黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

【鎌倉殿の13人】比企尼と若狭局、埼玉で生きる説

北条政子が悪夢を見てる?

 8/27にNHKの総合で土スタを見た。「鎌倉殿の13人」の特集とのことで、北条政子役の・・・おっと、「政子」役の小池栄子が出演していた。「鎌倉殿」の再放送から引き続き、楽しみに見た。

 いつだったか書いたように、最近は政子に共感してドラマは拝見している。夫・源頼朝が倒れて以来、辛さしかないだろうな、と誰でも感じる鬼展開だ。小池栄子曰く、スタジオはしーんとしちゃっているそうだし、彼女は悪夢にもうなされているらしい。

 それはそうだろう、もう1年以上、政子として現実だったら耐えられないような(現実じゃなくてドラマだけど)、自分の子や孫の命が関わる争いに、演者としてではあるけれど、直面しているのだ。

 お気の毒。でもね、小池栄子はいい仕事してる。以前書いた通り「平清盛」での杏が演じた北条政子が気に入っていた私だが、キャスト発表の際には、フジテレビ「大奥」のお伝の方を演じた彼女を思い出して「ピッタリなんじゃないの?」と期待で一杯になった。単なるイチ視聴者の期待ではあるが、それ以上。懐の深い、愛情深い、それでいて迫力あるコミカルでもある政子を演じていて、岩下志麻の政子よりも確実に好きになった。小池栄子の代表作になったはずだ。

 8/21の32回「災いの種」では、政子が長男頼家に対峙して、頼家の後見である比企家の滅亡を告げた。これで梶原景時に引き続き、比企という後ろ盾のなくなった頼家は、政治的に孤立無援だ。

 政子は、「私の役目」だと言って頼家に話をしたが、中途半端に実家の北条を庇いだてした。比企滅亡の理由を「頼家を失って絶望して自ら命を絶った」と説明したせいで、政子まで恨みを買う結果になった。母だけは信頼したいと思っていただろう頼家にもつらい、母子の会話だった。

 当初、頼家は「比企は滅んだということですか」と母・政子に対し敬語で話していた。そこが脚本のうまさだ。しかし、真実を話さない母→息子激昂、当たり前だ。「北条を儂は絶対に許さない。おまえもだー‼」と怒鳴られる政子。切ない。

 政子が奥歯に物の挟まったような説明をしたのも、自分の実家可愛さの為ばかりではないだろう。せっかく生き返った頼家が、北条を責めれば北条から殺される。それだけは避けたい。息子の先行きを慮って、比企を北条が滅ぼした真実までは、言及できなかったのだろう。

仮に義時が頼家に比企滅亡を告げていたら

 空しいが、真実はすぐわかること。ただ、政子が話をしくじった、とは思えない。仮に義時だったらどう伝えたと言うのか。「全てをお話になるおつもりですか」と姉に迫っていた義時なら。

 頼家は誰が話そうと、相手の言葉以上に考え真実を嗅ぎつけるだけの頭がある。政子が「善哉とつつじは三浦に守られて無事だ」と告げた時、北条が比企だけを滅亡させたと悟ったぐらいだ。だから結局は義時が話しても、頼家は激昂し、北条への恨みを爆発させる結果になっただろう。

 義時から話を聞いた頼家は、刀を抜いたかもしれない。病み上がりの頼家(それにしては、燃え落ちた比企邸を見に行った時などかなり元気に歩き回っていたが)は返り討ちにあったかも。義時は、それも良しと考えていたか。政子が義時を止めたのも、弟と息子が会ったら危険だと感じたからかもしれない。

 しかし、義時の方も(姉から反発されてそうはならなかったが)自分が頼家に真実を伝えれば、少なくとも姉と甥の親子衝突は避けられると考えたかもしれない。姉と甥への優しさもあったような気がするのだ。「できねえ」と泣いて悲しむ善児の代わりに、一幡を斬ろうとしたように。

 「てっぺんに立つ」と決めて闇落ちしたとの見方もあるが、義時は仮面をかぶってミッションを遂行しようと決めただけで、本人としての優しさは心に残っていると思いたい。もう1つ、仁田忠常の死についても義時は涙を流していた。比奈との別れを受け入れて「済まない」と言った時もそうだ。心まで黒く染まったわけではない。

 もし義時が頼家に比企滅亡について話をしていたら、仁田忠常は死なずに済んだろうか。つまり、四面楚歌である状況を甥・頼家に深く知らしめて無駄な悪あがきをしないよう、事前に伝えられたかもしれない。そうすれば、和田義盛と仁田に北条時政の首を所望することもなく・・・いや、頼家はそう簡単には諦めなかったかな。

 仁田忠常の死も、中の人のこれまでの意外な(失礼)好演で悲しい話になった。実際はもっと悲惨で、一族滅亡につながったらしい。伊豆の国市に行った時に、北条の領地のすぐ北に仁田というエリアがあった。その土地を、北条は併呑してしまいたかったのかな。忠常が、和田義盛の誘いに乗って一杯飲みに行っていたら良かったのに。

比企尼はリアルか亡霊か

 意識を回復した頼家は、せつ(若狭局)と長男の一幡にしきりに会いたがっていた。「なぜ顔を見せない」と尋ねると、トキューサに「なんでだ?」ととぼけてパス回ししてしまう時政。ずる賢くなったものだ。

 「流行り病」で押し通したいトキューサ、「聞いてませんな」と絡んでくる佐々木のじいさんの孫の医者。この場面は面白くて、ヒヤヒヤしているトキューサの表情がもっと見たかった。

 さて、32回終わりで草笛光子の比企尼が善哉(後の公暁)に呪いをかけるように、タイトルの「災いの種」をしっかり撒いて行った。怖かった・・・受けの善哉役の子役の固まったような演技が非常にうまかった。あの子もうなされていないかな。比企尼のあれは幻?亡霊なのだろうか?

 既にこの世のものではない存在なら、むしろ以前、比企家に善哉が遊びに来て会った時のような、きれいな尼姿で善哉の前には立つのでは?ボロボロの装束だったということは、比企尼は生きて会いに来ていた設定なのだろうか。「三浦に守られて」いるはずの善哉が、供の者も連れずに邸の外にいたとは考えにくい。とすると、どうやって生きている比企尼は三浦邸の中に侵入したのか。

 つつじの下へ「お休みにならないのですか」と義村が入ってきた時、おいおい、姫の寝所にその家の主人とはいえ、夫でもない殿方が入って来るなんて!と気になった。つつじは「恐ろしくて」と答えていたが、別の意味でも恐ろしい。誰でもどこでも入ってこられるんだな三浦邸。警護はどうなってるんだ。

 (そういえば、つつじを演じている女優さんは、頼家の中の人とフジテレビのドラマで元カノ元カレの関係を演じていた。passive-aggressive(PA)攻撃を次々と繰り出して人を陥れる恐ろしい元カノだった。そのあなたが「恐ろしくて」だと・・・と思ってしまった。)

 脱線した。つまり、比企尼は今後も生きて出番があるのか、前31回「諦めの悪い男」でトウに殺されてしまった「せつ」若狭局も、ドラマの中で完全に死んでることになったのかが気になっている。

 埼玉県をアンパンだとするとその餡のように中央にデーンと、9市町村にも及ぶ大きな「比企地域」を持つ埼玉県民も気になるのではないだろうか。(鎌倉殿を支えた武士の故郷 比企の史跡マップ|埼玉県公式観光サイト ちょこたび埼玉 (chocotabi-saitama.jp)

「蛇苦止堂」の意味が違う?比企尼と若狭局が乱後も生きる埼玉説

 意識を回復した頼家が、すぐにも会いたがっていた「せつ」。若狭局については、大人気のYouTube「かしまし歴史チャンネル」でも解説があった。

youtu.be

 比企の乱後の後日譚ということで・・・やはり、神奈川県鎌倉の伝承は、若狭局が大蛇となって北条の姫(政村の娘なら、義時の孫娘か)に憑りついたという、おどろおどろしいものになっている。

 一方、比企一族の地元・埼玉の比企地区では、乱後の若狭局にもう少し優しい。埼玉県東松山市観光協会のホームページには「比企氏ゆかりの地」を紹介するページがあり、色々と彼女に関する説明がある。

 比丘尼山(びくにやま)の北に串引き沼という大沼があります。
 夫頼家を修善寺で殺された若狭の局は、頼家の位牌を持ち、この大谷に逃れてきました。若狭の局は、現在はゴルフ場の中となりますが、比丘尼山の西、源泉沼の近くに大谷山寿昌寺を建て、頼家の菩提を弔ったと云われています。寿昌とは頼家の法号です。

串引き沼

 この沼には、次のような伝説が伝わっています。
 「 その昔、夫頼家を殺された若狭の局は、大谷村に逃れ比丘尼山の草庵に住み、夫頼家の菩提を弔っていましたが、いつまで も夫を殺された悲しみから逃れられず苦しんでいました。それを見かねた祖母比企の尼は、若狭の局に、心の迷いを去らせる為に、鎌倉より持参し肌身離さず持っていた夫頼家から贈られた鎌倉彫の櫛を捨てさせようと心に誓いました。
 夜の明けはじめた早朝、朝の勤行を済ませ、祖母の比企の尼と二人連れだってこの沼に行き、頼家形見の櫛を沼に投げ入れました。櫛はかすかな水音を残して沼底深く沈み、その姿が見えなくなりました。
 その時若狭の局はもちろん、比企の尼の両眼からも涙がとめどなく流れ落ちていました。時は元久元年(1204年)7月半ば、丁度、夫頼家の命日に当たる日であったと云います。」

 土手に並ぶ桜は、修善寺から寄贈された山桜で、頼家桜と呼ばれ真っ白い小さな花が咲きますが、ソメイヨシノように華やかではなく若狭の局のようにしとやかに咲く山桜です。(串引き沼・大谷山寿昌寺(たいこくさんじゅしょうじ) – 一般社団法人東松山市観光協会 (higashimatsuyama-kanko.com)

 「・・・時は元久元年(1204年)7月半ば、丁度、夫頼家の命日に当たる日であった」としてしまうと、櫛を投げ入れたのが元久元年7月半ばのように聞こえて史実と辻褄が合わなくなる。頼家の命日が、その元久元年7月18日(1204年8月14日)なので、櫛を投げ入れた伝承は元久2年以降の命日の話なんだろう。

 それから、上の伝承にあるように、冒頭の比丘尼山は比企尼が住んでいた場所だそうだ。比企の乱後、埼玉で比企尼は若狭局と共に生きたらしい。

 比丘尼山は、女性が横たわったような美しい山です。その昔、比企郡司比企遠宗の妻、比企の尼が遠宗の没後禅尼となって草庵を営んだところと伝えられています。

『郡村誌』には、この比丘尼山について
「高一丈周囲八町村の西にあり 往時源頼家伊豆国修禅寺に於て斃せし時、若狭局遺骨を奉し此村に来り、遺骨を葬り、庵を結び居住せしにより、庵を修善寺と呼び山を比丘尼山と呼ぶと口碑に伝う・・ 」と記しています。 
 比企地区には、理由は分かりませんが、鎌倉と同じ呼称の土地が多くあります。比丘尼山から南は、字こそ違え伊豆の修善寺と同じに、主膳寺と呼ばれている地域です。その他にも扇谷・梅が谷・菅谷・滑川・腰越・大蔵などがあります。(比丘尼山(びくにやま)・横穴墓群 – 一般社団法人東松山市観光協会 (higashimatsuyama-kanko.com)

 若狭局が頼家の遺骨を持ち帰ったという話、そして埼玉に「主膳寺」があるというのも知ってびっくりだ。

 また、おどろおどろしいネーミングに聞こえた「蛇苦止堂」の「蛇苦止」の意味からして、以下のように比企地区では全く違うようだ。

 秋葉神社西側の梅が谷は、若狭の局が年老いて隠棲した所と伝えられている場所です。この谷は東方から南方へと丘陵が続き、くめども尽きない清らかな水の湧く、暖かい陽だまりの地で、昔から梅の古木の多い美しい花園であったと云われます。

梅が谷

 秋葉神社の東側は、菅谷(すがやつ)と云われており、ここには比企西国三十三札所菅谷観音堂がありました。この観音堂には、蛇苦止(じゃくし)観音が祀られていました。
 若狭の局は、頼家を殺され悲嘆にくれ、それはあたかも体を蛇に巻き付かれたような苦しみ方でありました。そこで、この蛇による苦しみを鎮めるため蛇苦止観音をつくり、ここ菅谷(すがやつ)にお堂を建ててお祀りしました。
 この菅谷観音堂は、今はありません。蛇苦止観音は、現在、宗悟寺に祀られています。また、この地は現在、須加谷(すかやつ)と 呼ばれており、観音堂跡は竹林になっています。(梅が谷(うめがやつ)・須加谷(すかやつ) – 一般社団法人東松山市観光協会 (higashimatsuyama-kanko.com)

 夫が殺された遺族が苦しみ続けることを「あたかも体を蛇に巻き付かれたような苦しみ」と表現するのは、誠に実感があり、説得力がある。埼玉の「蛇苦止観音」説の方が、鎌倉説の「蛇苦止堂」にまつわる話よりも信憑性があると思うのは私だけだろうか。鎌倉説は、由来が年月が下って判然としなくなり、人々が想像から若狭局を大蛇にしてしまったのでは?

 蛇苦止観音は、こちらに今も伝わっている。扇谷山宗悟寺(せんこくさんそうごじ) – 一般社団法人東松山市観光協会 (higashimatsuyama-kanko.com)

ひとつ気になる「頼家の外戚」

 この東松山市観光協会のホームページを散々引用させていただきながら、1つ気になったことがある。こちら↓を読んで、違和感を覚えないだろうか。

比企氏が将軍頼家の外戚として力を付ける事を恐れた北条時政は策略を巡らします。ついに建仁3年(1203年)頼家が病にかかると、同年9月2日、比企氏を倒すため北条邸で薬師如来の法要があると偽り、比企能員を自分の屋敷に招き殺してしまいました。北条氏の軍は比企が谷の比企邸も襲い、比企一族は滅亡したのです。

 北条時政は、頼家の将軍職を解き、修善寺に幽閉、北条氏が乳母をした実朝を三代将軍にし、後見人として権力を握るのです。
 頼家は、翌年7月18日に北条氏により殺されてしまいました。この時、頼家の側にいた若狭の局は、夫頼家の位牌(遺骨説もあり)を持ち、武蔵国大谷村に逃げてきたと云われます。
 この争いは比企氏の陰謀(比企の乱)と呼ばれていますが、京都の公家や僧侶の日記などから、比企氏から権力を奪取するための北条氏の陰謀とみても良いようです。
修善寺より逃げてきた若狭の局は、大谷に村の名と頼家の法号「寿昌」を用いた大谷山寿昌寺(たいこくさんじゅしょうじ)を建立し、頼家の菩提を弔ったと伝わっています。(鎌倉幕府立の立役者 比企氏 – 一般社団法人東松山市観光協会 (higashimatsuyama-kanko.com))

 比企家が頼家の「外戚」って書いてしまうのか・・・比企は頼家の乳母を出している。一族挙げての頼家のサポーターだ。「頼家の後見人」なら比企家に使うのは正しいが、「外戚」は母方の親戚を指すのであり、北条であって比企ではない。頼家も実朝も政子の子たち。どちらも外戚は北条だ。

 こちらのような公式ページも外戚と書いてしまうぐらいだから、YouTube解説を見ていても同様に「頼家の外戚」について混乱している人が見られた。

 ちなみに、ウィキペディアでの頼家の乳母についての説明はコチラ↓

頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子である能員が選ばれ、乳母には最初の乳付の儀式に比企尼の次女河越尼河越重頼室)が呼ばれた。その他の乳母として梶原景時の妻の他、比企尼の三女平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。(源頼家 - Wikipedia

 「鎌倉殿の13人」の中で、あれだけ佐藤二朗の比企能員が熱弁を振るっていたのだから(頼家なら乳母に過ぎないが、一幡なら外戚として権力を振るえると言っていた)、多くの鎌倉殿のファンが今は「頼家の外戚」について知っている。

 ところで、頼家の①乳母父か②乳母夫か・・・能員についてはどちらも書いている場合があり、意見が割れているようだ。これはどちらが正しいのだろう。ウィキペディアは①、NHK土スタの表は②だった。気になる。

 さて、今夜は33回「修善寺」だ。「おんな城主直虎」では、33回はあの高橋一生演じる家老・小野但馬守が磔になり、直虎自身が刺殺すという大河ドラマ史上でもトップ3(?)に入ろうかというトラウマ回。また33回のトラウマ回となるのは決まりのようだが・・・必ず見る。

(敬称略)