黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

「しない善」と「する偽善」

今日は、得意の「ぎっくり背中」にて連休の最終日が無駄になった。とほほ。

さて、熊本地震への芸能人による支援について批判する声があると聞く。報道で知る限りでは、各500万円を熊本県大分県に寄付して証拠もSNSにアップしたサエコが、「人には言うが自分は何もしない」との批判を事前に封じようとした用意周到さ(?)が災いして責められたり、ダレノガレ明美が支援に有用なサイトのURLをシェアしていたら「指だけ支援」と批判されたり(その後、彼女は現地にも支援物資を運んだりしたらしい)。

今日もフジテレビだったかで見かけたが、泉谷しげるが批判をまったく否定せず、「はいはい偽善ですよ売名行為ですよ」と軽く受け流していた。先日も、何で見たのか忘れちゃったけど、元ジャニーズアイドル田中某も「しない善より、やる偽善」と言っていた。

うん、こうやって完全に偽善だよ、おっしゃるとーり!って開き直るのって気持ちいいですね。見習おう。

人の足を引っ張りたい人、気持ちを挫きたい人って、残念ながら存在する。被害者支援の活動を通じてそういった声を容赦なく浴びせられたり、控えめにでも告げられて直面するたび、自分の不徳の致すところを思い知る。これは「お前の善意なんか信頼できない」と言われているに等しい。

特に、日本の社会は組織の肩書、職業での関わりは信用するけれど、基本的に個人の関わりは信用されにくいと感じる。

「へ~何でまた」と、何か魂胆があるのかと根掘り葉掘りが始まればまだいい方で(こちらも正々堂々と説明できるから)、大体は横目で見て逃げられるか弾き出される。いつだったか、何かのパーティーで私がフリーランスと分かった途端、あらぬ方向に顔をそらした役所の課長さんがいたなあ。間に立って私をその課長さんに紹介しようと力説していた知人が気の毒で「いいの、いいの」と言いたくなった。

こちらも人だから、信用されないと寂しい。こちらの力不足があるかもしれないが、そんなに悪く穿った解釈をして攻撃してかかったり、一面だけ見て判断しなくても良さそうなものだとも思う。近視眼的でなく長い目で見てほしいとも。被害者の人(達)のためにと力を尽くしてやり遂げたつもりでも、誰に吹き込まれたのか偏った見方をぶつけられるたび、あ~わかってないんだなと正直、力も抜ける。

そんな時、分かってほしいと思えば相手にもこちらの考えを伝えるが、基本的には「そもそもお節介、自己満足、自分勝手。誰が認めずとも自分が良いと思い決めてやったこと。仕方ないよね」と自分に言い聞かせる。あとはセルフケアに励んでまた頑張るぞ!と気持ちを切り替える。

だが、「偽善者」「売名行為」という言葉に反発する気持ちは、多少、拭い切れずに心の底に沈殿させてきてしまったようにも思う。

それを「はい偽善ですよ、売名行為ですよ」とマルっと言ってしまうのって・・すごいなあ。「偽善者」等のレッテル貼りを無力化する発言だと思う。散々叩かれ慣れているからこその、さすがの開き直りだ。

しかし、「する偽善」に対応する「しない善」っていったい何だろうと疑問に思う。無理やり理解しようとするならば、つまり、そっとして踏み込まずに尊重するスタンスを指すのかもしれない。

相手の状態を見て、必要なら寄り添おうと努めるのが支援だと思う。相手抜きには「する」「しない」などの関わり方を決められないが、支援が不必要な相手への押しつけは悪になるから、「しない善」ということなんだろうか。

が、今回の被災状況を前にしても、「しない善」などと嘯いていられるものだろうか。ピンチにおいては、そのスタンスは単に被災者を見捨てる行為になるだけに思える。照れずに、できることをできる範囲でできるタイミングにおいて、ただすればいいだけなのではないだろうか。