黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

祖父の事故、父の事故

このブログ(さぼってばかりだが)に「被害者家族として」という書庫を設けることにした。これまで「つれづれ」などにカテゴライズしてきた記事の中にも、当事者として書いているものは、気づいたら移すつもりだ。

「当事者として」と書いたものの、いまいち遠慮がある。それは・・・我知らず、比べてしまうからだろう。

これまでお目にかかってきた被害者の皆さんに「被害比べ」は不毛なものだと教わってきたし、私自身も「被害比べはやめましょう」と言ってきたので「それなのに比較するとは、どういう了見なの?」と自分でも笑ってしまう。でも、父のケースは、「交通犯罪」と呼ぶよりも、やはり「交通事故」なんだと思う。

あれは、加害者とされる大学生の不注意によるところが大きい。何より、被害に遭った父自身が、親と謝りに来た大学生を許したいと言って、大学生の将来を心配して刑事処罰を希望しなかった。

つまりは、今のところではあるが、加害者側の謝罪など、こちらへの対応が「まとも」だったということが、父にもそう感じさせ(後から「俺もずいぶん物わかりの良いことを言ったな」とは言っていたが)、私が他の被害者の皆さんに「遠慮」を感じる大元になっているようだ。

母も、謝りに来た加害者親子に対してお父さんが強く出なくて良かった、ホッとした、などと余裕を見せて私に言っていた。

そうは言っても、「今のところ」と書いたように、家族の気持ちが今後どう動いていくかはまだ分からない。今、家族は、死の近づいた父の体調に目を奪われている。加害者に対して怒りが出たり、目が向くのは、これまで学ばせていただいたケースを見ても、父の死後なんじゃないかと思う。

父の事故後、息子さんを亡くされた二人のご遺族と焼き鳥を食べながら話をした時にも言ったことだが、数十年前に交通事故死した祖父の加害者に対して怒りをずっと抱えている私。今でも、祖父が死に際に私を見る目と、赤く染まった遺骨をまざまざと思い出す。

しかし、私は外孫だったから、「大好きなおじいちゃん」の死なのにあまり関われなかった。もちろん、私のセンチメンタルなだけの気持ちよりも直接に祖父の死によって大きな影響が及んだのは、祖父母と同居していた叔父一家であり、いとこたちだったのだから仕方ないのだが。

でも好きということで言えば、父よりも祖父の方が段違いに好きだった。「ちびまるこちゃん」を見ると、幼い頃の毎年の夏休み、私と遊んでくれた祖父を思い出して泣ける。だから、私の祖父の加害者への怒りは、父の加害者に対するそれよりも全然強い・・・と言った私に、「それは死んでないからよ」と遺族のお二人は異口同音に言った。つまりは「やっぱり被害者の命があるかどうかなんだ」という結論だった。

被害者と自分との精神的関係性よりも、被害者の命があるかどうかが自分自身が感じる怒りの強弱に関わるのか? それは比べることでもなく、いずれも怒りを感じる複合的な要素のうちなのかもしれないが・・・遠くない将来、父の死を見た時、私はどう思うのだろう。