黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

「全力で許す」って…むむむ

日曜日の朝刊を見ていたら、JRAの一面広告が載っていた。日本ダービー文庫「馬のような人の物語」の三回目だそうだ。タイトルは「彼女はいま全力で」、作家の江國香織さんの手による超短編だ。

主人公は「ちさ」という七歳の小学二年生。初夏の教室の窓際の席で、授業中だ。先生の声を「そこにある音として認識はしている」けれど、聞いていない。そして、「認識することは、許すこと」と彼女は考えている。

しかも、彼女はその「認識=許すこと」を「日々全力で」するんだそうだ。「世界はすでに目の前にあるので、ちさにできることは許すことだけなのだ」と、文章は続く。許すことはこの世に無数にあるから、彼女は許しても許しても追いつかないし、彼女の許可なく物事は起きる。それを「不本意」という言葉で表現することは、まだ幼い彼女は知らない。

何事も起きていないかのように見える初夏の教室の中で、何もしていないかのようにただ見えるだけの彼女が、「全力で」世界を許そうとしている・・・そんな形で終わっている文章に、むむむ、と思った。

・・・なんちゅう上から目線だろう。唯我独尊。こんな彼女を「全力で立ち向かう孤高の馬」のようなってJRAは言っちゃうんですか・・・馬ってそんな生き物か?馬だって、そんな風に自己愛全開にして他者を見下してたら群れの中で生きていけないのでは?と大いに疑問だ。

「全力で」を毎日繰り返していたら、いつか「ちさ」は疲れるだろう。そんな自分勝手な「全力で」を繰り返して、いつか表面張力に限界が来るように、彼女の意識はパチーンとはじけるんだろうか・・・その時に出てくるのは、自分勝手な怒りと、そして他者への(彼女の場合、自分を取り巻く全世界への)攻撃性ではないのか。自分はこんなに許してあげていて我慢も限界だと思っていれば、気持ちの中での怒りは、行動にもつながるかもしれない。

自分は特別我慢している、というスタート地点で物を考えてしまうと、他人に何かをしてもらっても当たり前と思うようになり、しない相手が悪いと思ったり、自分の気に沿わない相手が悪いと他者を責めがちだ。DV関係では、そんな話は当たり前のように出てくる。そういえば、「我慢の人生を生き抜いてきた」と裁判官に訴えて、一蹴された加害者のケースもありましたね。

基本の立ち位置があなたはズレちゃっていたんですね、他人に比べて特別だなんて、どこで勘違いして思っちゃったんですか?と聞きたくなる。その人は、まわりの人がやることなすことが気に入らない。他人の心づくしが気に入らない。他人のやりように、ずっとずっと我慢に我慢を重ねてきた、なんて言っちゃうんだから・・・。

それで暴力をふるって裁かれているのに、自分は悪くないと思っていたりする。

私は、冒頭のストーリーの続きがもし書き継がれるとしたら、ものすごいモンスターペアレントなり、まわりを暴力的に圧倒して困らせて、果ては犯罪の加害者になっても「私は悪くない」と言い張っている、成長した「ちさ」さんのストーリーになるんじゃないかと心配だ。いや、もちろんヴァーチャルだって知ってますけどね・・・「ちさ」さんの生き方をアリだと思う人たちの、周囲の人たちがこうむる害を思うと、大きな大きな先回りをして、心配になった。