黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

「カムカム」英語もピアノも、必要なのは日々努力

ターニングポイントは終戦50回忌

 いよいよ残り2週間となったNHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」。先週は木曜日の放送を見た段階でブログを書いてしまったので、先週金曜日に放送された第97回のファンタジー展開について、まず触れておこうと思う。

 その日は、1994年8月15日の設定だった。戦死した稔の50回忌に当たるその年の終戦記念日に、両親の思い出の神社で「るい」は稔の幻を見た。稔は「どこの国とも自由に行き来できる。どこの国の音楽でも自由に聴ける。自由に演奏できる。るい、お前はそんな世界を生きとるよ」と言った。

 その言葉を受けた「るい」は、錠一郎(ジョー)に「お母さんを捜しにアメリカに行きたい」と打ち明けたところで先週は終わった。

 この言葉がジョーを動かし、今週は「音楽でるいをアメリカへ連れていく」ために、トミーに連絡して岡山で会い、トランペットではなくピアノを死ぬ気で練習するから「トミーのバンドに入れてくれ」と頼み込む。そして、翌年にはジョーはピアニストとしてデビューした。

  今年1月27日付のブログで、ジョーのジストニア発症についてこう書いた。toyamona.hatenablog.com

ヒロインの不幸を描きたいだけのように見えて、視聴者を身構えさせる「カムカム」。せめて、ジョーの音楽ぐらいハッピーな方向で伏線回収してほしい。

 とうとう音楽に戻ったジョーについては、とにかく良かったと喜びたい。喜びたいのだけれど、30年も音楽から離れていたのに、「鍵盤の基本はやっていた」というものの、1年の練習ぐらいでプロとして復帰できるのか・・・と思ってしまった。

 ジョーは、それだけ良い先生に付いて猛特訓したのだろう。素晴らしい先生をトミーの妻の奈々さんが手配したのだろう。けれど、そんなに集中的に特訓したら、またピアノの方でもジストニアを発症してしまいませんか・・・そんな話の筋はもう懲り懲りだと思いながら、「いや、この脚本家は油断ならないから」とどこかで心配している。

 いやいや、残り2週間なんだもの。「純と愛」みたいに救いのない終わり方を「カムカム」が目指しているようにも見えないから、きっと大丈夫・・・のはずだ。

 私もピアノをまた練習してみようか。昔ほどではなくても、多少は弾けるようになりたいものだ。

ひなたの英語も improved a lot!

 先週金曜日のファンタジー回では、2代目ヒロイン「るい」だけでなく3代目ヒロイン「ひなた」も幻を見ていた。庭先に現れたのは、前年に亡くなったはずの平川唯一(さだまさし)。カムカム英語の生みの親だ。

 ひなたは彼によって赤ちゃんが言葉を覚えるように日々少しずつ学ぶという英語学習の極意を知るのだが、あり得ないことを経験してしまったという自覚があるのか、「るい」に誰と会って話をしたのかを伝えようとはしなかった。

 ノストラダムスの大予言に影響される「ひなた」だから、この終戦記念日の不思議体験はかなり響いたのでは。しかし、遠回りの後、ようやく英語ラジオ講座に目を向けたと思ったら、その後の「ひなた」の上達ぶりはウソみたいに早かった。

 物語の中では1994年から1999年へと5年経過していたのだけれど、視聴者にとっては1週間のうちにハリウッドのチームを迎えて案内を務めるまでになっちゃうのだから、あれよあれよだ。

 この、毎日の努力のプロセスがちょっとしか触れられず、時間が経過していつの間にか主人公が何でもできるように変身してしまっているパターンが、とうとう「ひなた」でも・・・毎年の夏休みの宿題を溜め込んで苦労していた「ひなた」だけは、努力しても挫折し続けるダメダメパターンで行って欲しかった。なんて。

 「ひなた」にとって、英語を学ぶこととあんこ炊き、そして「るい」から昔話を聞くことが日課になったということなんだろう。

 日課にすることができるまでが本当に大変だと思う。誰かと一緒に学べたらいいと思うが、英語学習に関しては成功者である母と一緒に、というのが強い。母と祖母の話を知りたいだろうから、それを教えてもらえるというインセンティブもある。

 この週は、ジョーのピアノにしろ「ひなた」の英語にしろ、どちらも私が学ぶのを遠い昔に止めてしまった事柄が出てきて胸が疼く。日々の努力を怠らなかったら、今頃はどこか思いもよらない場所に連れて行ってもらえていたかも・・・と遠い目をしている視聴者は、1人や2人ではないだろう。

アニー=安子だと思うが?

 さて、残り2週間。今作で残った最大のトゲというか安子問題だが、森山良子が演じるアニー・ヒラカワは、やっぱり安子ではないだろうか。茶店での態度が怪しすぎる。日本に来たのは初めてだと偽っているようにしか見えなかった。

 「るい」のわだかまりが溶けるのにも第20~21週をかけたのだから、罪悪感一杯だろう安子が自分の正体を明かすのにも、一筋縄ではいかないだろう。残り2週間はかけるのではないか。

 次週予告を見てもなるほど謎だらけだったが、アニーが回転焼きを手元で割るシーンがあり、その同じ部屋でハリー杉山が「visiting Okayama」と口にしていた。やはりアニーと岡山をつなぐ何かがあるのでは。

 そして、「your mother」とのセリフ。この回転焼きを作ったのはあなたのお母さん?と「ひなた」に聞いたのか。

 ハリー杉山は、あのビリーを演じているのだろうか。となると、やはり安子の産んだ子がビリーで、子どもの頃おじさんと日本に来たのでは。今回は母に同行して来日したのか。

 予告でジョーが「僕がジャズに出会った場所だ」と言うのは、定一さんがOn the Sunny Side of the Street を飛び込みで歌ったあのステージのことだろうか・・・そこで、「るい」がサニーサイドを歌い、それを安子(アニー)が目の当たりにして親子の再会が成るっていうラストはいかが? 素敵だと思うけどなー。

 そうそう、前回のブログで書いた「たちばな」再建の謎が残っていた。これはもしかして、算太が戦争から復員した職人を探し出し、出資して再建していた、なんて話はどうだろう。その「たちばな」からの儲けを10年間積み立てて、「るい」に渡したというのは?

 きぬちゃんが色々と教えてくれそうだと思ったけれど、結局は雪衣さんの告白で事足りることになるのか・・・「安子さん、ごめんなさい」に隠された謎が不気味だ。

「カムカム」あんこの味を継いだのは

とうとう残り3週間

 今週14日からの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」は、本腰を入れて物語の結末に向けて走り出したようで油断ならない。濱田岳演じる算太が「るい」のもとを訪れ、死の床で荒物屋「あかにし」の清子さんと吉右衛門との対面も果たした。

 その後、赤螺親子から「るい」は岡山の橘家の話も聞いただろうか。朝のラジオ体操での安子とのやりとりを、吉右衛門も清子さんも覚えていただろうか。

 そんな想像をしている間に、「るい」は亡くなった算太のお骨を携え、30年以上も離れていた岡山に家族連れで里帰り。目黒祐樹と多岐川裕美が演じる晩年の勇ちゃん、雪衣さんの配役の妙には感心させられたが、ジャズ喫茶「ディッパーマウスブルーズ」の柳沢親子の役者(世良公則と前野朋哉)がまとめて世代をスライドして出演していて、少し混乱させられたけれど面白かった。

 この朝ドラは、メインキャストはともかく、まわりでは赤螺一家といい、二役を一人の役者が演じるパターンが目につく。初代と二代目の桃山剣之助を演じる尾上菊之助もそうだし。百年の物語を紡ぐとなると、普通なら役者が入れ代わり立ち代わり次々変わることになるから、ある意味省エネしつつ家族の継続性をも示しているのだろうか。視聴者には楽しめる仕掛けだ。

 これからの残り3週間は、「るい」が自分と母・安子の過去を確認&発見していくプロセスになるのだろう。視聴者も一緒に謎解きを見ていこう。「おちょやん」の時も思ったけれど、朝ドラは残り1カ月が肝、そこを見逃したらつまらんですな。

今日は木曜日、明日謎が解けるかな

 戦後、安子が奔走したにもかかわらず算太の失踪によって再建成らなかった「たちばな」は、1994年時点で誰かが岡山で同じ店名を継いで店を開き、おはぎを売っている。定一さんのお供えに上げられたおはぎの包みには「お菓子司たちばな」の文字があり、店はどうやらジャズ喫茶に近いようだ。

 この「たちばな」を誰が再建したのか、それが謎だ。

 安子の父・金太の最期に立ち会った「おはぎの少年」が勝手に名前を継いで「たちばな」を開いたという説①と、出征していた「たちばな」の職人さんの誰かが戻って開いた説②、きぬちゃんの豆腐屋さんが多角経営に乗り出した説③、そして①と②を合わせた説④ぐらいがネットでは見つかった。どれなんだろう。

 どれにしても、②か④じゃないと「たちばな」の味にはならないだろう。豆腐屋のきぬちゃんが、しっかり安子のあんこ炊きを見ていて習得したのだとしたら、「たちばな」のあんこになっているのかな・・・器用な人ならできるか。となると、③の説もアリということになる。

 明日の金曜日で、この謎の答えは早々に出るのかもしれない。

母の「省エネ」あんこ炊き

 そういえば、大人になった「るい」が、安子のあんこの味を簡単に再現できたことについて「そんなことができるのか」という趣旨の意見もネットで目にした。毎朝のように7歳まで繰り返し繰り返しあんこ炊きを見ていたのだし、そう難しくなくできるのでは?幼すぎるかな?

 「あんこのおまじない」を唱えるあんこ炊きのシーンはドラマの中でずっと印象的に使われてきたし、おまじないだけでとても美味しそう。多くの視聴者のみなさんも、ドラマが進むにつれておはぎや回転焼き(今川焼)、もしかしたら鯛焼きも食べたくなっていたと思うが、あんこ炊きも、「美味しゅうなれ、美味しゅうなれ」のおまじないを唱えながら小豆からチャレンジした人がきっといるだろう。 

 実は先日、私もあんこをたっぷり食べたくなって、小豆を炊いた。ただし、丁寧なステップを踏むらしい「たちばな」の作り方ではない。おまじないも登場しない。省エネで誰でも簡単にできる実家の母のやり方だ。

 私も特に母から習ったことはないが、笑ってしまうほど簡単なので見てたら誰でもできる。ご参考までに書いてみる。

  1. まず、あんこが必要な日の前日昼。魔法瓶などのポットに洗った小豆を入れて、熱湯を注いで半日程度放っておく。しっかり蓋をする。
  2. ポットのお湯は、ポリフェノールたっぷりの小豆湯というか小豆茶として飲んでしまってもOK。
  3. 夜寝る前にポットから小豆だけ鍋に移し、豆が被る程度の水を新たに入れて煮る。沸騰させたら火を止めてフタを閉めたまま放置、寝てしまう。
  4. 翌朝。この時点で豆は軟らかく煮えている。点火して温めながら砂糖適量と塩少々を投入して味を調える。煮汁が多すぎるようならお汁粉を楽しむのも良い。ヘラで鍋底をすくうようにして水分を飛ばしつつ弱火で煮詰めれば、あんこはできあがり。

 この方法だと、ガス代がかなり節約できるが「サボっている」と見られるかも。ただ時間がかかるので、普通に鍋を使ってお米を炊く要領で小豆も煮てしまえば時間は短縮できる。

 先日炊いたときは、たっぷりお汁粉を堪能しすぎてしまい、出来あがったあんこが予定よりも少なくなっておはぎは作らなかったが、あんころ餅、あんこトーストにして美味しく食べた。

 やはり手作り&出来たてのあんこは格別。算太から合格はもらえないかもしれないが、「たちばな」流でなくても私には十分だ。

(敬称略)

「カムカム」ひなたの道、どう輝くのだろう

「ひなたの道を歩けば、きっと人生は輝くよ」

 3代目ヒロイン・ひなた(川栄李奈)と条映大部屋俳優・五十嵐文四郎(本郷奏多)との別れが描かれた第19週。ひなたの父として錠一郎(オダギリジョー)はわざわざ条映を訪れて、文四郎に自分の夢破れた過去を伝え、「ひなたの道を歩けば、きっと人生は輝くよ」とはなむけの言葉を与えた。

 さすがジョーだなあ。最初、錠一郎の訪問に対してステレオタイプな想像をし、文四郎は非難されるものと警戒心を丸出しにしていたけれど、肩透かし。錠一郎は敵対するのではなく、並んで座ってみせて、文四郎に寄り添った。

 そこが、視聴者から「ヒモ」扱いされながらも2代目ヒロイン「るい」と心温まる良い家庭を築いてきたジョーの真骨頂。あのようにしても、全然突飛ではない。けれど虚勢を張るのが通常運転の文四郎には理解不能だったろう。それが理解できるようになれば、文四郎も自分自身を救うことができるのだろう。

自らを最下位にランク付けする危険性

 文四郎は大部屋俳優であり、五十嵐だから「嵐寛寿郎の五十倍」のスターになることを夢見てきた。ところが逆に、条映スターである「破天荒将軍」に絡んで干されることになり、条映を去ることになった。

 彼は、父親が社長で兄が副社長の小さい会社で働くと「ひなた」に告げていたけれど・・・どこに行ったとしても、自分のポジションを愛せず、ランキングを意識してしまって外向きの社交辞令じゃなくて本当に自らを卑下して最下位にランク付けしてしまう人は、幸せにはなれないと思う。

 文四郎は「大部屋のままじゃダメなんだ」と言っていた。

 言うまでもなく、時代劇は主役のスター俳優だけでは成立しない。相手役となる大勢の斬られ役の俳優たちがいなければ、物語にならない。「日本一の斬られ役」として有名だった福本清三さん(昨年逝去)は、それこそ大部屋のまごうことなきスターだった。

 大部屋俳優に比べて、得られる金銭や名声は、主役俳優の方が大きいのは疑いようもない。だが、本質的には物語の中で果たす役割が違うだけであり、人としては対等だ。むしろ、役を離れても周囲に対してそんな意識が欠けて甘え放題の主役俳優(すみれさんとか)は人間としてどうかと思うし。

 役は物語だけのことなのだ。そこで人間の上下が決まるわけではない。そもそも、他人と比べての上下なんかない。繰り返すが、人として対等だ。

「思い通りにならないBさん」文四郎

 文四郎については、登場してきた時に危惧を抱いていた。「ひなた」を「バカだ」と下に見てきた。モラハラっ気がたっぷりだった。だから「ひなた」と恋人になってしまうのを心配していた。

toyamona.hatenablog.com

 ひなたは「ちりとてちん」のB子とも似ている。そうなると、待てよ・・・コメディかもしれないけれど、また少し身構える必要があるのかも。

 脚本の藤本有紀が描く女の子は自分に自信のないイメージが強い。そして、相手役は大抵がモラハラ系男子だから困る。自己肯定感が低い女子がつかまりやすいダメンズ。世の中的に要注意人物なのだから、あまり美化して描いてほしくないところだ。

 さっそく本郷奏多が、モラハラ男っぽく登場してきた。嫌だ嫌だ。ジョーが自分の機嫌は自分で取るのが大人だと教え、改心させてほしい。

 幸いにして、「るい」とジョーの子として「ひなた」はたっぷり愛され、自己肯定感高く育っていた。初代ヒロイン安子とその点は共通し、2代目ヒロイン「るい」はそれを欠いていた。「ひなた」はバカにしてくる文四郎に対しても「底抜けのアホ」と反発できて、「私を夢を諦める言い訳に使わんといて」とキッパリ言える女子だった。

 その点は本当に良かった。「自分の欠点を正直に指摘してくれる」とか言ってモラハラ男の支配下に絡め捕られていく自己肯定感の低い女子になっていなくて。

 別れの際、文四郎は「ひなた」を眩しすぎると言っていたが・・・養成所時代を入れたら7年以上だろう、そんな時間をかけても自分は名のある俳優になれなかった。時代劇を愛していたというより、自分は上に這い上がりたい、上に立ちたい気が満々だったのに果たせなかった。

 文四郎にとってスター俳優というのは、人の上に立って「どうだ、すごいだろ」と周囲にドヤ顔をして留飲を下げるための手段だったと言ってもいいかもしれない。もしかしたら、俳優を続けるためにも家族に見せたかったのかもしれないが。

 その主役俳優になることだけを夢見て大部屋を端から通過点としてしか考えていなかったとしたら、いつまでも「上に行けない」自分の状況は信じたくないし、耐えられないだろう。

 文四郎を見ていると、以前のブログでも散々書いている「思い通りにならないBさん」を思い浮かべてしまう。(Bさんについてはコチラ➡五輪休戦無視のロシア、中国はいいの? - 黒猫の額:ペットロス日記 (hatenablog.com)

 自分が意識の上で作り上げた上下関係にとらわれて、自分は下にいると信じて自分から辛くなっている。人としては対等なんだけどね。きれいごとだと思っているのか、そこを信じない人なんだな・・・文四郎はジョーとさらにじっくり話すか、アドラーを読んで楽になってほしい。

 とりあえず、実家に帰りつく前に交通機関で暴れて事件を起こすとか余計な想像をしてしまうけれど止めてほしい。これまで放ってきた実家を支えていた兄にいじられて、逆ギレして暴発するとかも止めてほしい。

 きっと「ひなた」は文四郎がどんな役を演じていても、時代劇を愛する同士として彼の仕事を応援する気持ちは変わらなかったと思う。小さな幸せを大事にして生きてきた「るい」とジョーの娘だもの、そんなことで人を下に見たりしない。

 少し前に、ネットで介護職の若者が「世の中で底辺だと思われている職業」だと自分のことを卑下して書いていて、仰天した。大変な、世の中にとって欠くべからざるお仕事であり、プロフェッショナルだ。賃金が低いのはそれがおかしいのであり、その地域の議員と同等の賃金を得るべきだと私は思っている。断じて底辺ではない。

 心の中での孤独なマウンティング競争に、終止符を打ってほしい。そんな一人芝居は誰も幸せにしない。

 文四郎が心を入れ替え、誇りを持って大部屋俳優の斬られ役を演じられるようになれば、「ひなた」との未来も開けるだろう。そうあってほしい。

とうとう再登場のラジオ英語講座

 さて、物語上はすっかり音沙汰が無くなっていたラジオ英語講座。ひなたの友人の小夜ちゃんが英語を学び続けビリー(あれだけの出演にもかかわらず、人物紹介に意味深に表示され続けている。しかも、以前のロバートの位置に。となると、城田優の出番か)と結婚するのかと想像していたけれど、視聴者に隠れて学び続けていたのは「るい」の方だった。しかも、小夜ちゃんは手近な吉之丞と結婚すると・・・。

 そうだよね、今期のドラマはタイトルも「カムカムエヴリバディ」であり、「英語講座と歩んだ親子3代」とかの触れ込みだったわけだから、「るい」が学んでいないとね。しかしな~。

 安子との思い出が英語に対してハードルになるかと思ったけれど、せっかく「ひなた」のために買ったテキストと、せっかく福引で当てたラジオを無駄にはできない現実的なたくましさが「るい」にはあったのだろうか。「るい」も、変に全方向的に怯えていた昔とは違って立派な関西のおばちゃんに成長したってことかな。

 「英語には挫折したんや、子どもの頃に」という「ひなた」に、あきれる「るい」。挫折って大層に言うほどには勉強はしていなかった。そして手っ取り早く短絡的に駅前留学に飛びついて、結婚資金の貯金をはたいてしまう「ひなた」。

 ひなたを(あほやな~)とはとても思えない。手短に済ませて3カ月でペラペラになろうという、めんどくさがりの万人の心を突いたいい商売だし、なるみ(それだけで笑う)が出てきて立て板に水の営業をかまされたら、そりゃ乗せられてしまうだろう。

 「るい」が17年間ラジオ講座を聞き続けて一定の英会話をこなせるようになっていたのとは対照的だ。

 英語上達の道は、毎日少しずつ、継続するのが大事なんだとは全然継続してこずに錆びつかせ放題の私も重々分かっている。継続できるってそれが天才なんだよなあと、イチローの例を持ち出すまでもない、それが真実だ。

 よくドラマで努力のプロセスが軽快な音楽とともに飛ばされたり、時間が経過したりしてその後、ヒロインが何でもできるようになっているシーンがよく見受けられるが、安子と「るい」はそのパターン。「ひなた」ではそうならなかった。

 初代ヒロイン安子の場合「英語がうますぎる」とブログでも書いたけれど、ラジオ講座でコツコツと学び、英語をものにした初代&2代目と比べると、「ひなた」のポンコツぶりが際立った。「I'm expecting!」には大いに笑った。

toyamona.hatenablog.com

来週からは怒涛の伏線回収か

 来週の予告を見たら、姿を消していたサンタ黒須(算太・濱田岳)が再登場していた。ヒロイン一家も岡山に姿を現し、「るい」が「勇おじさん、ただいま帰りました」と口にしていた。

 この朝ドラも、いよいよ最終回の大団円に向けて動き出すようだ。もう放送期間は1ヶ月を切り、撮了したと報道でも伝わっていたから、そうなのだろう。

 初代ヒロイン安子のその後、安子から「るい」に残された誤解がメインとしては解決されるべきなんだろうし、ポンコツだけれど愛すべき「ひなた」がどう自分の道を見つけて輝かせていくのか。安子や「るい」の過去、「たちばな」のファミリーヒストリーに触れて、ひなたと桃太郎のきょうだいが色々と吹っ切れるということなのかな。

 岡山と言えば桃太郎伝説。岡山を訪れた桃太郎は、何に向かうのだろう。「たちばな」再建を目指して和菓子職人になったりするのか。「大月」のままでもいいけど。

 けれど、「ひなたの道を歩けば、きっと人生は輝くよ」と信じてきたジョーの音楽との関わりがどうなっていくのかが個人的には一番気になっている。

 もちろん、「るい」とささやかながら平和な家族を持つことができたことで、戦災孤児だった錠一郎の人生はちゃんと輝いている。

 しかし、音楽との和解はまだだ。安易で突飛な成功が待っていても何か白けるし・・・ジストニアを現在患う人たちも納得の輝かせ方を、難しいだろうけれど期待したい。

(敬称略)

DV男プーチンと元カノ

元カノは見殺しか

 ロシアによるウクライナ軍事侵攻がここまでとなり、世界が核戦争の危機に瀕することになるなんて、少し前までは思いもしなかった。そんな人たちが大多数だと思う。

 NHK朝ドラの「カムカムエヴリバディ」で、三代目ヒロイン・ひなたがノストラダムスの大予言にはまり、1999年に恐怖の大王が降ってきて人類は滅亡すると恐れおののいていたけれど、今年の2022年にもノストラダムスの似たような予言があるそうな。

 さしずめ、今年バージョンの「恐怖の大王」はロシアの大統領・プーチンなんだろう。暗黒の3日間が引き起こされ、人類の3分の2は死滅するんだそうだ。あれ?3分の1だっけ?これは核戦争のことか。

 前のブログでプーチンはDV男のようだと書いたけれど、やっぱり同じ類の連想をしている人がいた。

  やっぱり、DV男の元カノへの態度と同じなんだわ。私がブログで書いたのはこちら。

ウクライナがベラルーシのように親ロシア国になって、ロシアに従順になれば安心か。旧ソ連時代に回帰しないとダメなのか。その主張は、まるで離婚したにもかかわらず、未だに元妻(ウクライナ)に権限を行使して支配下に置きたいDV元夫のようだ。元妻が、どのグループに参加しようが元妻の勝手のはずで、元夫には何の権限も無いことは常識的にはわかるはず。しかし、DV気質のある人たちはそれを理解しない。元妻を対等な存在だと見なさず、いつまでも元妻の行動に対して自分は難癖を付けられる特権があると信じている。(「ワリエワ戦争」勃発かと思った - 黒猫の額:ペットロス日記 (hatenablog.com)

 プーチンは、NATOが拡がって自分が不安だからと言ってウクライナの主権を無視している。常識的にはおかしい。これが通れば、「不安だから」と駄々をこねれば何でもやれちゃうことになる。

 窓から見える月が気になって「あれが空にあると不安でダメ。取ってきて」と言っているかのような・・・下手なたとえだったが、つまり無理難題と言いたい。

 周辺諸国を、ロシアを守るための中立地帯にしないと安心できないのか。いや、それが実現したとしても、次は「ヨーロッパ全土が中立地帯にならないと不安で」とか言い出しそうだ。

 彼が周りを敵視している限り、写し鏡のようにその不安には際限がない。どんどん不安になるだけだ。ちょっとは落ち着いてもらいたい。小心者過ぎる。

 その際限ない不安に、どう対処すべきだろう。プーチンは自分が安心できる地点にならないと立ち止まらないのだから、周辺諸国はどこまで後ずさりすればいい?もう断崖絶壁に踵がかかっているのに。ちゃんとNOと言うしかないだろう。

NATOは、「飛行禁止空域」の設定を拒否する考えを示したのです。

 ストルテンベルグ事務総長:「『飛行禁止空域』設定を実施する唯一の方法は、NATOの戦闘機をウクライナ上空に派遣して、侵入したロシア軍機を撃墜することだ。私たちとしても、ウクライナの絶望的な状況は理解しているが、NATOが飛行禁止空域を設定すれば、ヨーロッパで多くの国を巻き込んだ、本格的な戦争に発展しかねない」

 ゼレンスキー大統領は、こうしたNATOの姿勢を「弱腰だ」と痛烈に批判しました。

 ゼレンスキー大統領:「飛行禁止空域の拒否は、ロシアがウクライナの都市に、空爆を行なってもよいと、NATOが許可したことを意味する。きょう以降、殺される人たちは、すべてNATOのせいで死ぬことになる。NATOが弱気なせいで、結束力の欠如のせいで、戦争は終わらない」(ゼレンスキー大統領「NATOのせいで死ぬ」…“飛行禁止空域”巡り痛烈批判|テレ朝news-テレビ朝日のニュースサイト (tv-asahi.co.jp)

 NATOがヨーロッパ全土を巻き込む戦争にしたくないと考えるのも当然だけれど、それではもう遅い気がする・・・ここでウクライナを見殺しにしても、プーチンがいる限りは次から次へとウクライナのように「焦土の中立地帯」が拡がっていきそうだ。そして戦争は終わらない。

 ウクライナだけでプーチンが止まる保証もないのに、ウクライナを見捨てるも同然のヨーロッパの判断は正しいのか。

NOと言い続けるしかない

 カザフスタンは、中央アジアの立地だというのにロシアに対して頑張っているらしい。報道では、ウクライナ侵攻への参加も断り、反対デモも行われていた。次にDV男プーチンが牙をむくターゲットにされそうで心配だ。

mainichi.jp

www.afpbb.com

 「俺の配下のクセに黙って従ってろ!俺のやることにモンクを付けるんじゃねえ」って・・・ヤクザ映画じゃないけれど、プーチンがカザフに噛みついて文句を言い募る様を想像した。

 カザフは、プーチンよりも西側の経済制裁の方が怖いようだ。「中立」とは明らかに間違っていることに対してはNOを言う事だとするなら、カザフでさえ反対デモを許している程なのだし、そろそろ中国も・・・と気になる。

 こうなったらプーチンを止められるのは習近平くらいでは。同じ一味だと世界に見なされたくなかったら、そろそろ和平仲介に動く時期では・・・そう思ったら、王毅外相が仲裁の用意があると記者会見で言ったらしい。

www3.nhk.or.jp

 中国の王毅外相は、北京で開かれている全人代=全国人民代表大会に合わせて7日、記者会見しました。

 この中で、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻について「対話と話し合いを通じて、平和的な方法で争いを解決しなければならない」と述べ、対話による解決を改めて訴えました。

 そのうえで「中国は和解に向けた話し合いを促し、建設的な役割を果たしていきたい。必要な時に、国際社会とともに仲裁を行う用意がある」と述べ、必要に応じて、国際社会と連携して仲裁にあたる考えを示しました。

 また「人道主義的な危機を克服するため、引き続き努力したい」と述べ、ウクライナに緊急的な人道支援を行う考えも示しました。

 ちょっとちょっと、早めにお願いしますよ・・・もう中国が想像した以上の事態になっているのでは? 暴走列車プーチンをさっさと止めてほしいものだ。

事態を予言するようなウクライナ国歌

 ウクライナの国歌は、様々な場で連帯を示すために歌われているようだ。「ウクライナは滅びず」というその曲の、歌詞を目で追うとまるで今の事態を分かっていたかのような内容で、それだけ苦難の道を歩んできた国家なのだと思った。

www.bing.com

 力強い歌だ。生き延びてほしい。

「黄金の日日」やっぱりベスト五右衛門は根津甚八

懐かしの大河ドラマ再放送

 日曜日の早朝にリバイバル放送されているNHK大河ドラマ「黄金の日日」を見ている。と言っても、リアルタイムでは寝坊助の私には無理なので、録画したものを遅れて見る。

 今日になって先の日曜日に放送された第46回「五右衛門刑死」を見たが、44年前の1978年の放送当時にも見た記憶の通り、根津甚八が演じる石川五右衛門は最高に格好良かった。

 さすがに細かいことは忘れていたが、皆の方を向いてニヤリと笑った五右衛門が、煮えたぎる鍋の中に後ろ向きのまま自ら落下、釜茹での刑に処せられたシーン。これは私の記憶にしっかり刻まれていた。

 忘れていたのは、その刑死の瞬間に助左衛門が打ち鳴らす教会の鐘が鳴り響いていたこと。鐘が鳴るとモニカの亡霊が出てくると言っていたから、モニカが迎えにくると考える中で死に逝く五右衛門。うーん、感動的。

 後ろに目が付いているわけではないから、下手に倒れ込むと後頭部を大鍋の縁に思い切りぶつけてしまうことになり、このシーンの撮影は相当危険だったはず。演じるに当たっての裏話を、どこかで根津甚八本人がインタビューで語るのを見た覚えがあるが、やはり大変だったらしい。

 「黄金の日日」については、脚本家の三谷幸喜がそうだったように、私も子どもの頃に毎週欠かさず見ていたものの、主人公の助左衛門のキャラがどうも苦手だった。「実直」と評されて今井宗久に可愛がられた奉公人の助左だった頃から、何だろう・・・あまりにも融通の利かないド真面目さ。どんくさいくらいのキャラなのだ。主人公なのに。雷が怖いと言って大げさに震えるし。

 (不器用にもほどがある、わざとらしくてイライラする)と思って当時も見ていたが、今回、改めて見てきた1年で、同じ感想を抱いてしまった。助左・・・。

 どちらかというと助左衛門その人よりも、今井家の奉公仲間という設定だった五右衛門と川谷拓三が演じる杉谷善住坊や、今井家の屈折した親子家族関係(演じるのは丹波哲郎、林隆三、栗原小巻、竹下景子、名取裕子、江藤潤)、相変わらずの冷たい目をした高橋幸二の信長、好人物から空恐ろしいギラギラ関白へと変貌していく緒形拳の秀吉、配下で悩む近藤正臣の石田三成など、周りの人物描写の方が面白く、楽しい。

 女性陣で印象深いのは、李麗仙演じる堺の堀に浮かべた舟に住むお仙。助左、善住坊、五右衛門の3人組の癒しのバーのママのようだった。善住坊が鋸引きの刑で死ぬときに、止めを刺す戌年の女。それを以前に占ったのは彼女自身だった。

 その彼女が、今回の放送で、助左衛門からの南蛮酒を「末期の水」として五右衛門に飲ませることに成功し、彼の刑死も見届けたのだった。

 それから、五右衛門の想い人であったモニカの夏目雅子はきれいだったな。その彼女は五右衛門との逃亡後に病のせいで顔面も崩れ、死後は亡霊となって度々現れた。それが美しい。また、今井家御曹司を垂らし込んだ徳川の忍びの名取裕子は、今とは印象が違って彼女だったのかと認識し直した。

 「黄金の日日」の多くの愛すべきキャラの中でも五右衛門が私の中ではスターだったので、彼が死んでしまった今となっては、もう物語のクライマックスは終わってしまったような気までする。

 「あんなに真正面から斬り込まなくても、もうちょっと暗闇に身を隠しながら行くとか」と、最後の秀吉襲撃の派手な殺陣を見て家族も五右衛門の捕縛を惜しんでいたけれど、確かにもったいない。あと一部屋というところで捕まってしまって・・・秀吉は姿を見せもしない。ネズミは捕まえたと、増田長盛の報告に短く答える声が聞こえただけだった。

 とはいえ、石川五右衛門が釜茹でにされることは決まっているんだし、五右衛門配下の皆さんの見せ場にもなっていたわけだし。致し方なし。

 しかし、初め利己的に見えて実は義理堅く、花も実もある面白く造形された石川五右衛門だった。私の中では、根津五右衛門はベスト中のベスト。盗賊にふさわしい軽々とした身のこなし、抜け目のない性格。ニヒルな表情やセリフ回しは、演じているというよりも自然にそこにいるような。大仰な助左衛門と比べるから余計そう見えたのかもしれないが、彼が作り上げた以上の五右衛門は、その後どの作品の中にも見つけられなかった。

 子どもの頃にしっかり刷り込まれた結果かもしれない。

 「黄金の日日」で主要人物を演じた多くの俳優さんたちが既に亡くなっているが、根津甚八も既に鬼籍に入っていたのは寂しい限り。そうか・・・でも、今後も私の中では、ずっと五右衛門=根津甚八。それは動きそうもない。

 あと5回は放送が残っているらしいけれど、何を楽しみに見ようか。

秀吉の狂気をプーチンも

 豊臣秀吉は織田信長の横死によって権力者となったのだから、その地位にあったのは約15年と言ったところか。自分がしたように、いつか誰かに権力を簒奪されるのではないかと怯えて不安を募らせ、狂気に憑りつかれるまでになったのでは。

 今のプーチン露大統領が、「黄金の日日」に見る晩年の秀吉に重なる。

news.yahoo.co.jp

【モスクワ時事】ロシアのプーチン大統領は4日、ドイツのショルツ首相との電話会談で、ロシアのウクライナ侵攻作戦の停戦協議を念頭に、「ウクライナ側との対話にはオープンだが、ロシアの要求がすべて満たされることが条件だ」と伝え、譲歩しない立場を強調した。

 要求はすべて満たせ、譲歩しないって・・・正真正銘のBさん、Bさんの見本のような人物だ。(Bさんについてはこちら➡五輪休戦無視のロシア、中国はいいの? - 黒猫の額:ペットロス日記 (hatenablog.com)

 秀吉は、病によって天が取り除いた。日本も当時の朝鮮半島も胸をなでおろすことになったけれど、秀吉の周囲は更にホッとしたのではないか。自分の行動を止められないプーチンは?いったい誰が止めるのだろう。 

(敬称略)

五輪休戦無視のロシア、中国はいいの?

ウクライナ侵攻、始まったか

 昼のニュースを見ていたら、速報が入った。ロシアがウクライナへの軍事行動に出たようだ。

 テレビ朝日の方で速報が入ったので、NHKの正午のニュースに変えたらまだ前段階の話をトップで報道しているので、あれ?と思ったら、しばらく経ってからやはり速報で伝え始めた。

 バイデン米国大統領は、侵攻で引き起こされる死はロシアに責任があると言っていた。前回、「ワリエワ戦争勃発かと思った」でも書いた通り、ロシアのプーチン大統領のキャラクターが今回の侵攻決定に大きな影響を及ぼしているように見える。

toyamona.hatenablog.com

落としどころなど求めないBさん

 自分の望みを実現したい欲求は誰にでもある。でも、他者も自分と同じようにそれぞれ希望があるのだから、自分だけの希望を通すのは不可能なこと。それは、大人になっていくプロセスで皆が学ぶことだ。

 そして、他者との間に何かトラブルが発生した時に、常識的には、相手との対話の上で誤解があるなら解くようにして、どちらにも納得できる「落としどころ」を探そうとする。それは、他者も自分も尊重するからの行動だ。

 人間関係は尊重関係なのだと、そういう行動を取る人たちは考えている。彼らをAとしよう。横の関係を念頭に、みんなで共に生きていると言ってもいいかもしれない。

 ところが、そうしない人たちがいる。この人たちをBとしよう。Bさん達は、自分の望みをあくまで実現しようと突き進む。相手を尊重することなど念頭になく、己の希望が叶うまで、力で押し通して構わないと考えている。

 「落としどころ」などと言われても、鼻で笑うだろう。「自分の言うことを聞けば良いだけだ」と。このBさんたちが夢見ているのは「自分は特別。トップに立ち、他者は自分に従う奴ら」という世界だ。

不安なBさん、プーチン

 一方で、Bさんは「自分は特別なのに」と信じているのだから、思い通りにならない場合は怒りが溜まる一方だろう。常にマウンティングでは他者への猜疑心で一杯になり、疲弊しそうだ。

 「思い通りにならないBさん」らしき人達が暴発しているニュースはよく見かける。つい最近でも、母親の医療や介護を巡って立てこもり医師を銃殺した人とか。電車内で喫煙して、注意した高校生を暴行した挙句に「正当防衛だ」と言った人とか。

 (何が正当防衛?)と呆れた人も多いだろうけれど、Bさんは自分がいつも正義。相手はいつも侵略者で自分は犠牲者だと思っている。猜疑心が強い分、余計な不安を常に抱えているのだろう。

 プーチンも、マクロン仏大統領や自国のラブロフ外相と、コロナ感染を警戒して5メートルぐらいもの長さのテーブルで離れて話をしていたっけ。マッチョを装うのも、相当抱えている不安が大きい現れなのでは。

 プーチンがNATOに対して抱える不安について、全ロシア将校協会が興味深い見方をしている。

イヴァショフは、プーチンが強調している「外からの脅威」を否定しない。しかし、それは、ロシアの生存を脅かすほどではないとしている。 〈 全体として、戦略的安定性は維持されており、核兵器は安全に管理されており、NATO軍は増強しておらず、脅迫的な活動をしていない 〉 では、プーチンが「ウクライナをNATOに加盟させない法的保証をしろ」と要求している件について、イヴァショフはどう考えているのか?  彼は、「ソ連崩壊の結果ウクライナは独立国になり、国連加盟国になった。そして、国連憲章51条によって、個別的自衛権、集団的自衛権を有する。つまり、ウクライナにはNATOに加盟する権利があるのだ」と、至極真っ当な主張をしている。(全ロシア将校協会が「プーチン辞任」を要求…! キエフ制圧でも戦略的敗北は避けられない(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 つまり、プーチンの不安がり方は尋常じゃないとロシアでも見られている。

希望が叶うまで手を緩めないプーチン

 さて、今回、ロシアの侵攻前にニュースで専門家が語っていたのは「ミンスク合意」が落としどころになるだろうという見方だった。専門家は、常識人Aのみなさんだから、そういう結論になるのだ。

 でも、プーチンはBさん。自分の希望が叶うまで行動を止めないだろう。ウクライナは主権国家ではなく、自分の領土と言わないまでも勢力圏としか見えていない。自分の支配下に戻るまでは行動を止めないだろう。

 本当に、離婚した元妻Aに対して性懲りもなく支配を仕掛ける元夫Bのようだ。

 その執念を軽く見ることはできない。Aさん達には理解の外だが、常識外のBさん達によってたくさんの女性たちが殺されてきている。別れても「俺の女」との見方をはずせないのだ。

 事ここに至って、NATOに加盟していなかった北欧2国(スウェーデンとフィンランド)が加盟を希望しているとの報道を見た。NATOの拡大にいら立ってのウクライナへの手出しが、正反対の結果を招いている。「北風と太陽」の物語を持ち出すまでもないか。

 ロシアにとって軍事侵攻の成功例には、日本の北方領土も含まれるだろう。北方領土は、戦後ロシアによる占拠が続いて固定化されてきており、世界はそれを黙認してきた。だからロシアも、通常は許されない行為でも自分はそれが許される特別な存在であると誤信し、そんな振る舞いがクリミアに続いてウクライナでもうまくいくと思っているのかもしれない。

 でも、欧米にとってはヨーロッパの東にあるウクライナは事情が違う。極東の北方領土にすぎないと等閑視されるのは寂しいけれど。

国連の「五輪休戦」は無力か

 ところで、前回ブログでも少し触れた、オリンピックパラリンピックに伴う休戦はどうなったのだろう。まず、国連の関連ページはこちら。

www.un.org

 つまり、今はオリンピック休戦の真っただ中のはず・・・プーチンの頭の中では、もしかしたらこれから開幕するパラリンピックなどどうでもいいのか。国威発揚につながるフィギュアスケートは終わったし、そもそも「ロシアオリンピック委員会」などと名乗らされて国歌も歌えない大会など、どうでも良かったのかも。

 ちなみに、オリンピックのことを単なる「国際大運動会」だと考えている人は多いけれど、実はオリンピックの真の目的は「スポーツを通じた国際平和の実現」だ。国威発揚の場でもない。上記サイトの一番下にも書いてある。

 そして、北京2022大会についても「オリパラ期間の休戦を守ろう」とグテーレス国連事務総長が呼びかけている。(Secretary-General's Message Calling for the Observance of the Olympic Truce for the 2022 Beijing Olympic and Paralympic Games | United Nations)

 こんなことになって、北京オリパラ開催国の中国はどう思っているのだろう。泥を塗られた形になっているように見えるのだが。「パラリンピックが始まるまでには片を付けるから安心して」とでも言われているのか。

 ロシアには、夏の北京オリパラ大会の時にも軍事侵攻をされている。中国にとっては、ウクライナは自国の立ち上げたプラン「一帯一路」に含まれている国でもあるから、ロシアばかりの肩を持っていられないと思うのだけれど。

 台湾への軍事侵攻を思い描いていれば、ロシアとの敵対は得にならない。欧米の出方を参考にする良い機会だと、やはり考えているのだろうか。

「ワリエワ戦争」勃発かと思った

ワリエワ選手とウクライナ情勢

 あと少しで北京五輪の女子フィギュアフリーが始まる。アイスダンスのディーン・トービル組の素晴らしい演技に魅了されて以来、冬季五輪ではフィギュアスケートは私の中では欠かせない。

 それが、こんな緊迫した状況になろうとは。

 出場する選手は、余計なプレッシャーを背負いながらオリンピックを迎えることになり、何と気の毒なのだろう。特に全世界的に期待を寄せられてしまったらしい坂本花織選手は。(参考:坂本花織にのしかかる「お門違い」の重圧 ワリエワ薬物問題で世界中から過剰な大絶賛(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース

 ロシアオリンピック委員会(ROC)のカミラ・ワリエワ選手が、五輪大会前の昨年12月の検査において、ドーピング陽性判定が出ていたと報道されている。大会中の検査では陰性、けれど陽性判定(これがまた、微妙に遅れて結果が出てきたのも作為があったのかなかったのか)が五輪前のこんなに近接した時期に出ていたというのでは、いくら同居するおじいちゃんの薬を誤って摂取したと抗弁しても、心証的には真っ黒だ。

 特に、心臓病治療に使われる禁止薬物以外にも、禁止ではないが同様の働きが認められる物が検出されていたという。3つもですか。(ワリエワのドーピング新事実判明に海外メディアは疑念…「3種類の薬物“カクテル”はロシアの組織的関与を示しているのかも」の専門家意見も(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE)

 ともかく、スポーツ仲裁裁判所の14日の裁定によって、ワリエワ選手は15日のショートプラグラムに引き続き、17日の今夜のフリープログラムにも出場する。(スポーツ仲裁裁判所、ワリエワ選手の北京五輪出場を認める(CNN.co.jp) - Yahoo!ニュース

 これに関する山のような報道の中で気になったのが、ウクライナ女子選手がドーピングで一発退場になった話だ。(ウクライナ女子スキー選手がドーピング陽性で「一発アウト」 ロシアとの〝違い〟が波紋!(東スポWeb) - Yahoo!ニュース

 北京五輪ドーピング検査を担当する国際検査機関(ITA)が16日、スキー距離女子ウクライナ代表ワレンチナ・カミンスカ(34)がドーピング検査で陽性判定が出て、暫定的に出場停止処分がくだされたと発表した。(略)

 カミンスカが〝一発アウト〟となったことに、ネット上では「ロシアはOKでウクライナはNGなんだ」「ロシアが許されてる以上、ウクライナも許されるのが、当然だろう。もう、収拾がつかなくなっている。絶対に、ロシアを許可してはいけなかったのに」などの声が続出。

 フィギュアスケート女子ロシア・オリンピック委員会(ROC)のカミラ・ワリエワはドーピング違反が発覚しながらその後も個人戦への出場が許可されており、対応の違いを疑問視する意見が相次いだ。(略)

 言うまでもなく、北京五輪の最中だというのに、ロシアとウクライナを巡る情勢は現在も緊迫したままだ。五輪の半年前、国連ではオリパラの大会期間中の休戦協定を結ぶと聞いたのだが。

 今もウクライナ国境にはロシア軍10万超が集結してプレッシャーを与え続けているとの報道があり、昨日16日には武力侵攻が開始されるかもしれず、ウクライナ大統領はその日を「団結の日」として国民に団結を呼び掛けていた。私でさえ固唾を飲んでいた。

 16日、軍事行動は回避されたようだが、ウクライナ側へのサイバー攻撃はあったらしい。

五輪が大好きなプーチン大統領

 実は、その前のワリエワ選手に対するCAS裁定が出た14日にも、裁定の結果次第ではロシア軍の侵攻は始まるのではないかと私はかなり心配だった。

 ソチ五輪での組織的ドーピングの結果、今回の北京五輪では「ロシアの選手」は「ROCの選手」として出ている。それにもかかわらず、開会式にプーチン大統領は開催国中国の招待という形で出席していたらしい。

 オリンピックが大好きなようだ。

 テレビで見たところでは、ワリエワ選手を含むROCの選手たちは、揃いのブルーのスーツを着て整列し、プーチン大統領に「ロシアのために戦う」旨を大会前に宣言していた。プーチン氏も喜々としてそれに応えていた。

 五輪での選手の活躍は国威発揚に役立つと、彼は未だに信じていそうだ。

 そして、彼の期待に選手がしっかり応えるように、五輪で活躍した選手だけでなくその指導者や周囲にまで恩恵が及ぶ仕組みがあるらしい。(村主章枝さん、ワリエワのドーピング背景にロシアの「貧富の格差」指摘…「ありとあらゆる手を使ってくる」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

 これでは、選手は追い込まれて逃げようがない。

 選手個人の前に国。日本も、多少笑えない部分はまだあるようにも思うけれど、国のために幼いころから徹底的に選手が利用され、薬物まみれに育てられていくシステムは恐ろしい。

 以前、13歳の選手がファンとのやり取りで「勝つ秘訣はドーピング」と正直に答えてしまって後から謝罪したケースもあったようだし。

 何年前だったか、ロシアの潜水艦が事故を起こした時に、搭乗員の母とみられる人物が必死になって何かを訴えている(多分、子の安否について尋ねていたのだろう)現場で、いきなり注射されて意識を失った映像を見たことがある。

 鎮静剤か何かを注射されたのだろう。あまりの乱暴さに声を失った。

 医学的に彼女のために必要な注射だと言うなら、医療施設で検査してから注射するとか、他の取るべきステップがあったはず。しかし、彼女は一生懸命話をしている最中に、いきなり背後から闇討ちのように注射をされていた。私のような薬物アレルギーの人間からすると、注射で死ぬかもしれず、忘れられない衝撃的なシーンだった。

 (虫けら扱いか。そうやって個人の声は尊重されないんだ、ロシアでは。)そう思った。薬物への慎重さも欠落しているとしか言えないシーンだった。

プーチン氏が典型的なDV男に見える

 ロシアを見て思うのは、強権的な国は恐ろしいということ。プーチン大統領を喜ばせるために選手は五輪で勝とうとしているように見える。同様に、プーチン氏の過剰な不安を取り除くためにロシア国軍はウクライナ国境に詰めかけているようにも見える。

 旧ソ連から離れた国であるウクライナは、立派に独立した国家で、主権はもちろんウクライナにある。それなのに、プーチン大統領はウクライナにNATOに参加されたらロシアの危機だからと止めさせようと軍まで出す。

 キューバ危機と比べる向きもあるが、そこまでロシアが切迫した不安に直面していると言い募る状況だろうか。逆に過剰な不安から、ウクライナを脅迫しているとしか見えない。

 ウクライナがベラルーシのように親ロシア国になって、ロシアに従順になれば安心か。旧ソ連時代に回帰しないとダメなのか。

 その主張は、まるで離婚したにもかかわらず、未だに元妻(ウクライナ)に権限を行使して支配下に置きたいDV元夫のようだ。

 元妻が、どのグループに参加しようが元妻の勝手のはずで、元夫には何の権限も無いことは常識的にはわかるはず。しかし、DV気質のある人たちはそれを理解しない。元妻を対等な存在だと見なさず、いつまでも元妻の行動に対して自分は難癖を付けられる特権があると信じている。

 プーチン氏が、ウクライナにNATOには参加しないよう欧米諸国に要求することは無理筋ではないのか。自分の要求は特別で絶対だと信じているのか。

 そして、要求が実現するまでもっと力を行使して無理やりにでも実現させる手段を選ぼうとするとしたら、まさにDV気質。(何か問題が起きた場合、普通の人たちは、互いを尊重して話し合い、落としどころを探そうとするものなのに。)

 そういうジャイアンのような気分を振り回す、分からず屋を相手にしているのだとしたら。プーチン氏は特に、フィギュアとホッケーには注目しているらしいから、ワリエワ選手の処遇で神経を逆なでされれば、せっかくの大好きな五輪が台無し。ウクライナ国境で暴発することは想像に難くない。

 五輪も戦争も、「自分の気に入らない状況は受け入れられない」プーチン氏の顔色次第で国際社会が振り回され、物事が進行しているのかもしれない。

 2月14日のCAS裁定の日は、ウクライナ情勢は緊張の度を増して正に戦争の瀬戸際にあるタイミングに見えた。だからCASは、いわゆる「高度に政治的な判断」をワリエワ選手に関しては下し、「ワリエワ戦争」をひとまず回避する道を選んだのではないのだろうか。

 五輪大会が終わっても、ワリエワ問題に決着が付くのは時間がかかりそうだ。ウクライナ情勢を横目でにらみつつの今回の裁定は致し方なかったにしても、ロシアの子どもたちが「ひとりの大人」のご機嫌を取るために薬物まみれになる状況が変わるよう、きっちりした判断を関係機関には求めたい。

追記:女子フィギュアのフリープログラムで、ワリエワ選手はミスが相次ぎ暫定4位の結果に。上位3人は無事にメダルを獲得した。坂本選手、銅メダルおめでとう!

「カムカム」ひなたは算太に似てる

第3代ヒロイン「ひなた編」はコメディ?

 なんだかんだ時計代わりに朝ドラを見ている人もいるように、私も「あさイチ」待ちで相変わらずフォローしている。とうとう「カムカムエヴリバディ」も第3代ヒロインの「ひなた」が先週の第15週で子役から大人になり、川栄李奈が登場した。

 いつだったか「カムカム」はコメディだと紹介されている文章を見て、「安子編」は戦時中にありがちな悲劇が続き、「るい編」もヒロインがシャレにならないほどの額のザックリ向こう傷を周囲にピリピリ感丸出しで深刻に恥じていたから「いったいどこがコメディ?」と訝しく思っていた。

 だから、むしろ次はどんな悲劇が襲ってくるかと身構えていたのだが、「ひなた編」になってようやく日常の「しょーもない」ことをヒロインが悩むコメディらしい話になってくれたみたいだ。

 安子、るい、と手先が器用な親子だったのに、ひなたは「ジョーに似た」という設定なのだろうけれど(桃太郎はお母ちゃんに似て良かったとジョーが言っていたから)、できない癖に細部を適当に無視してしまって失敗するちゃらんぽらんさが、ジョーというよりも算太の匂いがする。

 ひなたは、そうか大伯父さんに似たのか・・・ひなたの焼いた回転焼きは、算太の作ったぐちゃぐちゃの和菓子を思い出させた。濱田岳演じる算太とひなたが揃ったら、カオスかもしれないけど面白そう。算太は安子と「るい」親子の絆の修復につながる事情も知っているわけだし。

 ひなたは「ちりとてちん」のB子とも似ている。そうなると、待てよ・・・コメディかもしれないけれど、また少し身構える必要があるのかも。

 脚本の藤本有紀が描く女の子は自分に自信のないイメージが強い。そして、相手役は大抵がモラハラ系男子だから困る。自己肯定感が低い女子がつかまりやすいダメンズ。世の中的に要注意人物なのだから、あまり美化して描いてほしくないところだ。

 さっそく本郷奏多が、モラハラ男っぽく登場してきた。嫌だ嫌だ。ジョーが自分の機嫌は自分で取るのが大人だと教え、改心させてほしい。

たった7日間で終わった英語ラジオ講座

 子役の新津ちせ演じた「ちびひなた」は、今週で役目を終えた。彼女なりに悩み多い小学生時代を元気に過ごし、視聴者をほっこりさせてくれた。

 1975年当時、ビリーという英語を話す少年に出会い、初恋に落ちて頑張りたかったラジオ英語講座だったはずなのに、ひなたは簡単に日常の誘惑に負けて早1週間で止めてしまった。

 そして不甲斐なさから親に八つ当たりすることになったが、肝心の英語講座がたった7日で物語から退場とは悲しい。何とか続けてもらいたかった。

 あの後、ひなたが英語の勉強を続けていた、という可能性はあるだろうか?・・・飽き症だから、と呆れつつも叱って続けさせるような両親ではないから、そのままになってしまったか。

 飽き症の子どもを持つ親の悩みどころかもしれない。多少プレッシャーを与えても将来のためになることは粘り強く説得するとか環境づくりをして続けさせる方に持っていくべきか、子どもの自主性に任せて結局何も身に付かない人生を歩ませるべきか。

 ともかく、ひなたの友達の小夜子なら、英語の勉強を続けてビリーと高校生になった今も文通を続けている可能性ならあるかもしれない。さらに英語ペラペラになった小夜子が、将来またビリーを連れて回転焼き屋に再訪するのだ。そして、またひなたが自分にガッカリする話ならありそうだ。

 その時に、ビリーの正体が分かって、実は安子とのつながりも・・・となっていったら面白そうだが。さて、どうなるんだろう。

 私的には、壮年期の安子が登場するなら、演じるのは顔立ちから宮崎美子が上白石萌音に似通っていていいとどこかで書いた気がするが・・・またここで宮崎美子を推しておこう。

 渡米した安子と、「るい」もしくは「ひなた」とのつながりは今後の物語の結末に向かって描かれるべき肝。モヤモヤ抜きの納得できる結末を期待したい。

るい編最後は、親子の和解

 ちびひなたのラストになった、家を飛び出して河原に行くシーン。「どうして自分はこうなのか」と泣くひなたを「今は真っ暗闇に思えても、いつかひなたの道が輝く日が来る」と、追いかけてきたお母ちゃん「るい」が慰めた。美しいシーンだった。

 「るい」は、子どもの頃の自分を追いかけてこず、渡米してしまったお母ちゃん・安子を反面教師にしたかのようだった。安子編ラストの悲惨な親子別れの場面との対比になっているのか。

 額の傷を見せつけて「I hate you」と安子に言い放って扉を閉めた「るい」。そのやり口は安子の自責の念を大いに刺激し、望み通り安子を追い払うことに成功した。「るい」は、自分が捨てたのに「自分は母に捨てられた」との誤解は解けないままだ。

 その結果、安子は渡米し、「るい」は暗黒の岡山時代を過ごすことになった。ジョーと出会い「拒絶しても何にもならない。自分から寄り添い、話を聞くことでしか人との理解は深まらない」と悟ったのかもしれない。

 もちろん、娘から嫌いと言われたからと言って、簡単に親子関係を諦めたりするものか!とママたちからSNSで上がったブーイングも全くその通りで、母親の安子側に大きな非があると思うが。

 ひなたを追いかけた「るい」。話をじっくり聞いたのも、自分が安子にやってほしかったことなんだろう。

 「るい」が母としてひなたの話を聞いているシーンだったのだけれど、「るい」側の安子恋しの場面にも見えた。

視聴者の突っ込みにも拍車がかかる?

 さて、川栄李奈が出てきて以来、コメディに拍車がかかったようだ。ジョーのあのメガネといいヘアスタイルはジョンレノンの真似なんだろうけれど、桃太郎と揃っての前かけ姿は見ただけで吹き出してしまった。「おしん」パロディーも良かった。

 第15週で描かれていたのが1976~1983となっていたので、実体験を重ね合わせて見ている視聴者が多くなって、ネットでは時代考証を買って出るかのような突っ込みも多く見る。

 私もその1人か。ちびひなたが踊るキャンディーズの歌の振りが気になったり、「母をたずねて三千里」は(今でも歌える)口ずさんでみたり、公園で子どもたちが遊ぶホッピングに目を奪われてみたり。もちろん「ガラスの仮面」は楽しみに読んでいた(まだ連載が終わっていないのか?びっくり)。

 以前のブログで「昔はおばさんが穿くものじゃなかった」と指摘したジーンズについては、また1983年4月4日の新ヒロインひなた登場シーンで「るい」が穿いていた。1944年9月14日生まれの「るい」は、この日38歳か・・・。

 (それにしても、4月4日はひなたの誕生日だというのに、みんな「おしん」に夢中で家族の誰も誕生日には触れなかった。何か意味が?と思ったら何もなく・・・なぜ?)

 「1970年代半ばまだジーンズは若者が穿くもので、特別感があった。その意識が薄れておばさん世代が普段着に穿くようになるまでには、もう少し時間がかかったはず」・・・そんな風に前回書いたのだったが、そのジーンズに触れた記事があった。

asageimuse.com

ここで視聴者の関心を集めているのが大月家のファッションだ。ひなたは昭和50年代の小学生女子にとって定番だった吊りスカートを着用。父親で元トランぺッターの錠一郎はサイケデリックなデザインのシャツに身をまとい、当時の流行だったヒッピー風の出で立ちとなっていた。

「そして注目すべきは母親るいのファッション。それまでは清楚なスカートかワンピースばかりをまとっていた彼女が、この日は冒頭からジーンズを履いていたのです。実は前回の第63話でもよく見るとジーンズを履いていたのですが、座っていたり夜のシーンだったりと服装が分かりづらかったことから、第64話を迎えて《ジーンズはいてる!》《これが1975年ということか》といった声が視聴者からあがっていました」(テレビ誌ライター)

当時はジーンズの国産化が進み、価格も下がったことで、幅広い層にジーンズが普及していった時代。作中のるいはまだ30歳の若さで、夫・錠一郎の影響もあって若者の流行りに乗っかっても不思議のない年ごろだ。

 「昭和50年代の小学生女子にとって定番だった吊りスカート」って・・・定番ではない、吊りスカートなんて学齢前までだった。地域差はあるだろうが、やはり「ちびまる子ちゃん」に引っ張られているのだろうか。

 それまで清楚なスカートかワンピだった「るい」が穿くものは(「履く」じゃない)、夫ジョーの影響で劇的に変化しちゃったと説明できるとしても、でも「これが1975年ということか」じゃないと思う・・・決して一般化できない。

 「若者の流行りに乗っかっても不思議のない年ごろ」とこの記事は書く。そう、明らかに若者の流行り物だったのがジーンズ。でも、当時の30歳は今で言ったら45歳くらいを見ている感覚があったから、若者の真似はイタ過ぎる。今の感覚とは違うのだ。

 おとなしげな市井のおばちゃんが、いきなり若者の真似なんかしたら顰蹙ものだ。

 ドラマを作っている人たちはイケてる人が多くて「1975年にもジーンズなんか穿いてたわよ」と豪語するかもしれないが、現在80前後の普通のおばちゃんを想像してみて、世代が違うって!と1985年前後にジーンズ屋でバイトをしていた私は言いたい。

 さて、この記事が指摘する別の見方が、ジーンズが示唆するのは「るい」の出身地岡山とのつながりとの点。「雉真繊維」を営む雉真家の出だからそういう意味もあるのだろうと・・・それは確かに不思議ではない。

 なぜ70年代と早々に「るい」にジーンズを穿かせ始めたのか。ドラマで説明されることはなさそうな気もするが、岡山を意識しているのかもしれない。

 彼女が岡山に帰ることはあるのだろうか。それは、安子との和解が成って初めてできる事のような気がする。

(敬称略)

アスリートに求めるものは

うっぷん晴らしは迷惑

 北京五輪が進行中だ。フィギュアスケートの若手選手の躍進はうれしいが、羽生結弦選手が、ショートプログラム序盤で不運にも氷に開いた穴にブレードを取られてしまい、予定していた4回転ジャンプがすっぽ抜けたようになってしまったのは、誠に残念だった。

 それでも、フリープログラムを終えて「やりきった」と言った羽生選手のインタビューでの表情を見て思うのは、ここまで努力に努力を重ねてきて、思い通りにならないことが多くあっただろう中でもベストを尽くした彼は素晴らしいこと、そんな彼を思い切りねぎらいたいことだ。

 捻挫した足首も、十分にケアしてほしい。

 転倒しても回転不足でも公式戦で初の4回転アクセルとの認定は勝ち取ったそうで、「報われた」と彼自身が口にしていたのだから、アスリートとしての彼にとっては確実に一歩前進した挑戦だったに違いない。

 こんなことは、ゆるい一ファンである私が書くまでもないが。

 でも、満足しないファンは存在しそうで背中が薄ら寒くなる。羽生選手に金メダルを取らせたかった余りに、氷に穴を開けた「犯人」を勝手に推定して殺害予告を送った人までいるらしい。

 そんな無茶な反応をする人が多くなったような気がするのは、SNSが発達したせいで以前よりも比較的気軽に自分のうっ憤を公に表明してしまう人がいるからなのだろうか。逆に言えば、危険人物が簡単に多くあぶり出されているともいえるが、そんなにいるのは物騒だなと身震いする。

 正に贔屓の引き倒し、羽生選手にしたら迷惑この上ないだろう。羽生選手のファン全体にも泥を塗る行為だ。ファンとしての已むに已まれぬ行動とはほど遠く、うっぷん晴らしにしか見えない。

 自分自身の気に食わない気持ち、思い通りにならないことが許せない類の人がやることだ。気に入らないことがあったらその感情を駄々洩れさせていい存在は赤ちゃんぐらいだが、精神は赤ちゃんのまま身体だけ大きく育ってきてしまったのか、そのくらい理性が働かない人なのだと思う。

 ずっと誰かに「よしよし」してもらってきて、オリンピックに人生を懸けてきたアスリートまでが自分の機嫌を取るために生きているとでも? そんな訳ない。

 そう言っても「何が悪い」と返されそうだ。下手をすると、選手本人にまで「応援してやったのに」と逆恨みしそう・・・絶対に止めてもらいたいが。

 間違っても、人類初のチャレンジをした羽生選手はファンに謝る必要はない。それは明言しておきたい。

心配な高梨沙羅選手の謝罪文

 アスリートがチャレンジした結果について一般に謝罪する必要が無いことをきっぱり書きたいと思ったのは、ジャンプ混合団体戦でのスーツの規定違反で失格になった高梨沙羅選手が、驚くような謝罪を展開して話題になっているのを知ったからだ。

 なんでも、インスタグラムに真っ黒な画像をアップして、とても深刻な謝罪文を綴っているそうだ。

 報道によると、

「私の失格で皆のメダルのチャンスを奪ってしまった」

「皆様を深く失望させる結果となってしまった」

「私の失格のせいで皆の人生を変えてしまったことは変わりようのない事実」

「謝ってもメダルは返ってくることはなく」

「今後の私の競技に関しては考える必要がある」

 ・・・正直あっけにとられるような、今回の物事を深刻に受け止め過ぎているとしか言いようのない悲鳴のような言葉が、謝罪文には並んでいた。

 人の人生を自分が変えたなんて、少し傲慢でもある。それを事実と信じているなんて混乱している。そして「今後の競技を考える」とは引退するつもりか。

 それに、ここまで謝っているということは、彼女は失格になるようなことだと理解した上で、あえてやっていた確信犯なのかと考えたくなる人もいるだろう。

 コーチなどスタッフサイドも他国のように憤然と抗議しないで「ルール違反はルール違反」とただただ受け入れる姿勢を示しているようなのも、外から見た時に疑惑を深めてしまうだけで、やりきれない。コーチが抗議していたら、彼女がここまで悲鳴を上げなくても済んだのでは?

 そう、この謝罪文から聞こえてくるのは悲鳴だ。「私を許して」「私を攻撃しないで」と泣きながら全力で叫んでいるような。自責の念が強くとても心配だ。メンタルの専門家が介入して、彼女のケアをしてくれているだろうか?

自信喪失の原因は

 高梨選手だけではないのだけれど、メディアに出る彼女を横目で見ていて、いつの頃からか危なっかしさを感じて(誰かがちゃんと彼女の気持ちを適切に支えているのかなあ)と少なからぬ危惧を抱いていた。

 彼女のように、若い頃から活躍している女性選手はアイドルのように扱われがちだったりする。すっぴんでジャンプに励んでいた天才少女は、いつの頃からか「バッチリメイク」をいじられるような化粧上手な女の子になっていた。そして、気づいたらもう26歳の大人だ。

 メイクが好きだと彼女が語る雑誌記事を読んだことがあったような気がして、ググってみたら、2017年のインタビュー記事が見つかった。ソチ五輪でも、彼女は不運に見舞われメダルを逃していた。

「人として、まだまだ未熟ですから。まだまだ学ばないといけないですし、まだまだ社会にとけこめていないと思うので、もっと学んでいかないと。それがきっと、ジャンプにつながっていくと思うんです」(高梨沙羅の客観性、人間力改革。「化粧や服装もそうなんです」(4/5) - スキージャンプ - Number Web - ナンバー (bunshun.jp) 2017年5月3日)

 違和感を覚えるのは私だけか? アスリートのように、他人から突出して才能を発揮しなければ結果を得られない人たちが、どうして出る杭を打ちたがる日本社会に「とけこむ」必要があるのか・・・それはアスリートとしての才能を削ぎ、足枷をはめるだけのように思えるのだが。

 そして「人として自分はまだまだ」と考えていること。いったいなぜ、高梨選手はそこまで自己否定するに至ってしまったのか。「人として」だなんて。もっとのびのびと才能を伸ばしてもらいたいのに。

 高梨選手の言葉は痛々しい。自分にダメ出ししてしまうのは、誰かにどこかで思い切り否定されて、心に深い傷を負ったからではないだろうか。自信喪失の証だと思う。

 それは、小室眞子さんにも感じたことだ。小さい頃から表に出ざるを得ない立場になって、周りが鈍感で適切に守られないまま、アイドルとは違うのに乱暴に世間で荒波にもまれてきたからではないのか。

 高梨選手は過去に叩きに叩かれた結果、心を痛めつけられ、ありのままではいけないと思ってしまったか。そして、自信がなく翻弄されやすい、きれいなお人形さんになろうとしているかのよう。自分を殺して周囲に過剰に適応しようとしているみたいだ。

 そうすれば愛されると思っているのかな。かわいそうに、自分を信じられなかったのか。

 先ほど「周りが鈍感で」と書いたが、男性中心の社会で女性が表に出ることの大変さと恐ろしさ。でも、指導者に男性が多ければ、選手でありながらアイドル並みに人目にさらされる大変さにピンとこないかもしれない。

 乙女心はいじらしいが、アイドルのようにきれいになる必要や、社会に都合のいい意思の無い存在になる必要は、アスリートには無い。

「謙虚さ」よりも「貪欲さ」

 暴論かもしれないけれど、アスリートでいる間は、日本社会で求められがちな「謙虚」という言葉はそこそこでいいと私は思う。自分を支えてくれる周囲への「感謝」は必要だろうが、自分の才能を信じて上へ上へと昇って行こうと無我夢中でトレーニングに励んでいるのがアスリートなのだから、「貪欲」でいい。

 「謙虚」なんて言葉は、枠にはめてのびのびとした自主性に歯止めをかける作用があるから、人を支配したい側にとっては都合がいい。失敗を恐れて縮こまってくれたらライバル選手にも都合がいい。

 しかし、才能を伸ばしたいアスリートが縮こまって縛られちゃだめだと思う。優等生は「謙虚」という言葉が好きだ。けれど、ムダに縛られずに夢中になっていていい。

 「そういうのは要らないよ」とちゃんと羽生選手が鍵山選手に伝えていた場面があって、感心した。

 鍵山は、全日本選手権後の代表発表記者会見で羽生にかけられた言葉に背中を押されたことを、世界選手権の一夜明け会見で明らかにしている。シニア初の海外試合が世界選手権という状況に「今すごく怖いっていうか、不安な気持ちがたくさんあって」と珍しく弱気をみせた鍵山に、羽生は発破をかけている。
 「自分の気持ちに嘘つこうとしていたので『そういうことはいらないよ』って。僕は彼の強さは、その負けん気の強さだったり、向上心だったり、勢いだと思っているので。もちろんそれだけでは勝てないかもしれないけど、そこが今の一番の武器。そこは大事に、大事に」(羽生)
 世界選手権銀メダリストとなった鍵山は、「あの言葉をかけられた以降から、自分のネガティブな気持ちっていうのが一切なくなって」と振り返っている。
 「自分が本当に上を目指しているという気持ちをすごく大事だと思ったので、その気持ちを一番大切にして、この舞台を目指してきました」

新星・鍵山優真を後押しした羽生の言葉「気持ちに嘘つこうとしていたので…」 - スポーツナビ (yahoo.co.jp) 2021年3月29日)

 さすが羽生選手。高梨選手にも「変に世慣れることを目指さずに、まっしぐらに自分の向上心に正直になっていればいいんだ」と言ってくれる先輩が近くにいてくれたらよかったのに・・・アスリートには、社会にとけこむ前に必要なのはこっちだよって。

 メンタルのケアを受けて、過剰な謝罪なんか要らないことを理解して、素直なジャンプへの気持ちを彼女が思い出してくれたらいいと願うばかりだ。

「カムカム」似て非なる懐かしき70年代

同い年の「ひなた」に自分を重ねた

 朝ドラ「カムカムエヴリバディ」第14週が終わった。懐かしの「およげたいやきくん」大ヒットのあおりを受け、回転焼きの売り上げが落ちたのを2代目ヒロイン「るい」が悩んでいたが、時代劇好きに育った3代目ヒロイン「ひなた」10歳は、裕福ではないながらも昭和の商店街でほのぼの平穏に子ども時代を過ごしていた。

 ひなたと同い年の私は、夏休みの宿題をためて遊びまわっていた彼女が、まるで自分の姿を見るようで懐かしかった。

 私は悪いことに年々ラスト1週間まで追い込まれないとエンジンがかからないようになり、小学生なのに最終日は徹夜。9月1日の始業式では「死ぬんじゃないか」と思うほどフラフラだった。

 ひなたのように、誰かに手伝ってもらえる人望は残念ながらなかった。自分でやるしかないと思ってもいたし。

 時代劇もあの頃見ていた。夕方帰宅すると「水戸黄門」がよく放送されていて、ピアノを練習しながら横目でテレビを見ていた。西郷輝彦と松坂慶子が出演していた「江戸を斬る」がカッコ良かったが、大河ドラマ「風と雲と虹と」以来の加藤剛ファンだったので、「大岡越前」も好きだった。

 小学生にして歴史読本を愛読し、剣道も習っていた。侍を意識するひなたとは友達になれたかも。チャンバラには関心なかったけどな・・・。

ひなたの「ケガ」はアイキャッチ?

 さて、油断ならない藤本脚本。今週はドラマ中に不幸が訪れることはなく、朝から心がそうかき乱されなくて良かったが、1つ気になる仕掛けはあった。

 予告で「ひなたちゃんが!」というシーンがあり、(また不幸のオンパレード、波乱万丈ドラマが再開?)と実はゲンナリ。本編を見ると、大したケガじゃなく終わったが、こういうの、朝から本当に要らない。

 キャラを不幸に突き落とすのをためらわない脚本家だと「安子編」「るい編」と見てきて学習した。もう少し人の生死や災難をデリケートに扱える人に朝ドラの脚本は書いてほしいと思ってしまった。

 国民的なNHKの朝ドラなんだから、アイキャッチのように安易に子どものケガを扱わないでほしいのだ。

 その「ひなたちゃんのケガ」が仄めかされて、一瞬にして連想したのは; ガラス瓶が割れる➡ひなた大けが➡駆けつけようとした「るい」か錠一郎が交通事故に遭うとか、転んで流産するとか➡ひなたが責任を感じてトラウマを背負って生きていく➡見ている方もガックリ、みたいなことだった。

 これだけ視聴者側が身構える朝ドラって! ひなたのケガ騒動は、制作側は「るい」の額の傷のトラウマ浄化につなげて描きたかったのだろうけれど、「もう不幸はやめて」と悲鳴を上げている視聴者側のトラウマが刺激されてしまう。

 「ちかえもん」は最高に面白かった。でも、藤本有紀ドラマは、個人的には朝ドラではもうお腹いっぱい。人の生き死にが多少乱暴でも設定的にOKな時代劇で、今後は楽しませていただこうと思う。

ジョーのフラットな父に説得力

 さて、ひなたの傷は顔の傷じゃなかったと分かり、「るい」はひなたを抱いてさめざめと泣いた。小さい頃の自分自身を抱きしめて、自分に向けての涙のようだった。

 そう見えたのは、ひなたの実際の膝の傷を確認もしなかったから。「るい」は、相変わらず傷ついたかわいそうな宇宙人だ。娘のための涙のように見えて、ケガした娘そっちのけで自分のために泣く。

 そして、時代劇好きだからこそ「旗本退屈男」の「天下御免の向こう傷」みたいでカッコいい!と母に言えるひなた。(やっぱりそう来たか。)10歳にして、母を気遣えるひなたは良い子だ。

 しかし、描かれていないけれども、「るい」もちゃんとひなたに向き合い、傷の手当てをしたのだろう。そうじゃないと、ひなたがそのようには育たない。

 そんな親子の良い関係性を作ってきたのは、ジョーの力が大きいのだろう。ジョーが促して、ひなたに「るい」が謝るシーンから特に感じられた。きつく言ったのは、ひなたにしっかりしてほしかったから、お姉ちゃんになるんだからと、赤ちゃんができたことを告げる件。

 こうやって親に尊重されて謝られなどしたら、ひなたは良い子に育つだろう。

 「安子は家父長制の犠牲になった」との記事をネットで見たことがあったが、そうかな?と疑問に思っていた。

 このドラマは、「安子編」の当初から、家族に対して抑圧的で威張り腐っている父親の姿は描いていない。ヒロインたちも、その犠牲とはほど遠いように見える。

 段田安則が演じた雉真千吉は、当初ヒロイン安子と長男・稔との結婚に反対はしたが、結局は自分から縁結びをし、嫁となった安子にも思いやり深く、優しかった。

 安子が「家父長制の犠牲」だとするなら、まず稔とは結婚できないだろうし、稔の戦死後は勇と再婚だ。実家のために嫁が奔走するなど許されず、嫁いだからには雪衣が言ったように「家のことだけをするのが本当じゃろう」と一喝されるのが落ちだ。

 もちろん、現代の感覚から見れば安子を縛るものはあった。しかし、「おしん」の描いた世界は、忘れられたのだろうか。おしんが見たら、「まあ、なんて安子さんは奔放なお方で」と言うのでは。

 それを黙認していた仙人のような千吉さんが孫の「るい」にも優しかったことは、インスタントコーヒーの思い出の中に浮き彫りになっていた。

 安子の父・橘金太にしても、ちゃらんぽらんな息子(算太)に家父長的な態度は多少見せたものの、コチコチのわからずやの父ではなかった。

 そして、オダギリジョーの大月錠一郎。子育てをする親だって親としてはまだ10歳だと妻を慰めたり、「お父ちゃんでよかったら、話聞くで」と娘にフラットに言える、素晴らしい父親だ。

  現実の70年代は、叱るのが父親だと言わんばかりの時代だったと思う。テレビで有名な父親像はバカヤローと怒鳴ってばかりだった「寺内貫太郎」だったのでは。阿川佐和子の父のような人はゴロゴロいた。

 やっぱり、ドラマとはファンタジー。それをオダギリジョーが説得力をもって体現している。「10年間何も働いていなかったのか」との突っ込みもあるだろうけれど、いいなあ、あんな父ちゃん。

 ジョーが書き溜めた曲を、トミーが演奏してくれる未来が待っていないだろうか。

ひなたの誕生日

 長くなるけれど、第14週で気になったことを書いてみる。

 前述したように私はひなたの設定と同い年なので、クラスメートには、ひなたとバッチリ同じ生年月日(1965年4月4日)の女子がいた。

 3月3日の桃の節句、5月5日子どもの日に挟まれた4月4日が誕生日だと、どんなからかわれ方をしたかは簡単に想像できるだろう。

 現代的なLGBTQの観点からいかがなものかとNHKは考えるだろうから、ドラマではその点でひなたが男子からからかわれることは全くない。ひなたは「さむらい」の志を持つ者だし、元々は男女の中間を暗示する生まれの設定だったのだろうか?

 いやいや、それこそデリケートな話をイージーに盛り込み過ぎ、となったのかもしれない。

おばさん「るい」が穿くジーンズ

 それからキャラの服装。地域差もあり、私の思い込みもあるだろうけれど、同時代に生きてきたからこそ細々した事が気になる。

 ジョーのヒッピールックは楽しい。けれども、私の親世代の戦中生まれ「るい」が、しかもおとなしげなキャラなのに、スカートではなくてジーンズを穿いていることに気がつき、「あれ?」と気になった。

 時代的には、「るい」よりもう少し若い戦後生まれの若者なら、70年代にジーパンを穿いていても正解なのかも。それでも、不良っぽいおしゃれを気張ってしている特別感があったのでは。

 「るい」はこの頃は既に30代前半、当時の感覚ではもう若者ではなく、立派な「おばちゃん」だ。若者とは着るものが違う。男女の差も今よりも当然のように意識されていたと思うので、控えめな「るい」が、ジーンズを日常着として果たして穿いていたか。

 ヒッピー姿のジョーに引きずられ・・・唯一の理由はそれか。

 だけれど私が10歳の頃、「るい」とジョー世代の父母のジーンズ姿は記憶にない。同級生のおばちゃんたちも、軒並みワンピかスカートだった。

 父母が、ジーンズをおずおずと穿き始め、普段着に取り入れていったのはいつだったのだろう? 父がジーンズを穿き始めた頃「おお!お父さんジーンズじゃん」と口にしたら、父は少し恥ずかしげな表情を見せていた。

 しかし、明治期に男性が洋装を始めても長く女性が着物姿だったように、ジーンズを「おばさん」世代が普通に穿き始めるのには、男性よりもさらに長くかかったのでは。

 80年代半ば、私はジーンズショップでバイトをしていた。店長さんの奥さんは仕事柄ビシッとジーパンを穿きこなしていたが、それは例外。当時の母世代のおばさんは、来店しても自分のジーンズを買う人なんかほぼいない。目的は息子のジーンズを買うためだった。

 バイトの私に「ジーンズは締め付けるから、女の人には良くないんだよ」と説教するおばさんさえいた。

 地域的な違いもあるだろうが・・・70年代半ばに、関西の30過ぎの控えめなおばちゃんたちは日常的にジーンズを穿いていたのか?10年は早い気がする。

まるちゃんのスカート、なのか

 それから、気になったのは、ひなたの肩ひも付きのスカートだ。それって、ちびまる子ちゃんのイメージに引っ張られ過ぎでは?

 私のアルバムを見ても、肩ひも付きのスカートは保育園時代に穿いていた(しかも、ヒモはもっと細かった)。小学4年生の頃には肩ひも付きは古臭く、肩ひも無しのスカートが普通だった。

 ましてや、肩ひもが付いているズボンを穿いている女子なんか見たことない。お母さんの手作り設定なのだろうか。

 当時は、母親手作りの服を着ている子も、まだいた。そうか、「るい」が子どもっぽい肩ひもスカートを作り続けている設定なのかもしれない。それを、侍以外は眼中にない「ひなた」が、小学校4年生でも気にせず穿いているのか。

 しかし、何というアンバランス。流行の先端のジーンズを穿く母親が作るのは、古臭いデザインの肩ひも付きのスカート。「るい」という一人の人物の中で、ファッションへの姿勢が矛盾している。

来週は、嵐を呼ぶ算太が帰るのか

 ところで、モモケンは、高橋英樹の「桃太郎侍」がモデルなんだろうと思っていたが、来週(第15週)の予告を見たらモモケンがマツケンのように踊っていた。

 モモケンサンバには初代ヒロイン「安子」の失踪した兄・算太が絡むのかもしれない。彼はダンサーだった。マツケンの横で踊る振付師が算太のモデルになるのか。

 もしそうなら、ひなたは映画村に就職するようだから、自分の大伯父との接点もできるのかもしれない。

 算太が帰ってくるとして・・・渡米してしまった安子の「るい」への気持ちを知っていたのは算太だ。順当なところでは、回転焼きを食べて、あんこの味から気づくのか? それとも、荒物屋「あかにし」の清子さんが算太に気づき、安子の娘が「るい」だったとわかり、誤解がとけるとか?

  算太は「るい」の伯父さんだ。濱田岳が深津絵里の伯父さんに見えるか余計な心配だけれども、楽しみにしたい。

 そして、英語のラジオ講座もとうとう帰ってくる。「るい」に母・安子との幸せだった時間が、英語講座と共に記憶の底からよみがえってくるといい。

(敬称略)

恵方巻に罪は無いのだけれど

 もう、あと少しで立春の日。こう遅くなると、恵方巻を食べる家ではもうとっくに食べ終わっているだろうし、豆撒きも終わっているだろう。

 今年は、うちでは豆は形ばかりこそっと撒いたけれども、恵方巻は用意せず、食べなかった。「今年の恵方は北北西です」と天気予報のお姉さんがテレビで教えてくれたけれども、どちらからともなく「今年はもういいよね・・・」と言い合った。

 恵方巻を食べているところを想像してみたが、今の私たちは、滑りの良さそうな納豆巻きでも喉に詰まらせそう。食べることに意味があるのか、せっかく食べても空しいだけだなと思ってしまった。

 そう、私たちには恵方巻で願いをする対象がもういない。恵方巻を食べながら祈っていたのは、最後の1回を除いていつも息子の健康と長生きだったから。できるだけ長く長く、一緒にいてもらいたかったから。

 今日は、恵方巻の代わりに亡き息子・クロスケのための花を夫が買ってきた。

 あれだけの愛情を息子からもらってしまうと、もう私たちは幸福であるとしか言いようがない。確実に私たちは息子に幸せにしてもらった。しかし、人生における幸せのピークを過ぎたと確信しているのも悲しいものだ。

 2年前のこの日、この頃は、思えば生前の息子との最後の時間だった。自分たちから見て恵方(西南西だったか、南南西だったか?)に息子が寝転がっていたので、息子に視線をやりながら恵方巻を黙って食べた。

 夫も私も、初めて息子の長生きを祈らず、できるだけ穏やかに旅立てるようにと祈った。それを息子はそっくり返った態勢でじっと見つめていたっけ。少し驚いているようにも見えた瞳が、キラキラと輝いていた。

 単に、鉄火巻きのマグロが良い匂いだったのかも。なんで僕の分は無いのかと思ったのかもしれない。親に似て、食いしん坊だったからね。

 恵方巻を食べてからは、どうしていたのだっけ・・・息子にはおむつを穿かせて、廊下の方に行かないようにバリケードを作って、リビングに布団を敷いて私の左腕枕で息子が眠りについたのは日付の変わった1時頃だった。それが、生きている息子を見た最後だった。

 「何時頃だったのかなあ?」と、さっき夫に聞かれた。「2:22にニャンコが総出で迎えに来たかもね」「仲良くやってるか、だと良いね」

 立春の朝、2月4日4時頃までには息子は虹の橋を渡って行ったはず。朝の早かった夫は4時に起きて、私と息子はまだ寝ていると思ったそう。私が5時になる前にハッと飛び起きた時には、息子の額や手足はもうかなり冷たく、硬直が始まっていた。

 恵方巻を食す私たちの願いが伝わったとして、半年以上も苦しい闘病をしてきた息子は「そうか、もう頑張らなくてもいいんだ」と考えを巡らせたのだろうか。それからたったの数時間で旅立つとは思わなかった。しかも、腕枕のまま亡くなったとは本当に親孝行な息子だ。

 どうしても恵方巻は息子の死を連想させる。今後、私たちが食べることは・・・自らは無いような気がする。

2度目の命日がやってくる

バナナツリー事件

 つい最近の話。買ってきたバナナやミカンを、いつもの高い棚の上にあるバナナツリーとミカン籠に掛けたり入れたりしようとして、(何でこんなことをまだしているんだろう)と気づいた。

 習慣とは恐ろしいもの。猫の息子がいたずらをしてしまうので、フルーツ類は書斎の事務棚の一番上が定位置になっていたのだ。

 多くの猫が嫌って逃げると聞くミカンなのに、息子はマタタビや山椒のように大好き。ミカンをコタツの上にでも置いておくと、さあ大変だ。ミカン籠に頭をこすりつけて籠を落とし、まさにラリっているような状態でよだれを垂らし、コタツ板の上でお腹を出して伸びていた。

 バナナではラリってしまうことはないのだけれど、息子はバナナツリーにぶら下がっているバナナをおもちゃにして落としてしまう。だから、フルーツ用の籠とバナナツリーは息子が手を出せない場所に置いておいたのだった。

 それを、息子が死んでからもそのままにしていた事実にようやく思い至ったのだ。

 心底驚いた。だって2月4日の立春の日が息子の2度目の命日なのだから、丸々2年になるのだ。それでも、まだ息子のいたずら除けのためにやっていた行動が改まっていなかった。

 息子が通り抜けられるようにあちこちのドアを12~13㎝ほど開けておく癖も、(そうだそうだ)と思って閉めるように努めた時には寂しかった。最近、換気のためにもう少し細めの5㎝ぐらい開けておくようになった時も、(これじゃあ息子の頭が閊えちゃう)と考えてしまってから(いやいやいやいや、猫の為に開けるんじゃない)と脳内で突っ込んで、少々寂しくなっていた。

 今回のバナナツリー事件は、思いもよらないフェイントだったので、ズキンときた。やっぱり寂しい。

2夜連続で亡き息子の夢

 命日が近いことを意識しているからか、息子の夢も見る。夢を見ても、起きると忘れてしまうことが多い。起きて家族に伝えていた部分だけはかろうじて覚えているくらいで、とてももったいない。

 今朝見た夢もそんな感じだ。昨日となると尚更。でも、2夜連続で夢に息子が出てきたことだけはおぼえている。

 初日は、多分にニュースの影響を受けている夢だった。夫がロシアかウクライナか東欧のどこかの学校で教員をしている設定らしいが、夜間(といってもとても明るかったので、白夜?)に寄宿舎を抜け出して、帰国しようとするのを迎えに行く設定だった。

 夫の両親(いくぶん若い頃)も登場、車(なぜかオープンカー)に荷物をどしどし載せて、さあ出ようというところで夢見ながら大きな違和感を抱いた。両親が運転席と助手席を占めていたので、スペース的には後部座席に荷物を載せたらもう一杯。私と夫はどこに乗ったのだろう。

 亡き息子クロスケはどこで出てきたかというと、夫が現地で飼っていた。私が小型の毛布と一緒にソフトケージに入れて運び出そうとしたのだけれど、(飛行機に乗せるのだから、しっかりしたキャリーに入ってもらわないと)と思い直し、時間が迫る中、シャトル型の緑の小さいキャリーに息子を入れ直した。

 でも、それではサイズ的にキチキチになってしまうので、小さい毛布といえど入れられない。(困ったな、飛行機の中は寒いよね)と悩んでどうしたんだったろう・・・ぐるぐるキャリーごと毛布でくるんで出発したのかもしれない。

 貨物室に入れられたら、息子は寒いし、窒息したりしやしないか。ひとりで怖くて死んじゃうかもしれない。そんな心配がむくむくともたげて、懇願して自席の隣に席を取って載せてもらった。そんなことが現在は飛行機で可能なのかどうかわからないが、そんな夢だった。

 (数日前にリリースされていた新サービスの案内があった。スターフライヤーでは機内で同伴できるようになるらしい。 https://www.starflyer.jp/news/2021/news_202201261.pdf )

 とにかく息子はマックス体重の頃の姿で、毛艶も良く黒々としていた。「元気そうだったよ」と言ったら、夢の話を聞いた家族はホッとしていた。夢なんだけど。

息子は生まれ変わったのか?

 今朝見た夢は、最初の方がぼんやりしているのだが、確かに息子は、登場した時はいつもの黒い姿だったように思う。明るい場所で、家族と一緒に息子はくつろいで、私も息子を撫でたり抱き上げたりしていたように思う。

 それが、場面がなぜか柔らかな日差しの刺す部屋に転換。夢らしい脈絡の無さだ。そこは、少し違うけれど昭和な感じが実家の自室に似ていた。

 ドアを開けて部屋の中を覗き込むと、南西側のカーテンのかかった窓際に水色のケージが置いてあり、息子は上段の南寄りに丸まって寝ていた。

 その姿は、子猫。黒猫ではなくて、ミルクティーのようなベージュがちな毛色の猫だった。おしりと尻尾の方に少しトラ柄も見えたかもしれない。顔は見えない。

 子猫は、段ボールの敷いてある上に白いバスタオルを布団にして寝ていたが、こちらから見ると左端に寄って寝ているので、段ボール箱の右側は軽く浮き上がっていた。それが、寝息で微妙に上下する。

 部屋には入らなかった。子猫が寝るのを邪魔したくなかったから。その後の夢はおぼえていない。

 なぜなんだろう。黒猫ではない片手に乗るようなサイズの子猫なのに、なぜ息子だと思ったのか・・・すごく不思議だ。

 息子ではなかったのかもしれない。でも、もしかしたら2度目の命日を控え、毛皮を着替えて生まれ変わったのか・・・そんな気もする夢だった。

「カムカム」いつかジョーが音楽に戻る日を

職業性ジストニアに当てはまるのだそうな

 NHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」で、ジョーがトランペットを吹けなくなってしまったことについて前回ブログでこう書いた。

 動物番組で「かわいいな~」と思って見始めた頃に天敵に捕食されるシーンが流れて言葉を失うような・・・感情移入する視聴者を嘲笑うかのような、主人公の幸せが不幸に暗転する状況をバンバン提示して「どう、面白くなってきたでしょ」とか? 

 ということで、荒唐無稽なほどに不幸を持ってきますよね。トランぺッターだから、右手の指が痙攣でもして操れなくなるのかな?と思ったら、あの原因不明ぶりでは・・・現代のお医者さんの見解を聞いてみたい。(「カムカム」るいの「天下御免の向こう傷」 - 黒猫の額:ペットロス日記 (hatenablog.co

 そうしたら、この症状に関連する記事やブログが「カムカム」に絡めていくつか見つかり、今回のジョーの症状は「職業性ジストニア」「局所性ジストニア」という病気に当てはまりそうだと分かった。

yomidr.yomiuri.co.jp

 心理的な病ではなく、脳の病気だ。自分の意思とは関係なく、筋肉の収縮が起きてしまうそうだ。この↑ヨミドクターの記事で紹介されているように、脳の手術によって以前のように演奏できるようになったギタリストのIMAJOさんのようなケースも、現代では存在する。

 物語の進む時代では、そうはいかなかっただろうけど。

 ピアニスト、ドラマーやギタリストなど反復して手や指を酷使するミュージシャンではそんな病気があることは聞いたことがあった。でも、トランぺッターでもそうだったとは考えが及ばなかった。

 そうしたら、今作「カムカムエヴリバディ」で作曲担当の金子隆博さんも、42歳でジストニアに見舞われ、サックスを諦めた過去が実際にあるのだそうだ。

news.yahoo.co.jp

サックスを吹こうと思っても、サックスをうまくくわえられず、意思に反して首が逃げてしまうんです。最初の3年ぐらいは病名もわからず、サックスを演奏することができず、どうしようか悩み続けていました。 演奏家ってみんな1つのフレーズを弾けるように、繰り返し繰り返しやるものなんですが、自分としては喜々としてやっていることが、実は体にとってはちょっと負担になっていたということなのだと思っています。

 金子さんの場合、19歳からプロとして演奏してきたサックス。42歳と言えばもう20年以上も演奏してきて、油も乗り切って自由自在に音も出せて、体の一部のように扱うことができるぐらいの感覚があったのでは。

 それを脳が拒否してうまくくわえられずに首が逃げるとは・・・何ということか。

 ジョーもトランペットの音がまず出せない様子で演じられていたけれど、マウスピースに息を吹き込むことを脳が拒否するのだろうか? 何十年も演奏をしてきたプレーヤーが・・・というのではなく、あんなに若いジョーが?

 もしかして、戦災孤児としての幼少期の栄養失調など、過酷な経験が影響する病としてジストニアは説明できるものなのか。ケチャップをべったりシャツにこぼしてしまうのは、単なるあわてんぼうでなく、脳の病気が示唆されていたのか。

 しかし、実際の金子さんの場合は、サックスプレーヤーがダメでも音楽の道は続いていた。また同じ記事から引用させてもらうと・・・。

 サックスに関しては、プロとして19歳の時から本気で演奏してきたので、渡辺貞夫さんじゃないですけど「一生かけてサックスと向き合い、自分の音を見つけていこう」とずっと思っていたので、それなりのショックはあったと思います。

 でも42歳だったので、それ以上に音楽のクリエイティブな楽しさを知っていました。作曲をしたり、他にも音楽で自分なりに表現できることって何だろうと考えるようになりました。

――非常に困難な状況なのに、どうしてそのように前向きになれたのでしょうか。

 結局、昔からずっと音楽だけは続けていました。これでいきなりラーメン屋さんを始めましたとか、いきなり絵を描き始めましたということではない。ロールプレイングゲームみたいに、アイテム1つ取られました、サックスってアイテムをとられました、じゃあそこで死んじゃうんですか?って。まだ先がありますよ、さあどうしますか?っていう、そのぐらいのことではないかと思います。

 クリエイティブな才能は、ジョーにもある設定だったはず。作曲にもかつて取り組んでいた。「いきなり回転焼き屋さんを始め」てしまったけれど、時期が来れば、トランペットというアイテムを1つ取られても、何かきっかけさえあれば音楽は溢れ出てくるのではないだろうか?

 私も、40年近く離れていた音楽に形を変えて戻ったばかりなので、余計にそう強く思うのかもしれないが・・・音楽は人生を支えてくれる。ぜひ、ジョーの人生に音楽を取り戻してほしい。

ジストニアは不幸を描きたいだけ?

 ただ・・・主人公を次々と不幸で見舞うのを面白さだと考えて、その目的であの脚本家に選ばれたのがジストニアという病だったのだとしたら。ヒロインが事故で向こう傷を額にザックリ負い、その相手役が難病のジストニア。その他諸々の不幸が「安子編」から連綿とあるのに・・・まだ飽き足らないのか。

 不幸でお腹いっぱいだ。

 ひどい不幸の連鎖が無いと、日常の小さな幸せを感じる物語が紡げないとでも考えるのだろうか・・・朝から。荒物屋あかにしの吉右衛門ちゃんの成長後の人格変化にびっくり、ぐらいにしておいてほしい。

 時代劇なら、現代人からしたら理不尽な状況が普通に存在していたわけだから不幸続きも「そうなのかもね」と思えても、戦後、現代も近いと、やっぱり不幸続きには荒唐無稽感が漂う。

 漫画『風の谷のナウシカ』を読んで思ったことなのだけれど、平和や環境の大切さを訴えるのに、こんなにも延々と戦闘続きの場面を描かないといけないのか。それと似ている。(いや、戦闘シーンを描きたいだけだよね・・・。)アニメが素晴らしかったので、いつか原作本を読みたいと思っていたのに、そんな風に思って白けてしまった。

 ヒロインの不幸を描きたいだけのように見えて、視聴者を身構えさせる「カムカム」。せめて、ジョーの音楽ぐらいハッピーな方向で伏線回収してほしい。

「カムカム」るいの「天下御免の向こう傷」

荒唐無稽な不幸のもたらし方

 NHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」第12週が終わった。2代目ヒロイン「るい」の運命が、また動き出しそうだ。

 どうやら恋人のトランぺッター・ジョーは、場面緘黙症みたいな感じなのかわからないけれど、体に不調はないのに得意のトランペットを吹けない設定で、せっかく関西一のトランぺッターに選ばれた栄誉をふいにしてしまった。

 あのトミーとの最終セッションのシーンは素晴らしかった。実際はプロのジャズメンが演奏したのだと思うけれど、NHKプラスで何回か聞きなおしたほどだった。

 さて、東京でのレコーディングとデビューコンサートを控えて「るい」にプロポーズしていたジョー。彼の、戦災孤児からトランペット1本で身を立ててきた生い立ちを考えると、そのジョーからトランペットを奪ってしまうことが何を意味するのか。

 しかも、ジョーの幼少期を支えて戸籍まで世話したのは「安子編」で初代ヒロインカップルを見守った定一さん。視聴者はジョーの成功を願い、応援したくなる仕掛けがバッチリだ。

 (当時の戸籍は手書きでは?というツイートを見た。かつて和文タイピストでジョーと同い年の母が、法務局の仕事で大量に手書きから打ち直していたのは30代~40代だったように思うので、ジョーが20代前半なら手書きなのか? でも、戦後新たに戸籍を作った場合だから、タイプ打ちなのかも・・・どっちだろう。)

 人生とイコールであるだろうトランペットを失ったジョーには絶望しかないだろう・・・と思ったら、次週(第13週)予告では想定通り、彼が海に身を投げるかのような&トミーの車で駆け付けた「るい」が身を挺して止めに入るようなシーンがあった。

www.nhk.or.jp

 「人の不幸が好きなんですね」と誰かがつぶやいていたけれど・・・この朝ドラ、本当にそうだ。

 「カムカム」の、安子とるいにとって「良い人」キャラたちに、どうも定型的なお決まりの記号のような、現実味の薄さを感じてきたのだけれど、それは、100年を描くためのスピーディーな話運びでどうしても平板になるせいかと思っていた。

 しかし、そうではないのかも。この脚本家が描きたい本質は、ヒロインの幸せにはなく、むしろ幸せから不幸に落ちて苦しむ部分ではないだろうか?

 だから、良い人キャラたちの担う部分が、不幸の前振りにヒロインにちょっと幸せをもたらすだけのおもちゃ箱の住人のような役割に終始していて、どこか深みを感じられずに記号のように見えたのかもしれない。

 動物番組で「かわいいな~」と思って見始めた頃に天敵に捕食されるシーンが流れて言葉を失うような・・・感情移入する視聴者を嘲笑うかのような、主人公の幸せが不幸に暗転する状況をバンバン提示して「どう、面白くなってきたでしょ」とか? 

 ということで、荒唐無稽なほどに不幸を持ってきますよね。トランぺッターだから、右手の指が痙攣でもして操れなくなるのかな?と思ったら、あの原因不明ぶりでは・・・現代のお医者さんの見解を聞いてみたい。

 「安子編」の後半が不幸の連続になったことを考えると、「るい編」でもここから不幸のオンパレードになるのかもしれない。「はい、みなさんお待ちかねの・・・ルンルン」じゃない。朝ドラなのに。

 いやはや、脚本家って大変なご職業だ。人の不幸を面白がらねばならないとは。

「適切な距離」を保つクリーニング店夫妻

 先ほど、「土曜スタジオパーク」に竹村平助・和子のクリーニング店主夫妻を演じている村田雄浩と濱田マリが出演していた(敬称略)。「ふたり合わせて平(助)和(子)です~」だそうだ。

 なるほど、店主夫妻のご登場は平和な場面が主。夫婦漫才は楽しめた。トミーと「るい」の会話の再現は大笑いした。

 でも、土スタに出るということは、来週はもう退場なのか? 確か、安子役の上白石萌音もそうだった。今までの流れではそんな感じがするが・・・だとすると大いに残念!

 土スタは終わりまでは見なかったが、濱田マリが気になることを言っていた。竹村夫妻は、「るい」と適切な距離を保っている、そんな話だった。

 そうだよね、おもちゃ箱の良き住人は、ヒロインには無闇に立ち入らない。事情なんか聞かないで、ただ受け入れる。前述したように、これから迫りくる不幸に備え、ただ距離を取って便利にかわいがるのが役割だから、決して入り込まない。

 そういう表面的な関係をキープできる状況は、何か都会的で現代的だ。何でもかんでも詮索されがちな、プライバシーお構いなしの昔の濃厚な人付き合いとは、ちょっと異質な感じ。そこが現実離れしておもちゃ箱に見えるのかも。

 「カムカム」では、そうやって「人と人との間の境界線」を弁えている良き人ばかりが周りを固める世界が展開されているのだが、そうあってほしいという脚本家の願いなのかもしれない。

るいの「向こう傷」は境界線にある踏み絵

 その境界線上で、踏み絵の役割を果たしているのが「るい」の額にある傷だ。いわゆる、相手を怯ませる「天下御免の向こう傷」に正になっているんだなあと、チャンバラ映画のシーンを見ていて思った。

 彼女は、小さい頃から誠に有効にあの傷を利用している。人を攻撃する能力があることは、母親・安子を撃退した時に実感したのではないか。

 「I hate you」と言いながら向こう傷を見せた「るい」。いったいどこで、人の自責感を刺激するというアザトイ卑怯な振る舞いを学んできたの?と思う。

 弁護士の卵は、「るい」が望んだわけでなく偶然だったけれど、あえなく撃退されていた。そして「るい」の心の境界線にムリムリ踏み込もうとしたベリーも、やっぱり傷をチラ見せされる反撃を食らったことで「ごめん」と素直に謝罪するはめになり、引き下がった。

 向こう傷によるPA攻撃炸裂だ。

 その間、「るい」は無言だったような?すごい効力だ。その後、優しい素直なベリー(すっかり推し)は、サッチモ!と呼び捨てしながらも応援する側に回った。

 そうそう、クリーニング店の和子さんも、傷を見せられて「大事にしてあげような」と一撃されていたし、ジョーも、優しく「るい」を抱きしめることになった。

 そうやって、自分に安全な人なのかそうでないのか、踏み絵を踏ませることができる、ふるいのように機能する向こう傷。前のブログで触れた時に「そんなに見られたくないならハチマキでも巻いておけ」と書いたけれど、実は、こんなに有効なPA攻撃のできる武器を「るい」がしまい込むわけがない。

toyamona.hatenablog.com

 おじいちゃんに勧められても「雉真家に縛り付けられるようで」手術を拒んだという話だったと思う。

 確かに金銭的に縛り付けられ自由を失うのを恐れたのかもしれないけれど(そんな子どもがいるのかな・・・)、安子を撃退した効力を見て、孤独に生きる「るい」は天下御免の向こう傷を手放したくない気持ちもしっかりあったのではないか。

 それは、弱い立場にあったのだから自然なことだろう。PA使いすぎはどうかと思うが、責められないのかも。

   もちろん、全て「るい」のような人がリアルに生きていたとしたら、の話だ。

 弱みを見せた人を攻撃すると社会から「人でなし」扱いが待っているので、傷を見せられれば大抵は人は怯み、攻撃を止める。今は変わったかもしれないが、実際に女性の顔の傷は賠償請求する時に男性よりも等級が高かったような?社会的にも、そう評価されたものだったわけだ。

 幼少期を除いて「るい」が岡山を出るまでの人生はドラマでは描かれていないけれど、「るい」は、ここぞという時には額の髪をまくり上げて傷を見せ、「どうだ!」とばかりに敵を追い払って黙らせてきたのではないか。

 「日本はPAの国」と、昔ブログのどこかで書いた。ベリーのような気持ち丸出しの振る舞いは馬鹿を見る。むしろ自責感を突かれてモヤモヤさせられるPAの方が、控えめで賢い振る舞いとプラスに評価される。

 個人的にはPAを繰り出す人は信頼できないけれど、社会はそうだから仕方ない。

 「るい」のようなPA攻撃に遭遇したら逃げるが勝ち、優しい常識的な人たちはみんな「るい」の味方になるのだから。反撃すれば不利なだけだ。身を引いて喝さいを浴びたベリーはさすがだ。「るい」の思う壺ではあるけれど。

英語講座はどこに・・・?

 さて、来週からはまた「あんこ」が出てきて和菓子店に行きたくなるような今川焼らしきお菓子「大月」が登場するらしいが、英語講座はどこに行ったのだろうか?

 安子のこともあるので、余程のことが無ければ「るい」は、未来永劫英語講座になど関わりたくないだろう。英語を学ぶ必要性が出てくるとすれば・・・ジョーがアメリカに行くのではないか?

 佐々木希が彼氏(?)のことを簡単にあきらめるはずがないので、アメリカ帰りの医者にも相談していたようだし、ジョーがアメリカに渡って治療を受ける算段を付け、渡米するように誘ってくるのではないだろうか。

 ジョーの治療のためにと考えて渡米を勧めるも、「るい」は子ども(ひなた)と日本に残るのか?そうだとしたら・・・まだベリーは出てくるようなので彼女に注目しつつ、「るい」と英語講座の関わりを横目でながめていようと思う。

社会を恨み、孤立する人は自らの加害性が見えない

孤立を深める拡大自殺犯

 大阪北新地のクリニックで、25人もの犠牲を出した火災を引き起こした61歳の人物は、自身も死んでしまった。もう、彼の動機は推測するしかないが、拡大自殺ではないかと言われている。そうだとしたら、まんまと彼は目的を全うしたことになる。

 彼が参考にしたらしい徳島県の事件は、被告人を裁く裁判員裁判が最近あったらしいし、受験生を巻き込む東大前での事件もあった。加害者は高2だという。京王線小田急線など乗客が逃げられない鉄道での事件も珍しいことでは無くなっている。加害者は、それぞれ20代、30代。

 1月18日付で朝日新聞に大阪の事件のまとめ記事「25人犠牲 孤立深めた末に」が載っていた。その中で、彼が2011年4月に(東日本大震災のすぐ後だ)元妻宅で長男を殺そうとした事件の大阪地裁判決が紹介されていた。

 確定した大阪地裁判決は、「寂しさを募らせて孤独感などから自殺を考えるように」なり、「死ぬのが怖くてなかなか自殺に踏み切れなかったため、誰かを殺せば死ねるのではないか」と考えたと認定。懲役4年の実刑判決を受けた。

 判決は社会復帰後について「家族以外との関わりを持つことができれば、更生することは十分可能」とした。だが、出所後の社会とのつながりは浮かばない。

 この判決を下した裁判官は、今頃何を思っているだろう。無力感か、罪悪感かな。「家族以外との関わりを持つ」とは、何を期待していたのか・・・元加害者を支えるNPOとか、ボランティアの保護司からの支えか?

 自分を消したい欲求があるのはそうなのだろう。思い通りにはならなかった人生を消したい。けれど、判決が認定した「誰かを殺せば死ねる」は本当にそうなのか疑問だ。 

 つまり、目的は自殺だと認定しているが、自分を受け入れなかった社会に復讐する欲求、怒りの方が強いのでは。「俺を不幸にした社会への見せしめ、誰でもいいから道連れにしてやる」という意識だ。拡大自殺と言われる事件が起きる度、そんな風に思う。

 朝日では1月17日付社説でも無差別殺傷事件の連鎖について取り上げていた((社説)無差別殺傷 孤立社会の病が見える:朝日新聞デジタル (asahi.co)。その中で、法務省による2013年の報告書「無差別殺傷事犯に関する研究」を紹介している。

 同種事件を起こした52人の主な動機は「自身の境遇や現状への不満」が半数近くを占めて最も多く、犯行の前後に自殺を図った例もほぼ半数あった。特徴的な傾向として、交友関係の乏しさ、無職・無収入など生活の困窮を挙げ、事件防止の観点からも自殺者をなくす対策の充実・強化が望まれると提言した。

 コロナ下で自殺者が11年ぶりに増加したことなどを受け、政府は「孤独・孤立対策」に取り組む。昨年末には、官民連携による24時間相談体制の構築などを柱とする重点計画を定めた。相次ぐ事件の原因や背景についても考察を深め、「望まない孤立」の解消に向けた手立てを、着実に進める必要がある。

 望まない孤立の解消・・・コロナが終息して外形的に誰かとつながったとしても、見た目でどんなに幸せな境遇に彼らを置いたとしても、こういった加害者の「周りを恨む」ものの考え方が改まらない限り、「心理的孤立」が深まり、同種事件は起きていくのではないか。

 拡大自殺を企てる人達は、どこに居ても孤立して孤独なのでは?むしろ人の間に居る方が、思い通りにならない、心許せる人がいないことを思い知らされて、寂しさからの怒りを溜め込みそうだ。そんな気がする。

 孤独に陥ったのはナゼか。本人は誰かのせいだとしか考えられず、自分こそは被害者だと思いこんでいるのではないか。その自らの加害性が見えていないことこそが、孤独の種ではないかと思うのだが。

 周りに感謝できない。良いことは自分にとって当たり前、悪いことは何事も周りのせい。事件を起こしているのは、比較的体力的に恵まれて動ける男性だけれど、ずーっと不平不満しか口から出てこない人たちは、意識の点では男女関係ない。

 互いに尊重することができなければ、孤立する。

横の関係を学べる場は

 もう、後期高齢者あたりになってしまうと考え方を変えるのは難しいだろうが、そうなる前に、可塑性のある段階で、互いを尊重できる横の関係を結べるような心理教育に社会が広くアクセスできるようであればなと思う。

 縦社会、縦のつながりは、マウンティング・ランキングの連続で疲弊するばかり。人間がそれぞれの存在を尊重されて居心地がいいのは、横のつながりだ。

 ボランティアの場など、横のつながりが心地良いと聞くこともあるが、ひとたびマウンティング志向の人が入り込むと、その人がリーダーとなって人を率いる場として搾取されてしまう。その人の支配欲が満たされる場になる。

 それはどうなの?縦の関係は要らないよね?という意識が広まることが、そういった事態を避けることになるのだろう。

 そういった意味で、アドラー心理学を紹介する『嫌われる勇気』がベストセラーになったのはとても心強い思いがしていたが、見ていて「この人には読んでほしいな」という縦関係に縛られている人は、なぜか狙ったように読もうとしない。「こんな本がありますね、気楽になれるかもしれません」と、おずおずとお勧めしても。

 「人間関係の肝心要は相互の尊重関係」なのに、学ばない、本も読まないと言うのは他人の考えを最初から受け入れる気が無いのでは? または、疲弊しきって、その気力がもう失われているのかもしれない。

 しかし、孤立した人生に苦しんでいる人は、読めばきっと目から鱗が落ち、解放された気持ちになるのではないだろうか。楽に人生が送れるようになるのに・・・タイトルの「嫌われる」が気になって、もう嫌われたくない思いが強くて読めないのか・・・。

 でも、すぐには読まなくても、いつか「こんなの勧められたことがあったな」と思い出してくれたらいいな。

 ホテルなど宿泊施設には聖書がよく置いてある。個人的にはこちらの本を置いてほしいものだ。

元加害者側の考えにあった人

 最近、あるサイトの存在に気づいた。GADHAという。Gathering Against Doing Harm Again の略だそうだ。

大切な人を、もう傷つけたくない

DV・モラハラ加害者が変わるために

と書いてあった。ツイッターや雑誌連載でファウンダーが発信している内容は、「無自覚に加害を行っている方々の参考になれば幸い」とあり、「まわりのせいだ」という考えに陥りがちな加害者側の考えに過去、寄っていた人の声だ。妻との関係を再構築したくて、努力した結果を公開していた。

 その内容が質量ともにすごかった。読んできた文献も、参考になるものが多い。もうちょっと被害者発の本が入るといいかなと思わないでもないが、私など及ばないほど勉強されたんだなあ・・・真剣に向き合ったのだろうと思った。

 周囲を恨むタイプのDV気質のある人対象の更生プログラムを提供している団体としては、NPO法人ステップ(DV加害者更生プログラムにより被害者を守ります。NPO法人ステップ, 神奈川 (npo-step.org))が有名だ。

 サイトには

NPO法人 ステップ は、虐待・ストーカー・DVの加害者更生プログラム・被害者支援をはじめとした、あらゆる家族やパートナーシップの不健全な関係修復のサポートをしております。是非一度ご相談ください」​

とある。ステップの場合は、支援者が助けとなって自分で自分をどうにかしなければと気づいた人や、周りに勧められたり状況に追い込まれて仕方なくの人も含めて、学びの場になっていると聞いている。

 ちなみに、被害者側に立つ団体としては、NPO法人レジリエンスNPO法人レジリエンス (google.com))がある。余力がないとのことで女性支援に専念しているが、私もこちらで学ばせていただいた。こちらの人との関係性を学べる講座が中・高・大の学校や自治体の講座など大人も学べるように徐々に広まってきたのは、一市民としてうれしいことだ。

真剣な取り組みに見えるGADHA

 さて、迂回してしまったがGADHAに話は戻る。私が最初に読んだのは、ファウンダーのえいなかさん@EiNaka_GADHAhttps://twitter.com/EiNaka_GADHA?s=20)ツイッターだった。

  えいなかさんのプロフィールには「人は変われると信じている」と書いてあった。ご自身も、現在でも努力の最中のようだ。

 こういう人の声なら、自らの加害性に無自覚で、心理的孤立に陥っているような人たちの耳にも届きそうだ。陰ながら、応援したい。

 とりあえず、ツイッターの中にリンクがあったSPA!での連載記事は必読だ。