黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

「鎌倉殿の13人」義経は首で帰った

義経の逃亡説にも含みある描写

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、5/22の第20回で源義経の最期を・・・はっきりは描かなかった。これだと大陸に逃げた説もOKになるけど・・・という描き方。見ごたえのある、よく練られたやり方だよなあと面白かった。毎回毎回、すごい。

 藤原泰衡が軍勢を率いて義経に迫る中、鎌倉へ帰ろうとする北条義時が義経がいる場へと弁慶によって強引に呼ばれたところで、もろともに死のうと義経に言われるのかと思ったら(でもそんな緊張感は義時側にも感じられなかったけれどね)、さにあらず。

 「弁慶の立ち往生」の下ごしらえ(へー、あんな風になっていたのか!)を進める弁慶と明るく別れを告げた義経が、義時に言いたかったのは義経が考えた鎌倉の攻略方法だった。

 それを、梶原景時宛ての文書まで渡して「行っていいぞ、来た道を行け」と義時を帰らせるのだから・・・当然、義経もその抜け道を利用すれば、戦闘中でも出て行けるということだ。(あれ?そんなのアリなの?義時も軍勢の餌食にならないか?)と見ている時は引っかかった。

 もう既に、弁慶は軍勢を一手に引き受けて戦っているところ。それを建物の内側から面白がって見ている義経しか、視聴者は見せられていない。

 義時は悠々と脱出した。そしてもし、義時が帰った後にあの場から義経も1人で抜け出て姿をくらませていたら・・・そうしようと思ったら、あの義経なら弁慶や妻子の犠牲への心理的葛藤もなく、サバサバと平気でやるだろう。

 首桶の中の首級は、逃げられた泰衡側が何としても用意するだろうし。黒焦げの首とか。前回の父・義朝のしゃれこうべ同様、「源頼朝が『そうである』と言えばそうなるのだ」という仕組みも視聴者は事前学習している。義経が死ぬところを最後まで見せなかったのは、チンギスハン説を信じたいファンにも優しい配慮だったのかもしれない。

 義経は、「どこでもやっていける」と義時にも言われていたし実際そうだろう。

 もちろん、義経があの場で死んだと素直に受け取ることもできる。自分の首を奥州平泉の平和を守るために使うとの諦めたような言葉は、義時をだますために言ったのではなくて、どこまでも純粋だった義経の真っすぐな気持ちと受け取るか。私はそっち派で行きたいが。

 頼朝は政治(謀略)の天才。義経は武略の天才。梶原景時が口にしたように、並び立たない天才の兄弟だったのだな・・・と義経の悲運を惜しみたい。義経を鎌倉から送り出したときの、頼朝とのやり取りが伏線として効いている。泣ける。菅田将暉の義経、かなり良かった。

 今作「鎌倉殿」の義経は、「炎立つ」で野村宏伸が演じていた義経像に近いと感じた(なんと弁慶は時任三郎)。ウィキ(炎立つ (NHK大河ドラマ) - Wikipedia)にはこう書いてある。

源義経(みなもと の よしつね)
演:野村宏伸
 同じく義家の玄孫で頼朝の異母弟。
 京の五条大橋で弁慶と決闘。その様子を見ていた橘似らに武勇を認められ、奥州で青年時代をすごす。国衡が指南する馬術や弓術には積極的に取り組むが、泰衡が指南する国史の勉強には関心を示さず、泰衡を悩ませる。
 頼朝の決起を知ると「二度と平泉には訪れない」と泰衡と約束を交わして平泉を起ち、頼朝の元に駆けつけ、源平合戦で活躍し平氏を滅亡させる。やがて頼朝と不仲になり、泰衡との約束について迷った末奥州に逃れる。秀衡の前で頼朝討伐の策を披露するなど復讐の機会をうかがっていたが、一方で自分の存在が平泉を危うくすることに心を痛めていた。

 確か、渡辺謙の泰衡とは恋人を取り合っていた。「炎立つ」の第3部は、渡辺謙演じる泰衡が主人公だったから、話が裏側から見られる。鎌倉殿のファンの皆さんにはかなりお勧めだ。第1部からとても面白かった。 

 タッキーが演じた「義経」もある。キレイキレイに義経を描き過ぎていたけれど・・・松平健の弁慶と、渡哲也の清盛、松坂慶子の時子が印象に残っている。白石加代子の語りもおどろおどろしくて良かった。

 それにしても、「鎌倉殿」の小栗旬・義時は完全に闇落ちした。静の顛末をつかって義経の怒りを駆り立てて、さらに泰衡を焚きつけ義経を討たせようとする。そうすることで、頼朝の策によって平泉はかえって滅亡することになるのに、義経には黙っていた。武衛の死でガン泣きしていた彼がなつかしい。

 あと、三浦透子が演じる正室・さと御前はすごかった。憎まれ口しか叩いていないのだけれど、義経を愛していたのが痛いぐらい伝わった。決定的なターニングポイントを作り、義経に道を踏み外させていたのは彼女だった(でも、そうさせたのは義経だ)と知った義経によって殺されても、穏やかな死に顔がそれを物語っていた。

 ちなみに「義経」では尾野真千子が演じていた。実力派若手女優枠なのかな。

藤原秀衡の息子たちは

 義時が泰衡を脅しつけている場面で、泰衡の弟・頼衡という人物が義時の魂胆に気づき、襲い掛かって善児に瞬殺されていた。気の毒に。あれは誰かと気になったので、ウィキペディアで調べた。

 論文を書くのではないのだから、こんな時はウィキがやっぱり便利。昔は家にある「コンサイス人名辞典」で調べても、父の「歴史読本」の棚をひっくり返しても分からなければ、図書館に行くしかなかったけれど、こんな風に主要人物以外でもある程度の知識が得られるのは本当に便利な世の中になった。

 もちろん、最近は精度が上がっているらしいけれど、ウィキは完全に信頼できるものでもない。

 例えば、「青天を衝け」で人気になった平岡円四郎。ウィキには子は男子2人しか書いていない(2022/5/25現在、平岡円四郎 - Wikipedia)が、娘が2人いたと子孫の人がコメントしているブログに行き当たった。コメント欄は、子孫同士が色々と情報を開示しあっていて、面白いことになっている。(平岡円四郎の妻と子たち | 歴史ぶろぐ (reki-historia.com)

 どうやら円四郎の子どもは少なくとも4人はいたようだが、子孫でも勘違いがあったみたいだ。そうか、妻の「やす」さんは「屋壽」さんだったのか・・・。

 脱線した。藤原泰衡の弟、頼衡についてはこちらだ。(藤原頼衡 - Wikipedia)少し引用する。

 『吾妻鏡』には五兄とされる通衡とともに名前が見えず、また『玉葉』『明月記』などの同時代史料や、『愚管抄』『六代勝事記』などの年代記にも頼衡に関する記述は無く、史料に乏しい。通衡・頼衡兄弟の名が見える『尊卑分脈』は、頼衡は文治5年(1189年)2月15日に次兄の泰衡によって誅されたとしている。この4ヶ月後には三兄の忠衡源義経に与したとして泰衡に討たれているが、頼衡が討たれた理由について『尊卑分脈』に記述はない

 明治期に著された『平泉志』は秀衡の息子たちについて、国衡・泰衡・忠衡・隆衡・通衡(利衡)の5名を挙げ、注において頼衡の存在に触れつつもその実在性を「信ずるに足らず」と断じている

(中略)

  • 岩手県紫波町小屋敷に「錦戸太郎頼衡の墓」と伝わる墓石がある。頼衡は源義経に与同したことから16歳にして兄・泰衡によって当地で追討されたが、これを憐れんだ里人たちの手によって埋葬されたものという。程なく泰衡の追求を恐れた里人によって墓石は打ち捨てられたが、近隣を通りかかった由利維平が夜道に光るものを怪しんで斬ったところ、光は頼衡の墓所へと維平を誘って消えてしまった。後日、頼衡の墓所には墓石が元の位置に戻っていたが、頂部が斜めに切断されていた。また維平は怪力で知られた武士だったため、維平の手によって墓石が戻されたのだと地元では信じられたのだという

 さすがに地元にはいろいろと伝承が残っている。「鎌倉殿」には国衡(庶長子)・泰衡(次男で嫡男)とともに頼衡の姿が見えて、子は3人かと思ったら、秀衡には6人も男子がいたらしい。

 長男の国衡、三男の忠衡、五男の道衡、六男の頼衡が秀衡の遺言通り義経を大将軍に奉じて戦おうとしていたのだ。もしそれが実現していたら、結果はどうだったのだろう。八幡神の化身・義経が号令して、奥州軍には地の利もあって。もしかして鎌倉幕府は開かれていなかったのか?それなのに、泰衡は謀略に乗って自ら弟たち3人までを殺してしまったのだ。ああ。

唯一の生き残り・高衡

 そして、泰衡側で生き残った四男の高衡(隆衡)がさらに興味深い。(藤原高衡 - Wikipedia

 彼は、討ち取った義経の首を鎌倉に運び、奥州合戦の後も梶原景時の庇護のもと、幕府の客分となった。それが、梶原景時の変で梶原氏が滅亡した後、その残党が兵を挙げた建仁の乱(建仁の乱 - Wikipedia)で命を落としている。藤原6兄弟のうち、唯一せっかく生き延びたのに。

 高衡は「本吉冠者」の名乗りがあり、陸奥国桃生郡の「本吉荘」の管理を担っていたらしい。そこは金を産出し、奥州藤原氏にとって特別な領地だったとか。

本吉荘は藤原摂関家領だったが「悪左府」と呼ばれた左大臣藤原頼長が、本吉荘を含む東北にあった自分の5つの荘園の年貢の大幅な増徴を命じた。これに対して(奥州藤原氏2代目)基衡は5年以上に亘って頑として首を縦に振らず、結局頼長が当初の要求よりも上げ幅を大幅に小さくしたことでようやく両者の交渉が妥結し、頼長を悔しがらせている。頼長が保元の乱で敗死した後、本吉荘は当時の後白河上皇の後院領となったため、高衡は院ともつながりを持っていた可能性がある。

(中略)

高衡の領地「本吉郡」には、源頼朝の死後、北条時政らに追われた、景時梶原景季ら、梶原一門が梶原神社早馬神社を中心に匿われている。これは頼朝が東北全域(特に安倍氏以来の北部)を支配できなかった証拠であり、この統治の為に高衡は生かされたと考えることもできるが不明である。

 ウィキの高衡の項には以上のようなことが書いてあった。あと、高衡の領地は良馬の産地でもあり、平家物語にもある源平合戦の時の有名な「宇治川の先陣争い」でも、梶原景季と佐々木高綱の両者が乗っていた名馬がそこの産だった・・・と書いてあったがどこだったろう。次々関連を読む「ウィキ祭り」をしていて、見失った。

 梶原景時の変も当然「鎌倉殿」では描かれるだろう。そこに秀衡の息子・高衡は登場するのだろうか?もう義経の首は届けられたのだし、出てこないかな。