キャラがどんどん退場、どんどん寂しく
NHK大河ドラマ「光る君へ」第40回「君を置きて」が10/20に放送された。聞くところによると、既に撮了したそうだ。主人公まひろ(藤式部=紫式部)を演じる吉高由里子が報告していた。
昨日撮了しました🙌
— 吉高由里子 (@ystk_yrk) 2024年10月26日
物語は12月まで続きますので
見てくださってる皆様は
引き続き
最後まで物語を辿ってくださいませ🥺
私たちの結晶が詰め込まれております
一年半の間、色んなことがありましたが
今思うことは、…
ということは、撮了は一昨日の25日。先日、脚本家の大石静が脱稿したばかりとのことで脱力しつつも晴れやかな顔をテレビで見せていたが、それからずいぶんと撮了が早くない?こんなものなのだろうか。現場に手ぐすね引いて待たれていたかな。
まだ10月末だけど、ここまで来たら駄作になりようも無いと思うので書いてしまうと、今年の大河ドラマも面白かった。毎週日曜が楽しみだった。源氏物語好きの癖に目を向けることのなかった紫式部の人生にフォーカスしたこのドラマは、こうきたか!と意外に思ったが、時の為政者藤原道長を運命の恋の相手に持ってくることで、政もきっちり描けて厚みのあるドラマになったと思う。
さて、今回はサブタイトル「君を置きて」を見ただけで、うわ、とうとう一条帝が崩御か・・・と気が重くなった。あのお美しい帝がそろそろ死ななきゃならないのは分かっていたけれど、前回の伊周、惟規と言い、キャラがどんどん死に始めている。どんどん寂しくなっていく。
では、公式サイトからあらすじを引用する。
(40)君を置きて
初回放送日:2024年10月20日
まひろ(吉高由里子)の書く物語が相変わらず宮中の話題になる中、一条天皇(塩野瑛久)が体調を崩し、不穏な空気が漂い始める。中宮・彰子(見上愛)の前では、気丈に振る舞う天皇だったが、道長(柄本佑)の元に、占いによる不吉な予兆が報告されたことで、次期皇位を巡る公卿たちの動きが加速する。まひろが天皇の容態を心配する彰子に付き添っていると、道長がやってくる。そこで彰子は道長に対して感情を露わにして…((40)君を置きて - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK)
ということで、もう寛弘八年(1011年)だ。冒頭、花吹雪が舞い、藤棚の藤が満開に見える。宰相の君が読み上げていた冊子には源氏物語第33帖の「藤裏葉」と書いてあった。明るいパートの大団円、光源氏も幸福の絶頂だよね。
その場で、敦康親王はあまりにもストレートな恋のまなざしを中宮彰子に向け、「光源氏を気取る親王と娘彰子の間に何かあったら大変!」と気が気じゃない道長パパにビシッと言われた。道長の、親王への冷たさを感じさせた。
敦康親王:藤式部。藤壺は光る君を真はどう思っておったのであろうか。
藤原頼通:藤壺は、真は困っていたのではありますまいか?とかく光る君は強引すぎますゆえ。
敦康親王:藤式部、教えておくれ。(困ったような顔で無言の藤式部・まひろ)
中宮彰子:私もあれこれ聞くのですけれど、藤式部は教えてくれないのですよ敦康様。
敦康親王:それなら、藤壺は光る君のことを愛おしんでいたと思うことにします。(彰子を熱く見る。彰子、目を逸らす)
藤原道長:たとえ藤壺の思いを得たとしても、光る君は幸せにはなれなかったと思いますが。不実の罪は必ず己に返って参りますゆえ。(驚いたように道長を見るまひろ)
一条帝:左大臣がそのようなことを申すのを初めて聞いた。
あかね(和泉式部):されど左大臣様。罪のない恋なぞつまりませんわ。
赤染衛門:真に、さようにございますね。
彰子:衛門までそのような・・・。
赤染衛門:人は、道険しき恋にこそ燃えるのでございます。(女房達笑う)
文机に向かう、源氏物語作者のまひろは当然ながら33帖よりも先を書いている。光源氏の嫡妻・女三宮に懸想した、柏木の辺り。ここで先の道長の言葉「不実の罪は必ず己に返ってくる」がヒントになったか、まひろは柏木の運命をはっきり死ぬと決めたようだった。ただ前回、弟・惟規が死んでいるのだから、その影響も大きかったのだろうね。
まひろが書く物語:「誰も千年の松にはなれぬ世では、やがて命が尽きるものなのだから、こうしてあの人に少しは偲んでもらえそうなうちに死んで、かりそめの情けを掛けてくれた人があったという事を、一途な思いに燃えつきた証としよう」(灯芯の火が消える)
まひろ:(独り言)罪を犯した者は・・・(筆の動きが止まっている)
道長は、あの言葉を発した時には敦康親王を咎める気持ちが大きく、自分のまひろとの仲は考えもしないようだった。だが、まひろは「不実の罪」と聞いて、自分と道長のこと、つまり自分は夫がありながら道長の子を産んだことを思わずにはいられなかっただろう。そんな顔をしていた。
今後、どんな物語展開になるか全く分からないけれど、道長には「不実の罪は必ず己に返ってくる」って言葉はブーメランで刺さらないか。夫だった宣孝に対して、まひろだけが罪を背負う訳でもあるまい。現代だったら、道長も宣孝に慰謝料請求されてたところだよね。道長とまひろを刺すのは、倫子様か明子か。
一条帝、冷えは体に良くないよ・・・😢
彰子が「いつも不思議に思っていた」と指摘していたが、一条帝は日頃寒い時期でも暖かい物を羽織らず薄着で過ごし、「火取り」も使わないとか。火鉢とかのことだろうか。
それで壁がろくに無さそうで、布がぶら下がっているばっかりの寝殿造りの内裏に住んでいたら寒いよなあ。いや、塗籠とかね、そういうのもあるけれど、いつも御簾内程度の場所にじっと座っているばかりに見えるし。
女性陣が皆髪の毛を長ーく垂らしているのは、腰まで温まってさぞよいだろうと思う。髪が伸び、髪の毛は「ウール100%」で温かいなと実感したので(というか、この夏で暑さを実感させられた)、他方、男性陣は髻にまとめて髪の毛全部を上げているから、うなじも吹き曝し。冬は首がさぞ冷えることだろう。
帝の足元は長袴だから足首は良いとしても、3つの「首」のうちの、手首も着物だからいつも冷えてそうだし。冷えは良くない。
そのやせ我慢、何故かと聞かれて「苦しい思いをしておる民の心に少しでも近づくためだ」「民の心を鏡とせねば上には立てぬ」と一条帝は彰子に答えた。まだ若い頃は良かったにしても・・・その気真面目さが命を縮めちゃったかな。
ただ、ここで彰子はまひろとの勉強の成果が発揮できた。「お上は太宗皇帝と同じ名君であられます」と言って、新楽府の百錬鏡のことを彰子が言っていると一条帝が気づいた。
一条帝:中宮は新楽府を読んでおるのか?
彰子:まだ途中でございますけれど・・・。
一条帝:(笑って)中宮がそのように朕を見てくれていたとは気づかなかった。嬉しく思うぞ。(彰子にっこり)
このラブラブムードが一条帝の発作で吹き飛んだ。昔の時代劇なら「持病の癪が」と言って胸の痛みに耐える場面が良く見られた。子どもの頃の私は癪って何だ?と思い、癇癪持ちの癪と同じ字だと知って、何となくわかった気になった。狭心症の発作とか、そんな感じが想定されているのかな?
それが「いつものことだ」と帝は言うのだから、問題だった。徐々に体が蝕まれてきて、それが常の事になっていた訳だ。私も色々とポンコツなのでそうだけれど、自分で塩梅は分かっているからやり過ごせる、大丈夫だと思っちゃうんだよね・・・行動を制限されることが怖いと言うか。
彰子は、不安をまひろに吐露した。
彰子:帝を失うやもしれぬと思うと怖い。お側にいる時、時々お顔色が悪く、息遣いがお苦しそうな時があったのだけれど「大事ない」と仰せゆえ、薬師に相談もしなかった。こたびのことは私のせいだ。
まひろ:そのようなことお考えになってはなりませぬ。今日はお加減もよろしいようではありませんか。きっとご回復になりましょう。
まひろ・・・「考えちゃいけない」と否定されたら、もう彰子は誰にも安心して相談できなくなってしまわないか。「きっとご回復になる」なんて、気休めに聞こえるし。まあ、言霊の大事な時代だけどね。
道長、それは意図的?
かなりびっくりしたのだが、道長は、赤染衛門の夫・大江匡衡に命じ、占いをわざわざ帝に接近した場所で行った。帝の病状の悪化を受けて、譲位について占わせるのが目的だったらしい。
あんなに近い場所で行ったのは、それを帝の耳に入れ、譲位を促したかったのか。ホワイト道長にしては、えげつないことをする。
大江匡衡:(算木を操って)一六天上水 二七虚空火 三八森林木 四九土中金 五鬼・・・五鬼欲界土。占いには・・・代が変わると出ましてございます。
道長:どういうことだ?
匡衡:豊の明夷、豊卦は不快。恐れながら・・・(威儀を正して)崩御の卦が出ております。
道長:ご寿命のことなぞ聞いておらん。
匡衡:それは重々承知しておりましたが、この卦も出てしまいました以上、お伝えせねばと存じまして。
道長:25年にも及ぶご在位ゆえご譲位はあっても良いと思っていたが、まさか崩御とは・・・。
匡衡:この卦は、醍醐天皇と村上天皇が崩御の時と同じ卦にございます。さらに、今年は三合の厄年。異変の年にございますれば御病のご平癒はならぬかと存じます。
道長:(食い気味に)わかった。もうよい。ご苦労であった。
匡衡:はっ。
このやり取りを、几帳の陰で当の一条帝が聞き耳を立てていたというね。有り得ないでしょう、何だこの狭い内裏。撮影用のセット並みか。そんなはずない。
この時代には、占いは死の宣告をがんセンターで受けたようなインパクトなんだろう。メンタルへの影響は計り知れない。それを、あんなに配慮の無い場所で・・・と考えると、道長がわざとやってるんじゃないかと普通は思うところだ。酷い野郎だと思う。
リアルでは、ちょっと状況が異なっていたようだ。倉本一宏著の『紫式部と藤原道長』219-220ページによると;
- 5/22 一条帝、彰子ご在所に渡御した際に病に倒れ、
- 5/25 道長、大江匡衡に譲位に関わる易筮(筮竹を用いる易占い)を行わせた。
ところが、道長はたいへんな失態を犯してしまった。譲位どころか天皇死去の卦が出たという占文を見た道長は一条の死去を覚悟し、清涼殿二間(一条院内裏北対の南廂)において一条の護持僧である慶円とともに涕泣してしまったのである。隣の清涼殿夜御殿(北対の母屋)にいた一条は、御几帳の帷の継ぎ目からこれを見てしまい、自分の病状や道長による譲位の策動を知って、いよいよ病を重くしてしまった(『権記』)。
これなら帝と道長の位置関係も納得だ。どうやらドラマの都合か、ドラマの道長の方が、リアルよりもえげつなくなっちゃったか。リアルの道長は、配慮が多少足りなくて抜けてるけど気持ちに正直な人だったのだろうか。
つづけて『紫式部と藤原道長』から主な日付を拾ってみる。今回のドラマで描かれた部分を重ねる。
- 5/26 道長、一条帝には知らせないまま譲位を発議(ドラマでは実資が「帝はまだお若い、考えられぬ!」と反対、行成が暗い顔。「私はどうなる」と案じる敦康親王にききょうが「(東宮に)敦康様以外のお方を帝がお選びになることなぞありえませぬ」と言い、「先走るでない」と隆家に窘められた。まひろも「次の東宮は?」と宮の宣旨に尋ね、「控えよ」と制された。内裏が総じて浮足立つ中、四納言が土御門殿に呼ばれ、敦成親王を東宮にする密議。一条帝は寝所で五芒星?とも見える星々を見上げ、差し込む光を掌で受けて微笑む。)
- 5/27 一条帝、行成を召して敦康親王の立太子について最後の諮問(ドラマでは、一条帝がヨロヨロと道長に譲位を伝えた。道長が東宮と対面、次女の女御妍子にも会って「どうせなら敦明様が良かった」と言われ呆れる。その後、一条帝が力を振り絞って最後の行成諮問、その甲斐なく東宮は敦成と。行成が道長に伝え、道長と彰子対立)
- 6/2 一条帝、東宮居貞親王と対面、即位要請(居貞親王が言葉とは裏腹にやたら嬉し気。「東宮は・・・敦成といたす」の一条帝の言葉にさすがに息を飲むが、サッサと立ち去る。)
- 6/13 一条の病状悪化の中、居貞践祚。一条朝に幕、三条天皇誕生(病臥する一条上皇の御帳台から、剣と勾玉を納めた剣璽が運び出され公卿らが見送り、新天皇の下へ。敦成が東宮となり、敦康親王は姉と宿命を嘆く。ききょうが伊周化しそう)
- 6/14 一条上皇、道長に臨終出家の意志を伝える
- 6/15 一条上皇、病篤い
- 6/19 一条上皇出家
- 6/21 一条院、辞世「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬること・・・」を詠み、人事不省(ドラマでは詠んだ辞世は途中まで。一条院は彰子にか弱く手を伸ばしていた。気持ちは彰子にあったという解釈か)
- 6/22 一条院、死去
- 7/9 一条院、火葬
占いの日から、1か月もしないで一条帝は崩御していた。あの占い結果を知った時、ドラマの帝も達観したような目をして黙っていた姿が心に残る。
行成は道長を選んだ
一条帝は行成を側近として信頼していたため、5/27に敦康親王の立太子を特別に相談したが、行成は賛同しなかった。
しかし、前夜、四納言を道長が招集した謀議(と言っていいだろうね😅ある意味、クーデターだから)の場で、ドラマの行成は「次の東宮は第一の皇子であるべきと考えますが」「強引なことをやって恨みを買えば敦成様にも道長様にも何が起きるか分かりませぬ」と苦し気ながら、道長の意向に反する意見を言っていた。
それなのに・・・だ。もしこの謀議がリアルでもあったのだとしたら、本当は一条帝の信頼厚い行成を説得するためのものだったのかも。何とか一条帝を諦めさせるために。
一条帝:病に伏し、譲位も決まり、もはや己のために望むものはない。ただ一つ・・・敦康を東宮に。どうか、そなたから左大臣に・・・。
行成:お上の敦康親王様をお慈しみになるお心、真にごもっとも。この行成、ひたすら感じ入りましてございます。
一条帝:(ホッとして)ならば・・・
行成:されど、お考えくださいませ。清和天皇は、文徳天皇の第四の皇子であらせられたにもかかわらず、東宮となられました。それはなぜか。外戚の良房公が朝廷の重臣であった故にございます。左大臣様は、重臣にして敦成親王様の外戚。敦成親王様が東宮になられる道しかございませぬ。
一条帝:朕は敦康を望んでおる!(咳き込み)
行成:恐れながら、天の定めは人知の及ばざるものにございます。敦康親王様を東宮とすること、左大臣様は承知なさるまいと思われます。何卒・・・(頭を下げる)。
一条帝:(かなりしんどそう、ようやく身を支え、それでも行成を見ている。力が抜ける)分かった・・・下がれ。
行成:ははっ!(一礼し、去っていく)
一条帝:(か弱いまなざしで見送る。涙に顔が歪む)
行成:(走って道長の執務室へ)お上がただいま・・・(目の前に座る)敦成様を東宮にと仰せになりました。
道長:(息を止めてうつむく。息を吐く)なんと・・・(行成を見る。行成が頷く)またしてもお前に救われたか。(座を立ち、行成の肩をつかむ)行成あっての私である。(行成を見つめ、互いに笑顔)よし・・・中宮様に、ご譲位と敦成様が東宮になることをお伝えして参る。(去る)
行成:(目を閉じ、息を吐く。少しかぶりを振る)
一条帝の下から道長の下へと行成が軽やかに飛んできたことで、一条帝の哀れさが増した。ドラマの行成は、幼い最初から道長ラブだったから仕方ないのだが、一条帝は行成を最後まで信頼していたのにね。
道長が彰子の下へと立ち去った後、行成が軽くかぶりを振ったのは、一条帝へ残る申し訳ない恐れ多い気持ちを「仕方なかったんだ」と吹っ切ったようにも見えた。
こういう行成だと、もしかして本当に道長に殉死しそうだ。するのか?
彰子の怒り
敦成親王の立太子が決まり、道長は娘に喜んでもらえると思って面会に来たようだ。あにはからんや、彰子はお怒りだった。このドラマを見ていれば、その彰子の反応も納得なんだけど・・・なぜ道長はそんなに意外そうな顔をしているの?相変わらずボーっとしているな。
中宮彰子:何故、私に一言もなく次の東宮を敦成とお決めになりましたのか(怒)。
道長:帝の仰せにございます。(まひろ、彰子のお側に仕え見ている)
彰子:病でお気持ちが弱っておいでの帝を父上が追い詰めたのですね。
道長:帝のお考えと申しております。
彰子:信じられぬ!帝は、敦康様を次の東宮にと私にも仰せであった。お心が変わるはずがない!
道長:お怒りの訳が分かりませぬ。敦成様は、中宮様の第一の皇子であられますぞ。
彰子:(激昂して)まだ4歳の敦成を今、東宮にせずとも敦成にはその先が必ずあります。それに!私は敦成の母でもありますが、敦康様の母でもあるのです。敦康様をご元服の日までお育て申し上げたのは私です。2人の皇子の母である私に何の相談もなく、次なる東宮を敦成とお決めになるなぞ飛んでも無き事!父上は、どこまで私を軽んじておいでなのですか!(座を立つ)帝にお考えを変えていただきます。
道長:(出て行こうとする彰子の腕をつかみ、立ち上がる。静かに)政を行うは私であり、中宮様ではございませぬ。(まひろ、脇に控え、道長を見ている。彰子、道長を睨んで手を払う。道長、無表情に一礼して去る。立ち尽くす彰子)
彰子:(その場に座り込んで泣きながら)中宮なぞ、何もできぬ。いとしき帝も、敦康様もお守りできぬとは。
まひろ(藤式部):(彰子の下へ来て寄り添う)
彰子:藤式部、何故女は政に関われぬのだ。
まひろ:(言葉を飲み、下を向き考え込む。彰子の顔が涙で歪む。彰子の背に手を回し、寄り添い続ける)
この後のシーンでは、道長もまひろも、各々が考え込んでいた。道長は何を思うか?まさかの長女からの反応に、見る目が変わったかな。身内だと思って気を抜いていたらこういう目に遭うよね。彰子の精神的成長に驚いただろう。驚いただけでなく、今後彼女は政の上で一筋縄ではいかない、厄介な存在になったとでも思っただろうか。
まひろは、かつて自分が抱いた問い「何故女は政に関われぬ」を彰子に発せられて、ハッとしただろうか。自分は道長にその夢を託し、まひろのために政を行うとまで言った道長。しかし、彼の政が万人のためにはなりようもなく、彰子のような反発も生む。2人をどう支えたら・・・と考え込んだのかもしれない。(本日27日は衆院選投開票だし、感慨深い。)
しかし、彰子ね・・・「今、東宮にせずとも敦成にはその先が必ずあります」と言ってたが、道長にはそんなに先が無い。見ているタイムラインがずれているんだよね。
予告を見ると、まひろは一条院を失った彰子に何かを提案するのだね。それが楽しみだ。
それにしても、彰子の力強さよ。父にあれだけの意見を理路整然と言えるまでになった。そして、敦成立太子の日に道長に言った言葉「左大臣。東宮様を力の限りお支えせよ」がキッパリとカッコ良かった。
一条院の辞世の「君」は
一条院の辞世はドラマでは前述のように「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬること・・・」と途中までになっていた。日記に記録した行成と道長で違いがあるらしいが、性格的にきっちりしてそうな行成の方が合ってるんじゃないのか?行成バージョンでの続きは「塵を出でぬる事ぞ悲しき」だそうだ。
ドラマでは、日記「権記」を書きながら行成が涙を流していた。書いていた部分は「御志在寄皇后但」まで読めたが、「その御志は、皇后に寄せたものである。ただし(はっきりとその意味を知ることは難しい)」との意味になるそうだ(前述の『紫式部と藤原道長』225ページ)。
皇后と言えば定子だ。
歌意からは、「この世に君を置いて俗世を出ていく事が悲しい」というのであるから、「君」はまだ生きていて、しかもこの歌を聞いている彰子のこととしか考えられない。しかし、行成は日記の中で「中宮」彰子と「皇后」定子を使い分けており、一条が辞世を詠んだ対手を定子と認識しているのである。かつて彰子を中宮とした、つまり定子を皇后とした際に決定的な役割を果たした行成であればこそ、その思いは複雑だったのであろう。(同上、225-226ページ)
ドラマを見ている限りでは、彰子が歌の「君」のようではあった。でも、行成が言うのも分かる。気持ちも複雑でそう思いたい、ということなんだねと引用させていただいた本のご著者は言っているように思うのだが・・・。
ちょっと思い出したのだけれど、定子の霊は成仏していないのでしょう?当時の考え方では。花山天皇の寵姫である彼女・・・あの、手首をリボンでぐーるぐるの・・・彼女が妊婦で死んだから成仏できない、それで現世にずっと留まるのが可哀そう、それで彼女を弔いたいから出家するとか花山院は言ってませんでしたっけ?
定子は出産中に後産が下りずに亡くなったので、やはり成仏できないってことだったんじゃ?産褥死の多い頃だし、女にばかりなぜか酷な話だけど。
だとすると、定子は現世を彷徨っているんだから、その定子を置いて成仏してしまう身の一条院は悲しいよね。「君」は彰子じゃなくても、定子でも行けるみたいだけど・・・素人の意見なんですがね。
ドラマで一条帝を照らした、あの星明りの青白い光も、定子の光だと思ったんだけど・・・。それで一条帝も微笑んで勇気をもらい、行成と敦康親王立太子について話をしたのでしょう?彰子でもどちらでもいいとは思うけれど、やっぱり定子の方に個人的には軍配をあげたいかな。
ああ、今回は書きだすのが日曜昼からと遅くなってしまったので、もうこんな時間だ。次回の放送は選挙の関係で早まるんだった、第41回の放送が始まっちゃうから、もうこのくらいでダラダラは止めておきましょう。賢子のことも書きたかったけど。それではまた、ダラダラにお付き合いを。
(ほぼ敬称略)