黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

人が安心して移動できる社会へ

 11月末の1週間は、今年も犯罪被害者週間だった。そのため、11月以降は様々な行事にお邪魔させていただいて、色々なお話を伺った。そのくせ、被害者の肩を持つ(ネコもだけど)と公言しているこのブログが、怠慢で何にも触れないのも気が引ける。ひとつだけでも、何か書いておきたい。
 
 数年前の話だが、交差点の青信号を歩いて渡ろうとしたとき、手にしていたバッグがカーゴパンツの脚のポケットのボタンに引っかかり、一瞬、横断歩道を渡る足が止まったことがあった。その時、また歩き始めようと顔を上げた私の鼻先を軽くこすりながら、猛スピードのスポーツタイプの自転車が目の前を通過して行った。
 
 あっけにとられ、こすられた鼻の頭と背筋が寒くなりながら、ただ1度振り返って遠ざかっていく自転車を見送るしかなかったが、あと1歩が出ていたら、私は跳ね飛ばされていたのは間違いなかった。横断歩道の反対側で、驚いたように固まってしまった人の、こちらを見つめる目が忘れられない。
 
 私はヒヤリで済んだものの、11月半ばにお邪魔したある遺族会の講演会では、横断歩道や、交差点の青信号を渡っていた家族を亡くしたご遺族がたが参加していた。
 
 私が分かっただけでも4人…その亡くなった方たちは、ルールを守りながらも命を奪われていたのだ。
 
 その日の講演会は、そんなご遺族のひとりの男性が、講師として話をされた。10年前、当時6歳の娘さんが、交差点の青信号を自転車に乗って渡っている時、左折してきた大型トラックに横断歩道上で踏みつぶされるという、痛ましい被害に遭われていた。
 
 それ以来、国の審議会を傍聴され、勉強を重ねてこられたこのお父さんによると、日本では、交通被害の半数は交差点で起きていて、交差点付近を含めると4分の3が発生しているとのことだった。「鬼門中の鬼門」という言葉もうなずける。
 
 だからこそ、交差点には信号機が付いているわけだが、信号を守っていても被害には遭う。児童とかこどもの被害は「飛び出し」で片付けられてしまうことが多いが、実は半数以上は「違反なし」なんだそうだ。
 
 また、交通死者の数が減少しているなどとは言われるものの、減っているのは車両に搭乗する側がシートベルトやエアバッグの技術の向上によって減っているだけで、生身の人間である歩行者や自転車の死者はそのまま残っているのでは、との指摘があった。医療技術の進歩もそうだろう。ケガ人との総数はそう変わっておらず、今は医療の力で助かる命があるのだろうとの話もあった。
 
 その交通弱者の死者の話では、自動車先進国の数か国と比較しても、他の国では車両を使う側の死者の比率が高いのに、日本だけが死者の半数以上を交通弱者が占めている…という点には、驚かされた。グラフを示しての話だったが、他国との傾向が日本は全然違った。
 
 「これだけのクルマ社会の中で、車を利用していない側がこれほど被害に遭っている、ここに注目しない訳にはいかない」との、このお父さんの言葉には、本当にそうだと思った。
 
<クルマに甘い日本の道>
 
 社会の意識というものを考えた時に、やはり、国の看板産業が自動車製造でこれまできたことは関係があるんじゃないかと思う。家族を失う側にとっては、結果を見れば無差別殺人にも同じことなのに、これまで交通犯罪の場合は「事故」と言い慣らされ、「単なるエラー」として社会的に片付けられ…どう考えても車の側に甘いだろう。
 
 それは、道の使い方にも現れていないか。かっとばす車のギリギリ横を、黙々と一列になって歩かねばならない子どもたち、という指摘もその後あったが、道を使う中心に据えられているのはクルマだ。そこに欠落してきた歩行者の目線をも取り入れて、見直す必要があるのは間違いないだろう。
 
 講演会や引き続いた討論会では、大事なのは、ドライブウェイの幹線道路と、人が歩く道の棲み分けだという話が出ていた。それが、全然できていないのが問題なんだろう。
 
 ただ、歩行者のための棲み分けと言うと、これまでありがちなのは車道と歩道をガードレールで区切ってしまうとか、歩行者天国にしてしまうとか、物理的に車と人を分けてしまう方法だった。考えてみると、狭くて道幅を広くなんか取れない日本には、向いていない方法だと思う。
 
 近所の道も、真っ直ぐな車道は広く幅がとられている。反面、歩道は狭く、だけれども途切れなくガードレールで区切られている。一見安全な道に見える。車道を車だけが走り、歩道を歩行者が歩くなら、だ。
 
 実際は、その車道を本当に多くの歩行者が広がって歩き、ベビーカーを押しながらのお母さんが歩き、押し車を押してお年寄りが歩く。歩道を使わないのはなぜだろう、危ないよ、と引っ越してきた直後はびっくりしたものだが、それもそうだと今は思う。歩道上で人とすれ違うために車道に出てしまうと、延々と車道と歩道とを区切る格好のガードレールを乗り越えては歩道には簡単に戻れないため、歩行者はそのまま車道を歩くことになってしまうのだ。
 
 学校もあって子どもや歩行者の多い住宅地なのに、歩行者目線の考え方・作り方をしないから、こういうことになるのでは。実際、たまに猛スピードで飛ばしていく車がいるのも、車道が歩道から物理的に区切られているこの作りだから、車道上に出ている歩行者の方が悪い、クルマ様が通るんだからどけどけ、とドライバーが思うからだろう。危険は余計に増している。
 
<致死率が上がるのは時速30キロから>
 
 では、どう棲み分ければいいのか。講演では、「時速30キロ」が大切な分岐点なのだと教わった。生身の人体が車両と衝突した時に、車両の時速が30キロを超えると、ぶつかられた人の致死率がぐっと高まるというエビデンスがあり、世界的には知られている話なのだそうだ。
 
 幹線道路でなく、生活道路を考えた時に、今、日本の道では道路交通法の一般道路の上限が時速60キロとなっているために、速度標識が無い道では自動的に60キロになってしまう問題がある。以前、埼玉県川口市で幼児が複数犠牲になった事件でも、その道に標識が無かったために「こんな道で?」と驚く裏道でも制限速度は60キロだとされ、おかしい、と指摘されていたように記憶している。
 
 時速30キロが歩行者の致死率上昇の分岐点なら、道交法の60キロというルールは、いったい何を基準に決めたのだろうと思う。そこに歩行者や自転車への視点は無いだろう。逆に言えば、車の側も、60キロというルールを守って走行しても人を殺してしまうのなら、何のためのルールかと言いたくなるのではないか。
 
 少し前に、踏切事故で人助けをして亡くなった女性がおられたが、その時に踏切内への侵入を感知して電車を止める装置は、車は感知してもどうやら人間はスルーだと報道で読み、「電車の車両が守られればいいのか?人が轢かれても構わないのか」と衝撃を受けた。それと同じような人の安全を意識に入れない感覚が、道の制限も60キロと決めてしまったのだろうか。
 
 講演会の参加者は、そのスタンダードとなっている時速を30キロにしたいと多くが思っているようだった。私も同感だ。50キロ、60キロで走ってもいい道は、そう標識を立てて別に制限速度は指定すれば良い。誰も通っていないような細い生活道路でも、標識が無いからといって自動的に60キロにする現在のやり方は、どう見てもおかしい。
 
 講演会には、ソフトカーという、時速6キロ程度で走ることを想定した車両を研究している方も参加されていた。ある観光地では、既に地元自治体が乗り気なんだそうだ。細い道を、観光客と車がシェアしなければならない状況では、車がゆっくり走ることが安全上は求められる。地方では高齢者も多く、歓迎されているそうだ。
 
 その方が言うには、将来の技術の進展をもってすれば、GPSを利用して幹線道路から生活道路に入ったと分かった時点で電気やガソリンの供給量を制限し、車が一定の低速度でしか走れないようにすることは可能だとのことだった。技術によって、その道に合った速度でしか走れなくなるのなら、安全を確保できるような気がする。例えば、小学校の目の前の道で、猛スピードの車が走ることは不可能になるだろう。
 
 ただ、その場に合った「安全な速度」を決めるのも人だ。どの道、どのエリアで低速度で走ることに決めるのか。スピードに慣れてしまった社会の意識を変えることは、一気には難しいかもしれない。
 
 しかし、もうルールを守っていても犠牲者が出るような事態は見たくないと思う人が増えて行けば、人を蹴散らして決められてきたルールも、今後は人の安全を守る視点で変えられる日が来るかもしれない。そう信じたい。