黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

【どうする家康】#17 信長の片思いを利用、援軍を勝ち取る家康

「一蓮托生」と「一心同体」

 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第17回「三方ヶ原合戦」が5/7に放送された。体調不良を言い訳に、既にお約束になってしまった1週間遅れの感想ブログ。お付き合い感謝です。まずは公式サイトからあらすじを引用する。

信玄(阿部寛)は徳川の拠点を次々に制圧。打つ手のない家康(松本潤)は、信長(岡田准一)の本軍が加勢に来るまで浜松城に籠城すると決める。だが、浜松に攻め寄せてきた武田本軍は、なんと浜松城を素通りし、西へ向かおうとする。このまま武田軍を通せば、遠江の民から見限られ、信長の逆鱗に触れる。何より、瀬名(有村架純)ら家族のいる岡崎城が危ない。打って出るべきか、籠城を続けるかーー。家康は究極の選択を迫られる!(これまでのあらすじ | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK

 せっかくの三方ヶ原合戦の回に何ですけど、まずは何より気になった、短期間で城を次々に落とされ追い詰めらた家康が、織田からの援軍が望めないと知らされて自ら信長との交渉に出た「鷹狩り」の場面。いやもう、全然鷹狩りなんかじゃない。

 自分なら信長を呼び出せると、家康はそれほど愛されていると自信があるんだね。まるで、どうしようもないピンチに陥った時に、いつもまつわりついてくる迷惑セクハラ社長をデートに呼び出すみたいな感じかな。

 常日頃はガマンしているんだから、こういう時ぐらいは利用しないと、ということだね。家康もしたたかに成長した。「どうすればいいんじゃ」と泣いているばかりでもない。第六天魔王を呼び出すにあたり、伯父上に「いいから伝えよ!」と強く出てたし。

 家康にとってはまさに死活問題の援軍。3千か5千かで揉めた末に3千で押し切られたが、ともかく援軍は勝ち取った。

家康:徳川と織田は一蓮托生であることをどうかお忘れなく。

信長:ふっ。死にそうな顔した大将には誰もついてこんぞ。楽しめ。一世一代の大勝負を。(家康の手を取り、互いが互いの肩に手を回す格好にする。)俺とお前は一心同体。ずっとそう思っておる。信玄を止めろ。俺は必ず行く。(家康の目をじっと見つめ、最後に頬を撫でて去る。)

 家康は、「一蓮托生」という言葉で「徳川に援軍を出してくれなきゃ織田だって共倒れ、それを忘れるな」を意味して言ったんだろう。信長は、またも家康にベタベタ触って互いに腕を肩に回して「俺とお前は一心同体」とか言っちゃって、すっかり恋人気分だ。呼び出されてよほど嬉しかったんだね。「俺を呼び出す奴は珍しい」「呼べばおいでになるんですね」「フン」なんて会話してたけど。

 でも、「一蓮托生」と言われたからって「一心同体」と同義と解して舞い上がる余地があるのか。前回に引き続き、広辞苑で確認しよう。

いちれん‐たくしょう一蓮托生‥シヤウ ①死後、ともに極楽に往生して、同一の蓮華に身を托すること。 ②善くても悪くても行動・運命をともにすること。(「一蓮托生」の検索結果 - 広辞苑無料検索 (sakura-paris.org)

 なるほど。家康は②で言ったが、信長は①で理解したか。①が本来の意味だろうけれど、そうかー、死後、共に極楽に往生して同じ一つの蓮の上に・・・まるで愛し合う恋人、長年連れ添った夫婦の発想だ。思いを寄せる家康が、とうとう自分にそう言ってくれて両想いだと感激しちゃったのかな、信長。

 それでも家康言い値の5千の援軍は出さないところはしっかりしている。家康にしても、ゼロ回答よりはもちろんマシ、「してやったり」だろう。

 ちなみに「一心同体」も引用しておく。

いっしん‐どうたい一心同体】 異なったものが一つの心、同じ体のような強固な結合をすること。「夫婦は―」(いっしん‐どうたい【一心同体】 - 広辞苑無料検索 (sakura-paris.org)

 うーん、あんまり想像したくないけど、信長はそういう思いでいるわけだ。

桶狭間を思い出す作り

 今回は見せ場の三方ヶ原合戦だが、作りがいつもに増してあざとかった。桶狭間の回をなぞっているんだなと思ったが、確かに、視聴後に桶狭間を描いた初回と何か似たような、うっすら気持ち悪い感覚に陥った。

 金陀美具足姿の誰か(まだ未確定)の遺体が荷車で運ばれていたが、そんな首なし遺体を運ぶ生々しい場面なんか、大河で初めて見たかもしれない。戦とはそうしたもの、と伝えたいのかな。

 桶狭間ということでさらに言えば、何しろ、賛否両論だった今川義元の兜首の描写と同様に、家康の兜をかぶった誰かの首(こちらもまだ未確定)が武田兵の槍の先にぶら下げられていた。

 たぶん全国的にほとんどの人が徳川家康が江戸幕府を開いた人物だと知っているわけで、ここで家康は死んでないのだから、誰かが身代わりになった挙句に命を落としたのだろうな…と考えたはず。私も夏目漱石の先祖の夏目広次が身代わりなんだっけ、以上!で、そこから家康が死んだ方向では想像しなかったが、双子説等で盛り上がっている人たちをネットで見て、ちゃんとドラマを楽しめてなかったな、と反省した。

 家康が三方ヶ原合戦で本当は死んでしまい、そこからは双子の家康が登場。瀬名がウサギの彫りものをきっかけに殿は偽物と気づいたため、口封じのために殺された…という説は面白かった。

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全て見透かされていた

 そうそう、家康と信長の対話の場面で「策は?」「桶狭間」とのやり取りがあったが、ちょっとそこが判然としなかった。

 桶狭間と言うと、今川の大軍が細長く伸びたところに寡兵の信長が乾坤一擲の奇襲を本陣に仕掛け、大将の義元の首を奪って成功させたイメージ。今回、徳川は浜松城に籠城するつもりでいたはずなのに、信長に会った時点では、家康が城から出て武田の本陣に奇襲をかけるつもりでいるかのように聞こえて「???」となった。

 結局、心づもりとしては、家康曰く「わしの首は信玄に食いつかせる餌じゃ。食いつかせて一月鍛え忍び、一撃必殺!信玄の首を取る。天と地をひっくり返す」だった。家康がおとりとなって浜松城に武田軍を引き付け、信長本隊が来るまでの1カ月を籠城して持ちこたえ、信長本隊が来たところで共に岡崎と浜松の徳川軍が打って出て武田を殲滅する、というプランだ。乾坤一擲、一撃必殺、という部分が桶狭間となぞらえられたのだろうか。「十に九つは負ける戦」の残り1つに勝つ点が桶狭間、ということかな。

 しかし、徳川方が武田方とどう戦うつもりでいるか、岡崎城も含め、あれだけ身内で声高に共有されていたら、戦法はとうに忍びを通じて武田に筒抜けだっただろう。徳川方のプランは全て見透かされて、浜松城はスルーされた。

 桶狭間の時はまだ数え19歳だったか。あの時はガタガタ震えて「お指図を!」と求める家臣を置いて大高城から逃げ出した家康だったが、数え31歳になった三方ヶ原合戦では、さすがに逃げ出しはしなかった。「どういうことじゃ。バカな。わしはここじゃ。わしはここじゃ!家康はここにおるぞ!信玄!かかってこい!信玄!くそ~!」と取り乱したけれど。

 一番の弱点も見透かされていたのだろう。三河・岡崎を攻める姿勢を見せれば、徳川軍は家族らを心配して浮足立ち、浜松で籠城などしていられないことを。武田は瀬名の好物の栗まで把握している程だもんね、信長との面会後、家康が口直しのために瀬名を築山に訪ねたことも知っていたかも。

 そうそう、出陣前の奥さんたちとのやり取りは、グッときた。特に酒井忠次。妻の登与の髪に何かが付いていると嘘を言って近くに越させ、ハグをした。確か初回の桶狭間で、怖い時にどうやって誤魔化すかと聞かれて、ここだけの話、妻の柔らかい肌を思い出すと答えていたっけ。

 家康も言っていた。

家康:瀬名、そなたは何があっても強く生きよ。ここはまことに夢のような場所じゃ。ここには指一本触れさせぬ。

瀬名:殿、いつか必ず取りに来てくださいませ。殿の弱くて優しいお心を。瀬名はその日を待っております。(心を決めたように振り返らず出ていく家康。)

 浜松の徳川軍が心を残してきたのは岡崎。これはもう、城を出てまっしぐらに向かうよね。籠城策など簡単に破られてしまう。

井伊直政の出生地は「祝田」

 武田軍の浜松素通りの後、浜松城内では大揉めに揉め、「お指図を」と求められた家康が悩んだ末に(逃げ出すことなく)徳川には地の利があると指摘した。

家康:我らが武田に勝る点があるとすれば一つ。この地についてじゃ。

夏目広次:坂道を上り切った先は三方ヶ原。さらにその先は祝田の細い崖路でございます。

 細いから身動きが取れず、後ろからつつけば多数の兵を失わせられる。この策があれば勝機がある、と考えて徳川軍は城を出た。

家康:皆の者、我が屋敷の戸を踏み破って通られてそのままにしておくものがあろうか!戦の勝ち負けは多勢無勢で決まるものではない。天が決めるんじゃ!(ここでOPスタート)直ちに武田を追い、後ろから追い落とす!出陣じゃあ!

 そこを武田軍の魚鱗の陣で待ち伏せされて、兵数で劣る徳川軍は大敗を喫するのだが・・・意気揚々と城を出たところでかかっているのはオープニング曲。結果が見えているだけに、残酷だなあ。

 ところで、三方ヶ原の先にある「祝田」と言えば!「わしら瀬戸・祝田の百姓は、徳政令を望まんに!」の祝田じゃないの~と「おんな城主直虎」のエピソードがありありと頭の中で甦った。井伊直政(幼名は虎松)の出生地が祝田だ。それで、虎松が地元だけにうろちょろと戦見物などしに来ている設定になっているんだね。

 ちなみに直政が生まれたのは1561年、三方ヶ原合戦の1572年には三河の鳳来寺で修行中のはず。(「おんな城主直虎」では、虎松は1571年11月前には鳳来寺を出て松下へ養子に入っていたが、ウィキを見たら実際は龍潭寺での直親13回忌後の1574年らしい。つまり三方ヶ原合戦の2年後までは鳳来寺でお勉強していた。)

 数え8歳から15歳になって徳川家康に使えるまでの間、しっかり鳳来寺等でお勉強したからこその知識教養が、後の直政のこの上ない武器になる。しかし、今作の虎松は子どもの頃からハーレムさながらに女の子を連れまわして団子を食べている。大丈夫か。

 次回の「真・三方ヶ原合戦」では虎松はどう関わってくるのだろう。「おんな城主直虎」によると、井伊谷の皆さんは武田軍侵攻を前にもう隠し里に逃れているよ、虎松も行かなくていいの?それとも寺を抜け出して遊んでいることが直虎にバレると困るから、隠し里には行けないかな?虎松にも注目してみたい。(敬称略)