黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

20世紀回帰を望む?裁判所

 昔の参考資料を慌てて引っ張り出してみる。ダグラス・エヴァン・ビルーフという米国の学者は、1999年の論稿で、刑事手続においてその当時から過去30年にわたって信奉されていた「犯罪統制モデル」と「適正手続モデル」の2極のみによる価値観の対立的関係はもはや成り立たないと述べ、「被害者参加モデル」の価値が加わった3極モデル構造を説いた。繰り返すが、1999年という20世紀中に発表された論稿の話だ。

 日本の裁判所の刑事司法における考え方は、2004年に犯罪被害者等基本法ができて十年を越えても尚、「被害者参加モデル」の価値観を認めない20世紀のままなのか…そんな風にガックリさせられることがあった。

 4月19日に都内で開かれたシンポジウム「裁判員裁判の問題」にお邪魔してきた。テーマとして取り上げられたのは、ここ1年半ぐらいで急速に広まっているという遺体写真を証拠として取り上げず、代わりにイラストや3Dグラフィックスなどが証拠採用されているという動きと、もう1つ、市民から選ばれた裁判員が一審で下した死刑判決を、先例を重視するとしてプロの裁判官が高裁や最高裁で覆す動きについてだった。

 どちらも、関連の刑事裁判を経験されたご遺族の話が基調報告としてあり、裁判員制度の意義を根本から問い直す問題提起になっていた。

 テーマ1の「遺体写真の証拠採用制限」については、むごい遺体写真を見た結果、精神的負担になったとして元裁判員が国を訴えた件が、裁判所の態度にダイレクトに影響しているようだ。国は「裁判員の利益」を謳いつつ、国が訴えられたくないのが本音で、早々に写真を証拠から引っ込めてしまったようだ。

 これについては、裁判員を選ぶ過程で写真によって影響を受けそうな人についてはもっと柔軟に辞退を認めるようにすれば良いのではないかとか、いざ写真を見た場合でも、その後の精神的影響に対応する手立てを手厚く用意すれば良いとか、写真を引っ込める前にやるべきことはたくさんあるように思うが…刑事裁判という場で、真実を究明するために証拠の王様にも見える「写真」という客観的なシロモノを放棄してしまう神経が信じられない。「百聞は一見に如かず」って聞いたことありませんかね。写し方にもよるけれど、写真を見せないで他の手段で説明を尽くすことに血道を上げるなんて、とても経済的ではない。

 シンポジウムでも指摘されていたが、イラストやグラフィックスは、写真に比べて、作成者の主観が色濃く反映されてしまうだろう。細部のどこをどう描くのか、その情報の取捨選択からして違う。イラスト作成者が見逃したり、ぼかした箇所を写真で拡大して見たら、重要な情報が写っていたりするかもしれないのに…。

 とにかく、刑事裁判の結果の影響の大きさを考えたら、これまでに参加してきた多数の裁判員のうちから1人が国を訴えたからといって、ビビッて簡単に真実の究明に資する物を証拠から締め出されたら困る。裁判所は、何を大切にすべきか優先順位を見失ってないだろうか。

 シンポジウムでは、遺体写真を念頭に、証拠採用の場面で被害者の利益への配慮が欠けていると司会役弁護士が言っていた。①裁判員の負担と、②真実発見と、その2つの価値のせめぎ合いに③被害者の利益も加えるべきと言ったところ…オブザーバー参加していた最高裁の刑事局課長は「③は難しいと言わざるを得ないのかな」と、にべもなかった。

 この答えについては、被害者参加制度はもとより犯罪被害者等基本法の制定に尽力した全国犯罪被害者の会あすの会)の前代表幹事・岡村勲弁護士が「制度を作った立場としては愕然とした」と、会場から怒りを露わにした。無理もない。

 冒頭に紹介したビルーフの3極モデルと、上記①~③はちょっと違うが、③の被害者の利益は「被害者参加モデル」が示す価値観(被害者を公正に扱う、被害者を尊重する、被害者の尊厳に重きを置く)と重なる。

 ここで他の2つも含めての簡単な説明も書いておくと、まず「犯罪統制モデル」は、効率的な犯罪抑制にその価値を置く。その効率性には、犯罪者を迅速に処分する能力を含んでいるので、国だけでなく、被害者の利益にもなる部分はある。他方、「適正手続モデル」は、被告人を適正に裁くことを最優位にその価値を置き、有罪の判断には確たる信頼性を求める。さっさと手続きを済ませようとする国家権力を制限する概念にもなるものだ。ということは、被告人だけでなく、ていねいに審理してほしい被害者の利益にもなる部分が、やはり出てくる。また、「被害者参加モデル」にしても、被害者の司法手続きへの参加は、被害者だけでなく、被告人を裁く証拠など材料が欲しい国の利益になる部分が出てくる。

 日本では被告人の利益を守る条項が憲法にあるものの「適正手続モデル」の価値観の尊重は十全ではなく「犯罪統制モデル」の価値観がずっと支配的であった。「被害者参加モデル価値」は、2004年の基本法と以後の関連法規により法律上はっきりと生じたが、強弱のバランスを見てみれば、従来の流れを引きずり、犯罪統制モデル>適正手続モデル>被害者参加モデルという価値観バランスになっているのではないかと、以前にも書いたことがある。

 でも、シンポに参加した最高裁の課長さんは、「被害者参加モデル価値」なんてものは見えていないらしい。見えても、被害者=証拠としての微々たる程度の価値しか認めないか。20世紀並みだ。それどころか、今の裁判所がやっていることは、新たに4つ目の価値観「裁判員の利益」を創造して、刑事司法のプロセスに持ち出しているように見える。ビルーフもビックリか。それが判断の際に最優先にされているとしか思えないのだ。

 ただし、この「裁判員の利益」は、「裁判所が考えるところの裁判員の利益」にすぎないのだろう。写真も見せてもらえずイラストで判断しなければならなかったり、ていねいに審理した一審判決を、先例優先の職業裁判官によって覆されるのでは、裁判員の不満は高まるばかりだろう。バカバカしい、やってられないと思うに違いない。それのどこが裁判員の利益の尊重になるのだろうか。

 裁判員は、有罪無罪や量刑の判断にていねいに向き合い、確たる証拠を求める姿勢を真摯に保っているように聞く。裁判員制度は、国民の感覚からはずれた職業裁判官による刑事裁判を、国民の目を入れて是正するために導入されたはずだから、裁判所という国家権力を制限する役割がある。それをよくよく考えると、「本来の裁判員の利益」はやはり「適正手続モデル」に属するものだ。

 しかしながら、裁判所がやっていることは、「裁判員の利益」を言いつつ、守っているのは国の利益なのだ…「裁判所が思う裁判員の利益」を隠れ蓑に、ここぞとばかりに「犯罪統制モデル価値(国の利益)」の肥大化が進展しているのだろうか。

 頭の整理を兼ねてアレコレ書いてしまったが、とにかく確かなのは、③被害者の利益が、20世紀並みにしぼみつつあることだ。裁判員制度という、職業裁判官から見れば厄介で迷惑なだけの制度を、なるべく批判を避けつつ美しく骨抜きにする過程で、「被害者参加モデル」は少なくとも最高裁の課長さんの頭からは消え去り、20世紀の状況になったのだ。

 今回のシンポジウムの議論を通じて透けて見えてきたのは、裁判所の裁判員制度に対する覚悟の無さだ。この制度を導入すれば起こるだろう、想定内の事態がこれまで起きているだけに思うけれど、あたふたと過剰反応している。裁判員となる下々の一般人は証拠写真を見たぐらいで文句ばかり言うし、その良識なんかをお上は信頼しきれないんです・・・との本音がバレバレだし、職業裁判官には居心地の良かった古き良き20世紀並みに戻そうとしているようにしか見えない。

 その証拠に、裁判官の今のお仕事は「裁判員を説得」することだっていうお話だから・・・裁判所の考え方を理解させ、それに沿った判決をイヤイヤでも出してもらう。だったら、もう裁判員なんて要りませんよね?

 寂しいことだけれど、国民と共に同じ地平を歩もうという裁判官は、この国にはいないのかな?雲の上ばっかりを歩きたがっていて。

 21世紀に確立しつつある、被害者の利益が看過されるのは困る。同様に新しい裁判員制度が骨抜きにされるのも、被害者には困る。なぜかと言えば、裁判員の「適正手続きモデル」に属する態度は「被害者の利益」にも大いに資することだから。この問題は、スルーを許さず、今、声を大にして言わなければいけないのではないかと思った。