないのだ。フワッと乗ってくる感じがしないのだ。今日も、何か遠い感じがしてしまうのはなぜなんだろう。

 先日の彼岸会で、息子のあちらでの幸せを祈った。よくわからないけれど、お坊様たちも息子の成仏を祈っているのだろうし、だとするとそうそう私の膝に来て眠ることなんか、もう無いのかもしれない。

 息子の幸せはうれしいような、けれどやっぱり寂しいような。結論として、早くあちらに呼んでくれないかなと思うのだった。

あるブロガーさんの死

 でも、息子が天使だとすると、その地位に見合うような、息子に会えるような行いをして死を迎えないと、せっかくあの世に行っても息子は立場があまりにも上で、会えないかもしれないと心配にもなっている。

 つまり、修行が足りないのではないかとの漠然とした不安だ。こんな未熟を絵に描いたような人間だから、息子に恥ずかしくないように、しばらくは頑張って生きないといけないような気がしている。

 ただ、自分よりも若くに命を落とす方を見てしまうと、軽々しい気持ちではなく、代わってあげたかったとやっぱり思ってしまう。

 先日、ずっと拝読していたブログを書いていた、45歳の女性が亡くなってしまった。まだ小学生低学年のお子さんもいる。

 ご自身の病気の記録のため、そのブログを始められたそうだが、病気のことをまっすぐに書いているにもかかわらず、その文章は温かく、爽やかで、清らかささえ感じるものだった。

 だんなさんのこと、お子さん方のことを本当に愛しているし、周りに感謝していることが伝わってくる。亡くなってからだんなさんの手によって掲載されたラストメッセージには、「寿命を生き切った」ことが記されていた。

 お子さんたちのことは、だんなさんに任せて。そのだんなさんを信じている、息子さんたちのことも信じているからそういう心境に至ったのかもしれない。

 そう達観されている文章を拝読して、本当に本当に余計なことだとは思いながらも、お子さんたちの将来をそばで一緒に見守ってほしかった、できれば代わってあげたかったと思ってしまった。まだ45歳だもの。

 もちろん、願ってもそんなことが実現できる力は私にはない。

 45歳以降の自分を振り返ってみると、体調も徐々に回復してきて頼まれて本を書かせていただいたり、まったく及ばない、不十分ながらもボランティア活動もさせていただいた。

 息子もかわいい盛り、元気な息子と旅もした。たくさんの幸せを息子にもらいながらの生活は「幸せの絶頂だね」と家族で話をしていた時期だった。

 でも、それも息子がいてこそ。息子を見送ってからの1年半の生活は、家族とカラ元気を精一杯連発しあって生きている感じが否めない。

 きっと、あのブロガーさんも幸せな瞬間がこれでもかと訪れる時期に入っていたんじゃないか。45歳はもったいなさすぎる。あんなにも素敵なママなのに、お子さんたちも悲しくないわけがないと、勝手ながら想像する。

 「生き残った者には、やらねばならない勤めがある」と、NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、主人公・渋沢栄一が、早世した従兄・尾高長七郎に夢の中で言われていた。

 そう、きっちりやり遂げなければならない、やりかけのことは私にも確かにあるんだけれど・・・世の中、うまくいかないものだ。

 ブロガーさんに合掌したい。

ばれちゃったかな?

 シルバーウイークもあっという間に過ぎていく。私の物事を忘れるスピードも年々速度を増しているので、忘れる前に先日のペット彼岸会についても書かねば。

 前日の散歩で疲れ切ったかと思いきや、筋肉痛もなく、無事に彼岸会の催される寺院に行くことができた。と言っても、車で。

 10時からの会なので、入れるのは9時半からだそうだ。少し早すぎた。コロナ禍ならでは、まだ会場に入ることはできないのだった。

 日差しがしっかりあったので、駐車場の車中で待つことに。車は日陰に移動した。

 そこは「前向き駐車」と大書きしてあり、正面には今まで気づかなかった石仏がすっくと立っていた。それで前向き駐車・・・縁起が書いてあるが、車中からは読めそうで読めない。

 法要に来ているのに、車を降りて読もうともしない私。その程度の態度じゃ、有難い法会に参加しても、ねえ。まさに馬の耳に念仏か。

 あの世の存在は信じているけれど霊感もなく、私はお世辞にも信仰心が篤いとは言えない。毎日、お経をあげているわけでもない。

 それでも、亡き息子のためだと思うと、こうやってノコノコと法会には来る。自分の知らない世界に息子がいるのなら、誰かに祈って息子のことをお頼みするしかない気がするからだ。

 死に際の豊臣秀吉は、誰かれ構わず秀頼のことを頼む頼むと言っていたというが、それを私は一つも笑えないのだ。息子のあの世での安穏を保証してくれる誰かが欲しい。

 猫など動物の守護をしてくれるのは馬頭観音(!)という観音様なのだそうだ。「馬の耳に念仏」なんてさっき書いてしまったが、皮肉でも何でもないです。偶然です。

 ググってみたところ、柔和な顔をしている観音様方の中で、馬頭観音だけは怒髪天を衝いた憤怒の形相をしているという。

 だけれど、こちらの馬頭観音の仏像には、犬がまつわりつき、猫も膝でリラックスして、いかにも優しそうな表情をしておられる。

 優しいお顔の観音様でよかった。ビビりの息子が怖がっちゃうものね。

 時間になり、手指消毒を入口でしっかり施されてから会場に入った。参列者は先に焼香を済ませ、ひとりずつ1メートル程度は離れた席に着席。椅子の背の部分には、後頭部を覆うような透明のカバーが張ってあった。

 前列や後列とは、互い違いに座る。全体としてみると市松模様に見えるのかな。

 私の斜め前にはまだ学齢前の女の子がひとりで座っていたが、お坊様たちが入場してくるころには近くに座る家族との賑やかなおしゃべりも静かになり、隣に座っている(たぶん)おばあちゃんに抱きついて、完全に寝てしまった。

 お坊様方の朗々とした美声のお経は、きっと子守歌のように気持ちが良かったのだろう。コーラスをおやりになったらすごいだろうなあ。

 こんな心の持ちようでは、法会中に眠りに落ちた幼子と大して変わらない。反省しつつ、暗くなった会場でお経を有難く聞きながら、私もとにかく息子のあの世での幸せを祈った。

 その間、息子が降りてきて私の膝に乗っているような気がしてきて、右手は息子をいつも撫でていたように、ほんのちょっとだけ軽く動かしていた。エアなでなでだ。

 そうしたら、いきなり強烈な視線を感じた。

 通路を挟んで横並びの列の、一番遠い端の席。父親の膝に抱っこされて参列していた小学1年生ぐらいの女の子が、わざわざ伸びあがってこちらを見ていた。手前の、母親の膝の上にやはり座っていた弟らしいもっと幼い男の子も、こちらをじっと見ている。

 ふたり揃って、親にそれぞれ抱っこされている態勢から、私を「ガン見」していたのだ。

 「え?なんで・・・」と、気づいて面食らってしまった。私は決して、手を大仰に動かしていたわけではないのに。会場は暗く、遠い席から私が何をしているかなんて、わかるはずもないのだ。

 どぎまぎしてしまったが、しばらくすると子どもたちは、私から視線を外してお経の方に意識を向けた。

 女の子は手を合わせてしっかり拝んでいるところを見ると、日頃からご家庭で熱心にお経をあげているのかもしれない。

 男の子はお坊さんが木魚を叩くのに合わせてそれを生き生きと真似て、その勢いでお母さんの膝の上で座ったままちょっと跳ねている。法会が始まる寸前まで、むずがって体をひねったり伸ばしたりして抱っこしているお母さんを困らせ、お坊さんから「あちらへ・・・」と「ご案内」を受けていた同じ子とは、とても思えない。

 すごいなあ。取ってつけの私とは、信仰心の年季が違うようだ。私も亡き息子への気持ちだけは、間違いなくあるんだけど。

 やがて法会は終わり、退出の順序の案内を受けながら、その子たちは家族で先に帰って行った。

 あの子たちは、私のいったい何を見ていたのかな? 何だったのか・・・。私の膝の上のエア息子が、あの子たちには見えちゃった、ということにしておこう。

台風一過の散歩

 今日は快晴。台風一過、外に出てみたら雲が本当に1つも見つからないくらいの青空だった。

 自宅でじっと動かないままだと頭痛が始まってしまうタチの家族が、前日の連休初日にして「明日は散歩に行こう」と言い出した。洗濯機を回したままだったけれども支度をして、午前中に出かけた。

 目的地は、地元では大きめなS公園にしようと昨日、家族が言っていた。

 面倒くさがりの家族の言うことだから、出かけようと言われても、結局なんだかんだと用事に追われて出かけずじまいに終わることも多い。だから、私の方は前日の話も話半分に聞いていたし、朝から洗濯もスタートしていた。

 それなのに、予想に反して家族は出かける気満々だ。明日も出かける予定があるのになあ・・・息子の回復祈願をしてもらった寺院で、ペット彼岸会がある。そこに申し込んであるのだ。

 いつだったか、その公園には1度やはり歩いて行ったことがある。帰りは電車で帰ってきたのだったか・・・行くだけで1時間弱はかかるような気がした。

 玄関で、家族がいくぶん古めの地図の本を持ってきて道を確認していたので、私は「スマホの地図アプリは設定しないけどいい?」と聞いたらOKだという。それで、完全に家族任せで歩き出した。

 引っ越してきて10年近くになるのに、まだ周囲の道がすっかり頭に入っている状態ではなく、過去に迷った道を、また迷いながら適当に歩いた。そろそろベーグル店があるはずだったが、ここを出たら左にあるよね?と思ったら右だったり。うろ覚えもいいところだ。

 行くと閉店していることが多い、私とは相性があまり良くないこのベーグル店が珍しくもオープンしていたので、せっかくだから1つずつ購入。目的地の公園で食べようと思った。

 ここから先、もうしばらくすると途中に激安の店があったはず。そこで水を買おうと思ったが、がまんできずに目に入ったコンビニで買った。

 相変わらず、以前歩いた道のような気もするが、違うような気もして自信がない。「ここが○○だったら正解!」などと家族が持つ地図情報を頼りに、歩き続けた。

 前にあの公園に歩いて行ったときは、息子クロスケはお留守番だったんだ・・・帰って「どこに行ってたんだ!」と怒られたんだったか、どうだったっけ。

 考えてみると、よく息子を置いて出かけたものだ。よほど、歩きたかったのか。

 そんなことを考えて歩き続けていたら、そろそろK院があると家族が言う。息子が天国に昇って行った、ペット供養施設を併設している寺院だ。

 ああ、そうだった。昨日、家族が「公園に行くまでの途中にK院があるね」と言っていた。隣にあったお寺にお参りをしてなかったとか何とか言っていたような・・・「そこでお参りしてもいいんじゃない?」と私は適当に答えていたのだった。

 以前の散歩の際には、K院の存在は頭になかった。息子は元気で、まさか散歩途中に将来、息子を見送る施設があるなんて、考えもしなかったから。

 散歩自体、前日に話をしていた時には実現可能性が低いと見ていたくらいだったので、K院の出現にはちょっと心の準備が間に合っていなかった。

 曼殊沙華の咲き始めた広い境内には、夏草がまだ元気に生えているところもあった。剪定をしてあげたい!とYouTubeで最近はまっている園芸動画のにわか知識を振り回して家族と喋っていた時にはまだ良かったが、裏に回ってペット供養施設が目の前に見えてきた時には、急に涙が出て息が詰まる思いがしてしまった。

 ああ・・・ここだ。ここ。ここで息子に別れを告げたんだ。あの日も、今日の雲1つない空には負けるけれど、同じような真っ青な空だった。

 そう思ったら、胸がキューっと痛くなってしまった。ふさがっていたはずの傷口が、一気に開いたような・・・まだここまでの気持ちになってしまうことに、自分でも驚いた。

 この施設に来るのは、息子を送って以来、初めてだった。

 確か、この地域で猫の世話をしている団体の共同墓がこちらにあるはずだと思い出し、見てみるとすぐに見つかった。そこに手を合わせてから、たくさんのペット名の書かれた卒塔婆に囲まれた、大きな合同供養塔にも手を合わせた。

 こちらに供養をお願いしていたわけではないので、息子の卒塔婆は無い。

 施設の人が気づいて、「お線香を上げますか」と言ってくださったので、ありがたくお線香をいただいて、その合同供養塔にお供えした。

 たくさんの人たちが既にお参りに来ているらしく、お線香を上げようにも容器がいっぱいだし、まだ燃えている状態だった。気をつけて、端に入れた。

 息子を見送った日に比べると、なるほど人が多い。みなさん、お彼岸にペットの供養に来ているんだろう。

 家族は、満足したようで「もう帰ろう」と言った。「公園は?」と聞くと、「もういい」と言う。すたすたと、道を戻って歩き始めた。

 「ここに来られてよかった、来たかったんだ」「ここは、クロスケが天に昇って行った場所だから、クロスケにとってのエルサレムだ」と、晴れやかに言う家族。

 そうか・・・初めから、公園になんぞ行こうと思ってはいなかったのかな。やられた。

 明日、以前から回復祈願をお願いしていた関係で、別の寺院での彼岸会に行くことにしてしまっていたが、このK院からも、彼岸会の案内をもらっていた。K院にすれば良かったのか・・・。

 また、涙があふれてしまうかもしれないけれど、たまにはこのK院にも散歩に来ようと思う。

 胸がいっぱいになってしまって食欲もなかったが、ベーグルは帰宅して食べた。

 

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑰

悲しみをせき止めない

 2020年2月4日未明、息子は息をするのを止めた。翌日に火葬を予約してしまったから、その日は形ある息子との最後の1日になった。

 明日には、全身愛らしさの塊である息子の姿形が失われてしまうと思うと、現実感が全くなかった。本当はずっと撫でていたいのに。

 保冷剤を抱かせ毛布で巻いておくるみにした息子。安置したのは、以前はテレビ台として使っていた棚の一番下の段だ。そこは、家の作り付けの息子用ステップから息子が直接ぴょんと飛び移って上の数段を歩き回り、時にはびろーんと伸びて、休憩がてら高い位置からリビングなど部屋を一望できる場所として使っていた。

 その棚は普段からの息子の居場所のひとつだったから、そこに息子を休ませるのは自然に思えた。

 かわいいかわいい息子。感謝で一杯、もう痛みや苦しみもない、完全に自由になっていると思うとうれしいが、寂しい。比べるものじゃないが、実父を失った時よりも泣けるし、圧倒的に悲しい。お父さんごめん。

 その父に、今、クロスケがそちらに行ったばかりだから、どうかかわいがってあげてねと祈った。娘は勝手なものだ。

 翌日の準備のあれこれを考えた。やはり、段ボール箱なのだろうか・・・それはやっぱり抵抗があり、おくるみのまま、息子をいつものカートに乗せて行こうと決めた。

 息子は2枚の毛布でぐるぐる。家族に花を買ってきてもらうよう頼んだ。後のことは実はもうよく覚えていないが、たぶん、息子の前に呆然と座り込んでいたのだろう。

 いつだったかは定かではないが、「悲しみをせき止めないで」という、いつもグリーフケアのワークショップでご参加の方たちにお伝えする内容を、どこかで家族にも伝えた。

 今、私たちは最愛の息子を失ったのだから、悲しくて当たり前。その感情を押し殺してフタをしてしまうと、後々良いことはない。

 悲しさのイガイガがフタの下で発酵し、怒りになる。それを我慢して我慢して抑え込んでいても、イガイガは必ず出てこようとしてフタが動く。

 ちょっとだけ出そうとしても、一度フタが開けばそれは難しい。地下のマグマが噴き出すように、怒りのイガイガがバーッと暴発し、自分だけでなく周りをも傷つける結果になってしまう。

 こういう時に、家族の中で傷ついているのは自分だけじゃなく、周囲もロスで弱まっているのだから、気持ちに余裕が無くて受け止められない。そんな時期に怒りを暴発させてしまえば、家族同士の関係性の致命傷にもなってしまう。

 だから、互いに異なるペットロスの悲しみの形があることをそれぞれが認め、無理にせき止めないようにしよう。悲しくて当たり前、だから悲しみにゆっくり向き合って、コントロールしやすくできるように持っていこう。そんな話をしたと思う。

 そして、ワークショップで使う資料の一部をプリントアウトして、家族にも渡し、自分でも読み返した。

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NPO法人レジリエンスでいただいた資料

 この資料は、傷ついた心のケアを勉強させていただいたNPO法人レジリエンスのもの。他団体のリヴオンのサイトからの引用だとの表記がある。被害者支援を学ぶ一環として、このレジリエンスでは勉強させてもらった。

 こうやって書いているブログも、どなたか扁平上皮癌の猫さんを抱える飼い主さんの参考事例(反面教師でも)の1つになればとの考えと共に、私にとってはグリーフワークの1つ。レジリエンスのお陰で、ゆっくり家族と互いの痛みを尊重しながら昇華していくことができそうだ。息子も少しは安心してくれるだろう。

青空に息子をお返しした

 猫友さんのお友達にご紹介いただいた寺院併設のペット供養施設には、車で30分もかからずに到着した。この2020年2月5日のことは、その翌日のブログでも書いた。

toyamona.hatenablog.com

 施設に着くと、敷地には小さな動物たちのお墓が並んでいるのが目に入った。別棟の納骨堂らしきものもあった。建物入口の横には、2~3匹の丸々とした猫がいて、ごはんも置いてあった。

 その猫さん達に見られながら、息子を乗せたカートを押してスロープを上り、受付のある建物に入っていった。

 しばらく待ってから、隣の焼き場のある建物へと移動。そこで息子とお別れの準備をした。

 説明によると、痩せて小さな息子が跡形もなくなったら困るので、ある程度温度を押さえて焼くのだという。おくるみにしていたフリース毛布は、化繊でありお骨に張り付いて残ってしまうのでダメ。着せていたセーターも、同じ理由でダメということで、鋏を借りてところどころを切り、脱がせた。寒くないように、着せてやりたかったが仕方ない。

 ちなみに、このズタズタになってしまったセーターは、家に持って帰ってから、家族のリクエストで縫って形を整えた。しばらく家族の机の上にあり、折々に撫でていたようだった。

 さて、いよいよ、いかにもな焼却台に息子を寝かせなければならない。

 息子カラーの山吹色のバスタオルを敷き、その上に息子を横たわらせた。お花を上から散らし、枕元に好きなカリカリごはんやチュールをいくつかの紙コップに入れて並べた。そして、息子の回復のための祈願でいただいたお札も2枚。あちらで息子を守ってほしい。

 それから、息子クロスケが、一心に布団を踏み踏みする際に咥えていた夫のグレーの靴下と、夢中になってしゃぶりついていたスイス土産の小さな靴下(たぶん、キャットニップ入り)、ニャンコOKの温泉に旅行した時にホテル玄関で撮影してもらった唯一の家族全員が揃った写真を、クロスケに持っていってもらうことにした。

 見ると、全身「真っ黒クロスケ」な息子の中では唯一のピンク色をしていた愛らしい舌が、暗赤色に乾いていた。それを見て、まさに往生際が悪くなりそうだった私も、もう、ここにはいないんだ、ここを離れて天国に行くんだねと、気持ちの区切りがつけられた。

 これで、本当にもう姿ある息子とはお別れだ。ありがとう、クロスケ。

 その日は、快晴。青い空に、煙となった息子が虹の橋を上っていくのが見えるかと思ったが、煙突を見ても、あまり煙らしい煙も見えてこない。かすかに蒸気の流れが見えるか・・・という程度だった。

 そして、1時間ほどで、息子は、か弱いお骨に変化していた。

 しっぽの骨は、漫画でよく見るような骨の形をしているパーツが、連なっているんだと知った。胸のあたりが青緑に一部染まっていたのは、最期の1週間の点滴の影響らしいと聞いた。そうなのか。

 股のあたりに小指の先ほどにも足りない塊が見つかったが、これは排便できず残ったウンチ。2月に入ってからはお通じが無かったが、哺乳瓶で飲ませたごはんは、こんなにも小さな固まりに集約されていた。

 それっぽっちで、息子が生き続けるエネルギーとして足りるわけはなかった。

 あまりにマジマジと見ていたせいか、「持って帰りますか?」と聞かれてしまったが、さすがに断った。息子のお骨で十分だ。

 生涯の最大体重は6.6kgを誇った息子が、こんなに軽いお骨になって家に帰る。車の中で膝に乗せたら、ずいぶんとコンパクトだった。

 もう、痛みも何の制約もない。具体的な姿形を失った代わりに、どこでも自由に飛んで行ける。どんなに暴れん坊将軍と呼ばれても、うちでは天使扱いだった息子は、いつかは天にお返ししなければならなかった。その時が来たのだった。

 でも、呼べば、空からあっという間に降りてきて私の膝にちゃっかり座っているはずだ。見えずとも、息子はきっと一緒にいる。今も、ずっと一緒だ。

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煙突からは何も見えなかったが、息子は天に昇って行った(2020/2/5)

 

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扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑯

冷たくなっていた、息子の額

 ちょっと息子愛を爆発させてみる。つやつやと豊かな毛をまとった黒猫の息子クロスケは、プライド高く一筋縄ではいかぬ性格で、動物病院では「暴れん坊将軍」扱いだった。

 だけれど、私に言わせれば反抗心旺盛でありながらも繊細で思いやりのある、今でいうところのツンデレ体質が「沼」ポイントでパーフェクト。普段は世話係の私を「ウザイ」と見向きもしない勢いだが、ガス器具の点検にキッチンに入ってきた作業員のおじさんに対しては、おもむろに私の前に立ちはだかり、ニャー!と一声威嚇する男気もある。

 いやほんと、私を守る気満々としか見えなかった。男前だったな。

 日常的にシャーっと怒られてばかりいたけれど、私は構わずイイコイイコと撫でまわす。実はまんざらでもない息子は、毎日のように私が座るのをウズウズと待ち、膝上にぴょんと飛び乗って座る。そのまま私はパソコン作業に入り、ベッタリの下僕となって「猫かわいがり三昧」してきた。

 息子のビジュアルにももちろんゾッコン、首から上だけ語ってもパーフェクトだ。

 ぴょこりと生えた両耳、丸みを帯びた後頭部。「横顔が決まってるね」と親バカ丸出しでいつも褒めていた、シュッと高い鼻筋。「狭い」と形容される定番の愛らしさ満点の額。ひとつひとつのパーツが、どうしてこうも完璧な出来なんだろうと思ってきた。

 それだけでは当然終わらない。立派なヒゲの生えているぷっくりした口元も可愛らしかった。顎の下をコチョコチョすると、「もっと」と言うように目を閉じて顎を突き出す仕草も・・・語り出すとキリがない。

 透明な半球体の輝く瞳には、宇宙に吸い込まれるような気分になって、いつも近くから飽きずに見つめていた。

 クロスケの瞳は、中央寄りがうっすらピスタチオグリーン、周囲が黄色みがかっていた。ずっと、この瞳を見つめていたかった。

 2020年2月4日火曜日。立春、大安の朝だった。

 私が目覚めたのは5時頃だったように思う。昨夜寝た時と同じポーズで左腕に横たわる息子の後ろ姿が目に入り、ちゃんと布団にいることにまずホッとした。そして、息子から腕に伝わる温かみを感じながら起き上がり、顔を覗き込んだ。

 言葉を飲んだ。息子は息を引き取っていた。何かに驚いたような表情で、目は見開かれたまま、両手両足が冷たくなっていた。

 いつも撫でていた額に触れると、あり得ないくらい芯から冷えていた。

 え?じゃあなんで温かいの?生きてるんだよね?・・・一瞬混乱したが、ああそうだ、背中のホカロン、とすぐに気づいた。息子が寒くないように、この頃、特に夜間には、服の上から背中に小さなカイロを貼っていたのだ。

 セーターの上からのホカロン周りだけが、温もりがあった。それをすぐ剥がし、おむつも外した。夜にトイレに行っていたから、おむつもほぼきれいだった。

 既に、息子の両手両足はピンと固くなってきていた。死後硬直なのか?

 そんなに前に逝ってしまったのか、とショックだった。じゃあ、寝てからすぐ? 眠っている意識の底で微かに息子が動いたように感じた、あの時が旅立ちだったのだろうか?

 隣にいながら気づいてやれなかった。笑っちゃうぐらい、私は爆睡していた。

 前夜、恵方巻を食べながら、息子の長生きを祈る代わりに穏やかに生を全うしてほしいと初めて祈った時、曇りなく輝くまなざしでこちらを見返していた息子。あれから、たった数時間で逝ってしまったことになる。

 私たち家族の心の声が届いたのか。あの時「そうなんだ、もう頑張らなくていいんだね」と理解したのだろうか。もうすぐ八方塞がりの年が終わるよ、と言い聞かせていたから、きっちり立春になるのを待ってから旅立ったのか。

 とにかくありがとう、本当にありがとう、と息子への感謝の気持ちで一杯だった。

 こんなにも、たくさんの愛情をもらった。私は子どもの頃にぼんやり考えていた「将来の夢」=窓際で猫を撫でて暮らす、をクロスケにはたっぷり叶えてもらった。

 にゃんこ1匹に、ここまで人生を豊かに、幸せにしてもらえるなんて思わなかった。毎日、とても楽しかった。これ以上の幸福は、もう望めない。

息子をおくるみにして安置 

 家族に声を掛けたら、私とクロスケはまだ寝ていると思っていた、と家族は言った。そして息子の名前を呼びながらひとしきり息子を撫でた後、私の腕枕で逝って良かった、と言った。

 息子が死んでも、家族はいつも通り早朝に出勤しなければならない。私も、泣いてばかりもいられない。

 まず、息子をきれいに拭き、大きめの保冷剤を抱かせてからフリース毛布でおくるみ状態にした。冬だから、とは思っても、室内は暖房で暖かい。息子から完全に温もりを奪い、死を確定的にする行為には大きな抵抗感があったが、息子を傷ませてしまう訳にもいかない。

 毛布を巻く際には、息子のピンとまっすぐ固まっている手と足を少しずつ折り曲げて、自然に抱え込む形に整えた。力を入れ過ぎて折れてしまわないか心配だった。

 手術以来首に巻くようになっていたネックウォーマーは外し、着ていたセーターはそのまま。これは、年末に息子のために買った物だった。

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息子が最期に着ていたセーター。冬になって買ったばかり

 毛布は、やはり息子が寒くないようにと冬に入るにあたり購入した。くるくると巻かれて、息子の形の良い両耳と頭だけが、少しのぞいて見えた。棚の下段を整えてそこに安置、寂しくないように小さなぬいぐるみ等と、花を置いた。

 クロスケの目は、閉じようか迷ったが、そのままにした。濁りのない、相変わらず美しい息子の瞳。もし、目を閉じて亡くなっていたら、悲しみは余計に深かったかもしれず、もう一度、見せてほしいと必ず心残りの種になっただろう。そんな気がした。

お弔いの場所を探す

 さて、お弔いはどうしよう。息子を、ちゃんと送ってあげたかった。

 2週間前、お留守番のクロスケの面倒を見てくださった猫友さんに、飼い猫を葬ったご経験を伺うことにした。LINEを送ったのは、まだ8時前。朝から申し訳なかった。

 そうだ、と思い出し、やはり飼い猫を見送った姉にも相談のLINEを送った。打ち合わせが終わったら電話すると返事が来た。

 猫友さんは、親身になって相談に乗ってくださり、私の近くに住む知人にも連絡を取って情報を仕入れてくださった。猫友さんの猫さんを葬った霊園①と、その知人の猫さん2匹を見送った寺院併設のペット施設②と、そしてLINEの返事が来た姉の愛猫を葬った施設③の3カ所で迷い、②に決めた。

 電話を入れると、予約はすぐに取れた。翌5日午後3時だ。こうやって、自分が絶対したくなかったことを自分でどんどん進めていき、息子とお別れすることがすんなり決まってしまった。

 昼過ぎ、仕事の打ち合わせを終えた姉から電話が入った。子どもの頃のように、姉に甘えて1時間余りも泣きながらしゃべった。

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑮

愛する猫型息子、最期が近づく

 猫は、その死の際に人の目から身を隠すと言う。一方で、具合が悪くなって物陰で体を休めているうちに、その生を全うすることになり、結果的にそうなる、とも言う。

 本当はどうなのだろう。誰にも邪魔されず、静かに逝きたい気持ちもあるのかもしれない。

 息子の場合は、こうだった。点滴を開始してごはんを食べなくなってすぐは、物陰ともいえる「納戸」に入るようになり、用意してあった猫ベッドに横になっていたので、本当は身を隠す方向を望んでいたのかもしれない。

 人間と住んでいると、そうもいかない。用が無くても、しばしば私は納戸で身を横たえている息子の傍らに行き、並んで横になって息子を見つめていたから。家族もそれは同じで、入れ代わり立ち代わり、息子の様子を見に行っていた。

 うっとうしいなー、また来たのか。きっと息子もそう思ったはずだ。

 視線を感じて、息子は目を開けた。こちらは既に涙涙、止められなかった。息子は、そんな私をじーっと見ていた。

 それで、本当は隠れていたいけどね、もう出てもいいや、と諦めたらしい。納戸にいても、みんなが入り浸っているんじゃ目的は果たせないもんね。

 息子は立ち上がると納戸を出た。リビングの方に息子のために敷いてあった布団、息子用ベッド、窓際の座布団のあちこちに寝転ぶことを選んでくれた。そうすると、自然と家族でいられた。 

 最後の3日間、息子は本当にやさしかった。

 もう、ごはんを食べなくなってからの数日で、一気に瘦せた。点滴をしたことによって息子から食べる気が失せてしまったのかどうか、今となっては分からない。

 息子は、細い体を支えるのもやっとだったかもしれないが、前述のように、2月1日には家中をゆっくりゆっくり歩き、最後のパトロール。そして、冷たい風にもかかわらず、窓際でしばらく風を浴び、「風ぴゅー」した。

 さらに、膝に乗りたいよ、と床に座った私を見上げてニャーと鳴き、ようやく私の膝にずりずりぴょんと上った。

 あまりこちらの方が良い態勢ではなかったから居心地が悪かったのか、あるいは疲れてしまって乗ったままではいられなかったのか、息子は少しすると降りてしまい、布団に横になった。

 夜は、私の左腕を枕に寝た。

 これも、その頃になっての態度の変化だった。家族にはともかく、「お世話係」の私には終始強気な息子だった。寝る時も、ずっと私と寝てはいたものの、私への信頼感が薄いらしく、膝回りでしか18年間寝てくれなかった。

 仕方なかった、嫌がる息子に激マズの薬を飲ませたり、爪を切ったりしていたから。動物病院で、泣き叫ぶ息子を看護師さんと一緒に抑え込んでいたのも私だし。

 でも、最期の頃は「こんなに甘えてくれるのか」という程だった。息子も悟っていたのかもしれない。

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窓際の座布団からあと少しで布団。届かず床に横になっていた(2020/2/1)

 

 2月2日、ほぼ息子は横になっていたが、トイレ(小)には6回行った。哺乳瓶からも5回、ごはんを与えた。まだチューチューする気の見えた前日と比べると、ほぼ吸わなかった。最後の点滴もした。この日はステロイド無し。

 倒れてしまったのは、21:45のこの日最終のトイレだったか。息子が楽に使えるように、段差のない、犬用トイレに紙製の猫砂を敷いてあったが、その上に、ぱたりと横になったままだった。どうも戻ってこないと、探しに行ってみたらそうだった。

 息子にすれば、廊下を歩いてきてトイレも済ませ、ただ疲れて休んでいただけかもしれなかった。でも、ごはんも明らかに進まない様子だったし、こちらは息を飲んでしまった。

 抱き上げて息子に付いた猫砂を払い、リビングに連れてきて布団に横たえた。胸がいっぱいになってしまい、言葉もなかった。

 軽くなってしまった息子。軽々と、もう2㎏も切っていたと思う。冬服に包まれて、フワフワと綿毛のように感じた。

2020年2月3日

 朝、私の腕枕で寝ている息子に「おはよう」と声をかけて、にゃんだ~と横目でこちらを見てくれるとホッとするような毎日が続き、節分の2月3日も無事におはようを交わすことができた。

 この日も、7:30、10:30、14:30、19:00の4回、哺乳瓶で口元にごはんを持っていったが、口に含みはするけれど、もうごくんとは飲まない様子だった。

 哺乳瓶でごはんを与えているのも私の自己満足か・・・と、認めるのは怖かった。

 ごはんの後、口元をたっぷり水を含ませたガーゼで拭いた。それで少しでも水分を補給してくれたらと思ったからだったが、息子の上顎に張り付いていたごはんのカスが、うまくはがれ、まとめて取り除くことができた。

 ペリッと剝がした瞬間、息子は「ニャッ!」と怒って私の右手親指の付け根をひっかいた。いかにも気が強い息子らしい。「ちょっと痛かったね、ごめんごめん・・・」しっかり、ひっかき傷からは血がにじんだ。

 剝がれたものは1㎝×1.5㎝の、薄くて小さなおせんべいかクッキーのよう。イヤイヤされてしまって困っていたが、ようやくきれいにすることができた。

 見ると、剥がれた後の端が少し膿んでいた。猫の口内に使える消毒薬のスプレーをガーゼに含ませ、改めてその場所に当てた。

 ちょっとした反抗はあったものの、息子はいつもと違い、ある程度は素直に拭かせてくれたので、この3日の日記には「ガーゼで拭えば効果的に口内をきれいにできる。小さい頃からガーゼでやればよかった」と書いてある。

 ペット用の歯ブラシ、指のソケット型の歯ブラシ、ハミガキシートといったものを使い、息子の口をきれいにしようと工夫してきたつもりだった。動物病院主催のハミガキ教室にも、家族が参加した。

 結局、ハミガキには限界があって、一番良かったのは、病院おすすめのジェルを食後に舐めさせるものだったかもしれないが、歯ブラシやシート類は、犬仕様で分厚いと言うか、うまく使いこなせなかった気がして、猫の息子には悪かったなといつも思っていた。

 そのため、息子は「吸収病巣」という歯が溶ける病気にもなり牙を削ることにもなったし、口内に癌までできてしまったのだ・・・と今でも思っている。

 息子の最後の日に、「小さい頃から濡れたガーゼで拭えば」的な後悔が書かれているのも、皮肉だ。遅すぎた。

 猫さんの飼い主さん方・・・もしもハミガキでお困りでしたら、濡れたガーゼが一番シンプルで効果が高いような気がしましたよ。

見つめられながら食べた恵方巻

 この日は節分だった。ようやく私たち家族にとって「八方塞がり」の年が終わる分かれ目の日。息子には「もうちょっとで八方塞がりの年が終わる、頑張ろう。そうしたらきっと良くなるよ」とその頃、言い続けていた。

 夜には、息子が見ている前で恵方巻を食べた。その話は、以前のブログ(やっとのお礼状 - 黒猫の額:ペットロス日記 (nekonohitai.tokyo))でも書いた。

 息子は、ちょうど私から見ての恵方のテレビ前に寝転んでいた。私と家族が恵方巻を食べ始めると、鉄火巻のにおいにつられてか息子は目をパッチリと見開き、天井を向いて斜め逆さになるような姿勢でこちらを見つめていた。

 私も家族も、クロスケを見つめて無言でモグモグ。息子もそっくりかえったまま、じーっと見て・・・その光景は今でもはっきり目に浮かぶ。うつらうつら、どんよりといった力無い表情ではなく、息子の両目はその時、キラキラしていた。

 ここは、前述のブログで書いたままを引用してしまおう。

 毎年毎年クロスケの長生きを祈りつつ食す恵方巻。夫婦ともども東京出身なので、恵方巻を知って食べ始めた時には、既にクロスケは一緒にいたと思う。以来、恒例の願いはずっと「クロスケの長生き」だったわけだが、今年は私も夫も、初めてそれを祈らなかった。代わりに「クロスケが苦しまずに生を全うできますように」と祈っていた。打ち合わせをしたわけではなく、クロスケが死んだ後で(互いの祈りの内容を)知った。

 クロスケは、泣きながら恵方巻を食べる私たち家族をじっと見ながら、何かを感じ取ったのではないだろうか。

 夜、またリビングに布団を敷いた。息子は私の腕枕で寝る。だが、その前に初めて息子におむつを穿かせることにした。

 またトイレで倒れていたら。夜中に、こちらが寝ていて気づかなかったりしたら。暖房をつけていても2月であり、寒いタイルの上や廊下で倒れたままだったら・・・と心配したからだ。

 以前の手術時に買ったおむつやおむつカバーがあるので、それを穿かせ、トイレ方向に歩いていけないように、通路をふさいだ。こちらにも息子スペースに別のトイレがあり、息子もたまにこちらも使っていたから、いざとなれば、おむつをはずしてこちらを使わせればいいと考えた。

 誇り高い息子だ。おむつは不本意だったかな。

 小さく軽くなってしまった息子に、おむつは余裕があった。おむつとセーター姿で、息子は私の左腕に頭を載せ、眠った。

 息子の小さな愛らしい後頭部を見ながら、私も眠った。途中、息子が動いたような感覚が腕にあったが、眠りに落ちた。

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑭

久しぶりに夢で再会

 ゆっくり寝たのが久しぶりだったのだが、長時間寝てしまうと、私は大抵明け方に夢を見る。あまりいい内容でもない夢が多く、しかもグロテスクにクリアだったりすることもあって、どちらかというと夢を見たくない方だ。

 だが、息子クロスケに会える夢ならば、いくらでも見たい。当然ながら。先日見たのも、起きて心がホカホカするような、楽しい夢だった。

 夏の旅行。キャンピングカーの中か、アメリカのダイナーの中にいるかと一瞬思ったようなポップな飾りのある車中で、私は息子を抱き上げている。家族が車を運転していて、息子はそちらに行きたがって大変だ。

 いつも、そうだった。ドライブが好きな息子は、後部座席で私と乗るのだが、前の運転席と助手席の間に立ち上がり、ドライバーの家族と肩を並べるように進行方向をしっかり見つめているのが好きらしかった。

 でも、今回の夢の中で、結局息子は私と見合う形になり、抱き上げられて膝の上に納まったのだった。

 5年以上も前、息子が甲状腺機能亢進症で発熱し始めていた頃だったか、まだそうとは知らない夏の旅行で、長野県上田市の高原に泊まった。ちょうど今頃、8月下旬だったように思う。サイトにはアメリカ製のキャンピングカーがいくつか並べてあって、その車内に泊まった。

 暑い自宅からその高原に行き、息子は本当に涼やかで楽そうな表情をして、一人前の人間のように、どっかり座席に座っていたっけ。キラキラ光るガラスの器で、水もよく飲んだ。

 その心地良さそうな表情をよく思い出すが、今回の夢に出てきたの車中のつくりも、そんな感じだった。

 それにしても、どうして夢の中の私は、亡き息子を抱っこできているという特別な機会を、もっと大事に有難がらないのかな・・・それが不満だ。息子をもっとナデナデしたかったのに、そうすればよかったのに、夢の私は。

哺乳瓶で、ごはん

 さて・・・2020年1月27日に食欲が落ちてしまった息子が、点滴を始めた話を前回⑬で書いた。明らかに食が細ってしまったのだが、全然食べてないわけではなかった。

 ただし、自力ではない。私が、哺乳瓶で半ば無理に与えようとしてしまったのだった。

 ニャンコを「ブリトー巻き」にして薬を与える動画を参考にしたのだと思う。バスタオルを使って息子をくるくると巻き、人間の赤ちゃんを抱っこするように抱く。そこに、流動食を哺乳瓶に入れ、乳首の先は少しカットしてご飯を飲みやすくして、くわえさせた。

 当初はシリンジで与えようとしたが、それだと先端が口に迫ってきて「刺さる」感じが怖かったのかもしれないが、息子はイヤイヤしてしまって受け付けなかった。それが、哺乳瓶だと大丈夫だったのだ。

 ちゃんと、くわえてチューチューと1回10ccは食べた。前週よりも圧倒的に少なかったけれど・・・。

 哺乳瓶で与え始めたのは、1/28の夜からだった。急に食べようとしなくなり水も飲まなかったので、前日から点滴が始まったのだったが、あまりにガクッと食べなくなったのも、逆に点滴をしていたからかもしれない。

 自分自身の経験からも、点滴をするとお腹いっぱいの感覚になることがあった。口から食べていないのに、十分な栄養が摂れているわけでもないのにお腹が膨れる感覚になったのだった。

 息子は、本当は食べられるのに錯覚で食べようとしていないのじゃないか? それでは困る、食べなくなったらおしまいだと思った。

 そう考えて始めた哺乳瓶ごはん。1日に4回、息子は付き合ってくれていたものの、迷惑な話だったのかも・・・と今は思う。

 ちゃんと、寿命がわかっていたんじゃないのか。ぴったり1週間前から、飲食をやめてしまうって。

 人間でも、尊厳死の意思を示す書類が無いと、死の間際までどんどん点滴を続けられてしまって体がタプタプになってしまう、それで死を迎えるのが本当にいいのかといった話がある。本来、放っておけば人間は飲まず食わずになって、枯れて死んでいくのだという。

 自分だったらそうしたいと願っても、今はお医者さんがそうはさせてくれない。死ぬまで生かそうとするのが仕事だから。家族親族など周りも、諦められなくて生かそうとしてしまう。

 私がやっていたことは、まさにそれ。息子を静かに見守れば良かったのに。きっとそうだ。おせっかいだった。

 そのおせっかいに、息子は付き合ってくれていたんだと思う。

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手術からぴったり半年。体を横たえる息子クロスケ (2020/1/31)
最期まで自力でトイレ

 1/31、息子は下顎切除の手術からちょうど半年を迎えた。手術死するかもしれないと思われていた息子が、半年も生きてくれた。最初に猫の扁平上皮癌の予後を調べたことがあったが、すごいことだった。

 この日も、8回も自力でトイレに行き、うち2回はお通じもあった。

 いつものトイレは遠くて大変だろうからと、窓際の息子スペースにももう1つのトイレを用意したが、やはり息子はいつものトイレまで延々と廊下を歩いていき、そちらを使うことが多かった。

 ただ、高さのある縁に上るのが大変そうだったので、数か月前に犬用のトイレを買い、そこにペットシーツを敷いて、猫砂を上からおいて、トイレにした。

 息子は少し戸惑ったようだったけれど、すぐ慣れてそちらを使ってくれた。ただ、砂が周囲に撒き散らされるので、3方向に段ボールで壁を作った。

 2/1にはフラフラしながらもしっかりパトロールをし、おしっこも7回もトイレでした息子だったが、2/2、帰ってこないと思ったら1度、トイレの中で倒れていた。この日も6回トイレ通いをしていたが、やっぱり、遠いトイレまで起き上がってくるのは大変だったのだろうと思う。

 2/3には4回。2月に入ってからはお通じが無かったが、ちゃんと最後まで自力でトイレを使い続け、誇り高い立派な息子だった。

 

 

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑬

風の通り道

 毎年夏になると、エアコンの掃除を依頼する。家をリノベーションした時の業者さんに色々な付帯サービスがある関係で、そのまま頼んでいる。その掃除に、先週晴れた日に来てもらった。

 エアコンの掃除だから、エアコンは止める。普通なら暑い。夏らしい暑さも戻っていたから。

 幸い、窓を開け放してしまうと、うちはすごく風通しが良い。「風が通りますねー」と、業者さんも口にしていた。風のある日だったから、尚更涼しかった。

 その風通しの良い自宅の、最も風が気持ちよく吹く場所は、息子・クロスケに教えてもらった。いつも息子が夏にどーんと寝ころんでいたところだ。

 通路の狭い場所は、風が集約されるのだろう。涼しいのは分かるけど、邪魔だったな!引き戸を閉めたくても閉められなかったし。

 その日の朝、顔を洗って化粧水と乳液を付けたところで「あー、ベタベタして暑い!」と思ったので、そこに立ってみた。そうしたら、風が顔を撫でるのがはっきりわかるくらいに吹いて、乳液もさっぱりと吸収されていった。

 息子が吹く風を好きだったのは、夏に限らない。寒い時期でも、風に顔を当てたい欲求があるらしく、冬に換気のために窓を細く開けていると、そこに出向き、風がぴゅーぴゅーいうのも何のその、座り込んでいることもあった。

 それを「風ぴゅーしてる」と、うちでは呼んでいた。

 もちろん、寒くなればコタツに戻る。うちは毎年、猫の息子のためにコタツを出していた。「風ぴゅー⇔コタツ」が気に入っていたようだった。

 息子の最後の風ぴゅーは、2020年年2月1日のこと。その日は、風ぴゅー後、見守る私を引き連れて自宅内をぐるっと歩き、パトロールもした。私が座ったら、膝にも少しだけぴょんと跳ねて、乗った。

 うれしくてうれしくて。息子の痩せてごつごつした体を撫でながら、もしかしたらこれが膝に乗ってくれる最後なのかもしれないと思い、涙した。

突然、ごはんを食べなくなった

 2/1の時点で予感があったのは、週始めから、息子が自分からは、ごはんを食べなくなってしまったように感じたからだった。

 前回の⑫で猫友さんに来ていただいた1/22後も、息子は旺盛な食欲があった。自分で進んで息子スペースの食事場所に行き、ポタージュ状の流動食を、不自由な舌を使って周りにはね上げながらもよく食べていた。

 ただ、1/26(日)に私が家族に息子の看病を頼んで、午後から長時間外出。そうしたら、午前中はハナマル付きでご飯をよく食べた息子なのに、午後から食欲が落ちてしまったのだった。

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2020/1/26 私の外出前に撮影。息子は熱心に外を見ていた

 こういうことはよくあった。甘えん坊の息子は、世話係の私が外出するとごはんや、ひどい時はトイレも我慢してしまう。いつからこうなってしまったのかはわからないが、「我慢しちゃだめだよ~」とよく息子に言ったこともあったのだった。

 またそれなのかと、この1/26に帰宅した時も思った。ところが、息子は翌1/27になってもごはんを食べないどころか、水も飲まないのだ。

 癌のためにぷっくりと腫れた口元が急に気になったのだろうか? それとも、口内の方で、腫瘍が大きくなって障りになっているのだろうか。もしかしたら、舌が曲がっている関係で口内にたまりやすい食べかすを気にしているのかも・・・理由は分からなかった。

 お通じとおしっこはしていたのが幸いだったが、水も飲まないのでは心配だ。往診を頼むしかないと、以前もお願いした往診専門の獣医さんに、急だったが連絡した。

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ごはんのお皿を覗き込むクロスケ。でも、食べなかった (2020/1/27)
息子に、素人の家族が点滴することに

 すると、他に予約がある獣医さんの指示で、急遽、いつもの動物看護師さんだけが来てくれた。

 やはり脱水している様子なので、ステロイド剤を入れた点滴をすることに。そして、今後のこともあるから、私たち家族が息子に点滴できるように練習しましょう!となった。

 そうでした。飼い主が点滴したほうが、猫は楽なのだと獣医さんに言われていたのだった。確かに、精神的に怖くないかも。何しろ、この獣医さんが部屋に入ってきたとたん、私の膝でお漏らししてしまったこともある息子だ。

 覚悟を決めてトライすることになったものの、手順を注意深く聞いても、すぐに忘れそう・・・まずは息子に点滴する看護師さんの様子を録画することに。その後、タオルを丸め、息子に見立てて練習した。

 聞いた手順を、録画を見ながらリスト⓪~⑧にまとめたが、その手書きのリストを今読むと、所々、よくわからない。とにかく、「無菌エリア」には触れないように、輸液パックから60ccを注射器で吸い出して、その輸液パックを電子レンジで温め、そこにステロイド薬液を注入して・・・という準備があった。

 それをいざ息子に点滴する。肩から背中にかけて余裕のある部分の、皮膚の間に入れるイメージだ。この、親猫が赤ちゃんを咥えるおなじみの部分は、つかむとニャンコ一般はおとなしくなるそうだ。

 ここの皮を、3本の指で持ち上げる。「3指で△テントを作って持ち上げる。真ん中の指で作った面に、垂直に針を刺すイメージ」とメモの④に私は書いたのだが、むむむ・・・今やわからない。

 「刺すときには、小指を使って底辺を押さえ皮膚をピンと伸ばす。刺す面に対しては垂直だが、全体としてみると肩に対しては45度」むむむむむ・・・。

 こんな覚束ない理解で、息子に点滴?しり込みしたいが、やるしかなかった。

 アルコール綿で拭くと、生えている毛が分かれて道ができ、肌が見える。針を刺すのは2回まで。針先がなまってくると、息子も痛いし刺さりにくい。針の数も限られ、息子になるべく痛い思いをさせないよう、失敗して何回も刺すわけにはいかないと思うと緊張した。

 親猫に咥えられたように動かなかった息子も、こちらの緊張を感じ取って固くなっているような気がした。

 この1/27から隔日に4回、息子には点滴した。ステロイド薬液を入れたのはこの日と、3回目の31日だった。