黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

父の最期に

9月17日に(と言っても、午前0時2分だったので16日だったようなものだが)父が逝って、もう3週間だ。これまで何気なく聞いていた宇多田ヒカルの「花束を君に」の歌詞が急に耳に入ってきたり、金木犀や曼殊沙華が父の最期の季節を彩る花だったかとか、生活の折々で父のことを考える。

「お父さん子だったの?」と人に聞かれて、いえいえいえ・・と否定した私。むしろ、若い頃は許せないと思っていた。父も、私の留学は「結果は良かったにせよ」という評価付きではあったが、私の計画にまんまとはめられたと思い、納得していなかったとパソコンに残った書き物で知った。

まあ、だけれど、人間は不完全な生き物だとお定まりのように私も成長に従って気づき、親って子に尽くしてもいつでも反面教師役をさせられるものだと、感謝の念も辛うじて持てるようになった。(この書き方、「相変わらず憎たらしい次女だ」と父は思うだろう。こういう素直じゃないところが母譲り。直さなくちゃ。)

私は具合が悪かったり忙しかったりし、支配的な母との対応が面倒で実家にはあまり寄りつかなかった。しかし、母の「口撃」に遭っていた父からは、私がレジリエンス等での学び以来、その心境に理解を示したところ、たまに気持ちを吐露するメールが来るようになっていた。

それが今年1月10日に父が交通事故に遭い・・・ひどく頭に傷を負い、出血も多く「もう死ぬのではないか」と警察官が待機していた状態から、せっかく持ちこたえたみたいだったのにね。すっかり忘れてた四半世紀前のガンなんかが再発してしまうなんて。

やっぱり高齢だし、事故のダメージは大きかったのだと思う。人間は、全体のバランスを考えるべき生き物、1つ大きなダメージを受ければ、アチラが多少治ったように見えても今度はコチラに大きな影響が及ぶ。パーツを治せば全体修理オッケーの機械のようにはいかない。

生き残っても、父はもう以前の父ではなくなっていたから、父も、家族にも感情的な混乱があった。母はまだ受け止められていないのだろう。弟は大きな後悔を残した。「たられば」だが、脳の機能障害の後遺症がなく、ただガンだけを患ったのだったら・・イヤイヤ、事故に遭ってなかったら、そもそもガン再発があったのかどうか・・・等と、今も考える。

ほぼ1年前の、新車が届いてドライブに出かけた得意満面の父の写真を見ると、こんなにピンシャンしていた父が、と思う。10歳上の次兄である伯父も、なんでお前が先に・・・と葬儀で泣いた。母も、まさかこんなに早く先に見送るとは、と言った。

ちゃんと父から聞いておきたい話もあった。父も、様々な疑問点を整理や解消できないまま死を迎えたのかもしれない。言い残したいことも、頭がシャンとしていたら本来はあったのではないかと思うが、幼子に戻った父には、それどころではなかった。

姉が精進落としの挨拶で言っていたが、父はあんなに甘えん坊で怖がりだったのかと・・・最後の数日間は姉と交代で目を離さず見守ったが、私から姉に交代したところで父は息を引き取った。父にとって特別だった長女に看取られたのは、一番良かったのではないかと思う。

息が止まったと姉からの電話で聞いて、自宅から病院に取って返した。金曜日の夜で途中からは終電も終わり、タクシーには長い列。日中たっぷり一緒だったから死亡宣告は私を待たないでいいと姉に伝えた。

日付が変わり、到着して見た父の死に顔は、穏やかに満面の笑みを浮かべていた。8か月も頑張ったけれど、もう辛くないね、と思った。ありがとう、と素直に言えた。


<音楽の中で逝った父>

父は、頻繁に目を閉じたままベッド上で両手を持ち上げるしぐさをすることがあったので、私は誰かの手を求めているのかなと思い、いつも手を握った。そうすると、父は「ああ」と我に返るように目を開け、私をじっと見て、笑って手を握り返す。「こんな風に手を取りあうことなんかなかったよね」と伝えると、面白そうに微笑んでいた。

しかし、2日前の15日、気づいたことがあった。その日は、昼頃に氷粒3つをバリバリと勢い良く食べてから誤嚥に苦しんだ父だったが、落ち着いてからハーゲンダッツを食べ、また目を閉じて両手を持ち上げ始めた。

そうしたら、居合わせた看護師さんが「また二胡を弾いているんですね」と教えてくれた。以前、二胡プッチーニが互いに好きで、音楽の話で盛り上がったんですよ・・・と。そうだったのか、と慌てて「お父さん、二胡を弾いているの?」と父に聞いてみた。

そうすると「うん」とはっきりと声が返ってきた。また「音楽が聞こえているの?」と聞くと「うん」と。YouTubeだ!と思いつき、二胡演奏の「荒城の月」や「川の流れのように」を探し、スマホを枕元に置いて聞かせると、父の右手は大きく揺れ始めた。麻痺していたはずの左腕まで微妙に動いている。顔も、笑っている。

小さい頃から休日の居間にはオペラが鳴り響き、辟易としていた私が知るだけでもクラリネット、テナーサックス、フルート、ピアノ、コーラス、二胡・・・と、ずっと音楽とともにあった父。早くこうすればよかった。入院前にもオペラが存分に見たいと言ってたのだし、なぜ気づかなかったのだろう。

スマホが熱くなるまで聞かせ、その夜交代した姉にも伝え帰宅したところ、動画が送られてきた。プッチーニのオペラを聞かせた父は、四肢を動かし、明らかに口は歌っているように動き、大いに楽しんでいる様子。昼間から聞かせ通しで疲れちゃうかな、と多少気になったが、少しぐらいいいよね、楽しいんだからと思った。

翌16日の金曜日朝。父は呼吸が浅くなっていたが、所どころ止まりつつも曲に合わせ、右手を動かしていた。笑顔を見ていると、怖さも痛みも息苦しさも無念も何もかも忘れているかのようだった。

その日午後7時に「帰るよ」と言った時、ぴくんと反応があったが、「お姉ちゃんが来るからね」と言ったら安心したようだった父。その数時間後、天からお迎えが来たことになる。

その後、父の身じまいをしながら例の看護師さんに聞いてみると、なんと父と看護師さんは同じ場所、同じ先生から二胡を習っていたようだったと分かり、看護師さんも驚いていた。父は5年ほど前から習い、看護師さんは2年前から。それで「弓を持っている手だ」と看護師さんは気づいたそうだ。

母によると、父は事故後、おぼつかないながら、二胡の先生にしばらく行けないと挨拶の手紙を書いていたそうだ。それが父の書いた最後の手紙だったと思う。

この巡り合わせは、音楽の神による父への手助けだろう。感謝したい。