黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

亡き息子(猫)が夢にご出演・・・のはずが

ドラマブログと化している今

 このブログは、亡き愛猫を偲ぶグリーフワークのようなつもりで書いていこうと思っていたのだけれど、結局のところ、最近はNHKの朝ドラや大河ドラマを中心に、テレビドラマの感想ばかりが並ぶことになっている。

 まあ、それでいいのかもね。心を慰めるためにドラマを見て、フィクションの世界で展開する他人の生老病死に思いをはせる。そうすることもグリーフケアになっているはずだから。

 そもそも、既に息子が逝って2年4カ月が6/4で経過した。「もういい加減、ペットロスも無いでしょう」との声がどこからか降ってきそうだけれど、対外的にはともかく、心の中では私の中では変化があったとは思えない。

 人間の子のない私にとっては、猫でも家族、息子だ。家族を喪うというのは、そういうこと。悲しみはいつまでも消えない。ただ、悲しみを抱えやすくなっていけるよう、ソフトランディングを目指すまでだ。

 今の私の楽しみは、息子と共に頻繁に旅した伊豆の国市の温泉宿に、また夫と行くこと。ただ、現在はそこを地元とする「鎌倉殿の13人」が絶賛放送中だからだと思うが、今は通常よりもお宿の宿泊料が高くなっている(!)。

 もちろん、ご商売だから当然人気の時期には高くなるのだろう。悪くは思わないのだけれど、私たちは急ぐことも無いので、「また通常料金に戻ってから泊まりに行こうか」と夫とは話している。

 人気のあるのも善し悪しだ。

息子の夢、新パターン

 さて、最近も私たちの生活の中には色濃く息子の影は存在していた。

 夫が買ってきたガーベラを生ければ、息子の死後まもなく私が「ここにいるんでしょ、何かわかるように落としてごらん」と呼びかけた30分後ぐらいに、不自然に散ったガーベラの花を思い出したし、冷蔵庫の前を歩けば、冷蔵庫のピカピカの扉に反射して見えた自分の姿にびっくりしてクルクル回った息子の姿を見たような気がした。

 昨日は、夫と一般的な「猫の額」の話になって、私の頭の中にはいつもチュッとご挨拶させてもらっていた息子の額(このブログのタイトルにもなっている「黒猫の額」)と、そうされる時に夢見るように目を閉じて私の方を向いて顔を差し出していた息子の姿が再生された。

 それも、くっきりありありと。息子は今も、我々の生活のレギュラー選手だ。

 それで夜も、睡眠中に夢に出てきているのはわかったのだけれど・・・記憶しておきたい場面があったはずなのに、朝になって起きるとやっぱりあまりおぼえていない。残念だ。

 今、おぼえていて言葉にできそうなところを書いてみると、夢の中で我々は「大草原の小さな家」で描かれた、アメリカの開拓時代に生きているようだった。

 どうやら日本人ではなさそう。父が自力で建てたというローラの家よりも、どちらかというとネリーの家みたいなしっかりした家のキッチンで、夫が「パリ仕込み」だという触れ込みで変なパンケーキの作り方をしていた。

 ボールに並々溶かしたバターの中に、パンケーキ生地を丸々投入してしまい、しばらく待ってからパンケーキを普通にフライパンで焼くのだという。自信満々な夫とは対照的に、私は心配になり、バターに浮かぶ生地を横から覗き込んでいる(その時代に耐熱ガラス製のボールがあったのかと言えばそうとは思えないのだけれど)。

 足元には息子クロスケがうろちょろしていた。

 その後、パンケーキがどうなったのかわからないまま。新しい家に引っ越したらしく、キッチンにある新しい棚や床にある収蔵スペースに「ここにクロスケのごはんを入れたらいいよね」などと話をしていたはずが・・・「もう入れることも無いんだ」とクロスケは死んだことになっていた。クロスケの姿も消えた。

 これは新しいパターンだ。夢の中で、息子クロスケが死んでそれを悼んでいる私たち、というパターン。いつも夢では息子は生きて一緒に生活していたのに。

 どうなっているの?と寝ている私は混乱したのか、そこで目が覚めた。二度寝して続きを見ようかと思ったが、既に起床してもいい時間だったのでそのままになった。

 昼寝・・・してみようかな。息子Blackyが再登場してこないかな。