黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

「鎌倉殿の13人」義経ロス続く…逃亡説と遺児説と

チンギスハンになった・・・は無いのでは

 前回5/22のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、奥州平泉に逃れていた義経がどうやら妻と娘と共に最期を迎え、「義経の首」と称される物は鎌倉に届けられた。大泉洋演じる頼朝は、公式の態度とは裏腹に、その首を前にしてひとり号泣し、多くの視聴者を泣かせた。

 そうやって裏の人間的な面が描かれると、そろそろドラマからの頼朝の退場も見えてきているのかなと思ったりする。さらに、演じる中の人が「土曜スタジオパーク」か「あさイチ」のプレミアムトークに出ると危ない。

 そう、頼朝が言うのだから、その首の主は義経だと公式に認定された。ドラマからはサヨナラだ。初夏の暑さの中、遠方から運ばれた上に首実検の日時が延期されれば、美酒漬けであっても生首の損傷は進むが、どんなに誰の首だか判別不能だったとしても、それは義経。もっと菅田将暉の義経を見ていたかったな、残念。

 義経ロスは私だけではなく、「鎌倉殿」にハマっている家族は、「あれは義経の首じゃないだろう、やっぱりモンゴルに逃げてチンギスハンになったんだ」と主張する。あっちも、ロスのなせる業だ。

 もし平泉から北海道に逃げて、大陸に渡ったとしたら? 藤原秀衡が生前に何か仕掛けていたら可能なのではないか。奥州藤原氏の莫大な富は、大陸との貿易によって積みあがったとも聞く。それが本当なら、交易関係者のツテはあっただろう。

 金売り吉次とか?確か、そんな人がいた。歴代の「炎立つ」「義経」にも出てきていたかと・・・そうだ、ご老公西村晃と、女性版を紺野美沙子が演じていた。

 諦めきれない家族が主張する話で面白いなと思ったのは、そのチンギスハンになった元・義経の遺言で、元寇は起きたのでは?というところ。大河ドラマ「北条時宗」でも扱った、第5代皇帝フビライハン率いるモンゴル帝国による日本への侵略戦争だ。

 第8代執権・北条時宗を中心に、日本軍はモンゴル軍に文永の役(1274年撃退)・弘安の役(1281年撃退)の2度とも勝利した。時宗は、3年後の1284年にわずか34歳で亡くなっている。過労死だったとしても無理からぬこと。気の毒に。

 チンギスハン説は昔から言われてきた。でも、そこから元寇とは。先祖の遺言を守ったみたいな。義経が大陸に逃げてから、平泉が鎌倉軍の手によって灰燼に帰したと知る➡鎌倉に対しての怒りを募らせて子孫に遺言➡元寇、という流れは興味深い。タイミング的にもピッタリ、関係性を考えても面白い。

 「やあやあ我こそは・・・」なんて日本式の礼節に則って名乗りを上げている間に打ち取られた日本の将兵からすると、モンゴル軍の攻め方はえげつなかったと、昔高校の先生が言っていた。対馬や壱岐の島民は皆殺しにされたらしい。そのやり方は確かに「鎌倉殿」で描かれた、手段を択ばないサイコ義経っぽい。

 この生存説は、昔からの眉唾説だと聞いてはいたけれど、今はどんな風に評価されているのだろう。

 色々な人が色々なことを書いている中で、気になったのはコチラのサイト。大学院までしっかり史学を勉強された人が書いているらしい。源義経とチンギスハンは同一人物なのか?今でも語り継がれる疑惑を解明 - レキシル[Rekisiru] 

 チンギスハンが使用している紋章が、義経の清和源氏の家紋「笹竜胆」と似通っているという指摘はびっくりした。両者のものを見比べると「おお!」と目を奪われる。似てる。また、江戸時代には医師のシーボルトが義経=チンギスハン説を提唱していたそう。結構大事になっていた。

 あと、チンギスハンには「クロー」という別名があった(!)と、どこかのサイトでも見た。ホントなのか。出来過ぎだが、真実なら驚きだ。

 でも、いくら日本人側ばかりが義経への夢をチンギスハンに託したいと言っても、やはりそれはモンゴル国民にとっての英雄にケチをつけるようで、失礼な話ではないか。そして、現代的な決着は、既についていたらしい。

2004年のオックスフォード大学の研究者によるDNA解析により、モンゴル帝国時代のチンギス・ハンのもつY染色体が日本人には見られないものであると判明したことから、別人だと考えられる。(【チンギス・ハン】モンゴル帝国初代皇帝の人生と源義経説の真相 | 歴人マガジン (rekijin.com)

 この記事によれば・・・やっぱりチンギスハンは日本人ではなかった。義経じゃなかった。でも、21世紀に入ってからの決着だったのか。

 極東の国での疑問に対して、ちゃんと英国で解析した人がいたことにも驚かされる。義経は、こうやって長きにわたり愛されるだけの人物だったことは間違いない。

遺児がいたの?それはホントなのか

 さて、義経本人もそうだけれど、遺児についても生存説があるそうだ。知らなかった。が、こちらの方は義経=チンギスハン説よりも信憑性がありそうだ。

吾妻鏡』の文治3年2月10日条には、義顕(義経)が奥州入りした際に「正室と男子、女子の子供を連れていた」とされているが、衣川の戦いで死亡したのは4歳になる女児のみ記載されていて男子の死については記載されていない。『続群書類従』の「清和源氏系図」には源義経の男子として千歳丸が挙げられている。(陸奥国衣川館において3歳で誅殺されたとの記載もある。)秀衡が、常陸坊海尊に義経の縁者にあたるとされている念西に託すよう命じたとのことで義経一行が奥州入りした文治3年2月から秀衡が亡くなったとされる10月の8ヶ月の間に経若が連れ出されたされていることや衣川の戦いで亡くなったのが女子のみの記録などから、この千歳丸が経若であるとの伝承を裏付けているとの説もある。(中村朝定 - Wikipedia

 この義経の遺児・千歳丸の成人後の名は中村朝定(なかむらともさだ)というそうだ。秀衡が画策して養子縁組が先になされていたのだとしたら、奥州合戦を経てもしっかりと逃げられそうだ。

 義経の縁者として秀衡に命じられた念西という人は、どういう縁者なのかなと思ってさらにウィキ祭りに突入してみたら、義経のいとこだったとわかった。つまり、父・義朝の姉妹を母に持つ人物だった。そして、なんと伊達家の初代だとか。伊達朝宗という(常陸入道念西 - Wikipedia)。

 伊達家と言えば、敗戦の将・真田幸村の子女を大坂の陣の後に匿ったお家柄。初代から同じようなことをやっていたのか。

 そして、この念西の娘・大進局(だいしんのつぼね大進局 - Wikipedia)は、大倉御所で働くうちに頼朝の子を身ごもって庶子を生んでいた。貞暁(ていぎょう)という(貞暁 - Wikipedia)。政子が不快がり出産の祝いは省略され、実朝が生まれる前に子は出家のため京都へ、鎌倉を離れた。

 念西がこういった縁ある人物であるならば、秀衡から義経の子を託されて養育していても不思議ではない。口から出まかせのフワフワした夢物語でもなさそうだ。

 ウィキによれば、この義経の遺児と目される中村朝定は、鎌倉の監視下に置かれたらしい。こりゃもう、義経の子だと幕府も認めていたということじゃないのか。

承元3年、源実朝が常陸冠者為宗に長世保(現在の宮城県松山町)の拝領地の開墾を命じた際、朝定(義宗)を伊佐為家の鎌倉舘預かりとし実質は朝定(義宗)、縫殿助父子を鎌倉の監視下に置いた。鎌倉幕府は中村領を伊勢神宮領小栗郷「小栗御厨」を管理していた小栗氏に地頭を任じ中村領を管理させた。この頃、朝定は義宗と名乗っていたが幕府は義経に通ずる義の通字を良しとせず養父朝宗より1字賜り朝定と改めた。朝定、その子中村縫殿助、孫の中村太郎は、八幡宮に奉納するほどの弓の遣い手であった

 この承元という元号は1207年に始まるので承元3年なら1209年。時の執権は北条義時だそうだ。では、義時は義経の子、孫の存在をそうと分かって殺さずにいてくれたか。監視下に置いたのは仕方ないにしても。それにしても、名前まで元は「義宗」、それを改名させたとは。義経の子だと幕府が認めていたってことではないか。

 「鎌倉殿の13人」の脚本・三谷幸喜は「吾妻鏡がドラマの原作だ」と言っていた。この息子について、ドラマでも触れるだろうか?郷御前と死んだのは娘だけだったし。

 前回の静御前の男子を殺さざるを得ない方向で事が転がり出した時(つまり、静が覚悟を決めて華麗に舞い始めた時)には、先行きを悲しんで顔を赤くしていたように見えた義時。その後の平泉では、冷たく割り切って頼朝の策を実行して義経を追い込むことになったけれど、少し前の義時はまだ、義経のために涙していたのだ。

 だから、義経の遺児と対面する義時を、ちょっと見てみたい。その時には、また菅田将暉が演じてくれないかな、中村朝定を。

(敬称略)