三条天皇を譲位へと追い詰める
NHK大河ドラマ「光る君へ」第44回「望月の夜」が11/17に放送された。残り4回。まずはあらすじを公式サイトから。
(44)望月の夜
初回放送日:2024年11月17日
道長(柄本佑)は公卿らにも働きかけ、三条天皇(木村達成)に譲位を迫るも、代わりに三条の娘を、道長の息子・頼通(渡邊圭祐)の妻にするよう提案される。しかし頼通はすでに妻がいるため、その提案を拒否。道長は悩んだ末、皇太后の彰子(見上愛)に相談したところ…。一方、まひろ(吉高由里子)は父・為時(岸谷五朗)から予期せぬ相談を受ける。さらに源氏物語の執筆を続けていると、ある決意を固めた道長が訪ねてきて…((44)望月の夜 - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK)。
今回のドラマは1015年からスタート、1018年の望月の歌までが描かれた。前回から激しさを増して、三条帝への譲位運動は続いている。
なんたって、文芸活動に力を入れて政からはある程度の距離を置いていたんじゃないかと私が勝手に印象付けていた公任が「お上に正しきご判断をしていただけぬとあれば、政は進みませぬ!政が滞れば、国は乱れまする」と大声で伝えている始末なのだ。
ドラマの始めの頃、公任の亡き父の関白が、小声で喋るものだから「聞こえぬ!」と円融帝に言われていたのを思い出すと感慨深い。(今は、三条帝の方が耳に問題があって、度々臣下に「聞こえぬ!」と言っているのだけれど。)
四納言のもうひとり源俊賢(明子兄)が公任に続いて「速やかなるご譲位を願い奉りまする。これは公卿らすべての願いにございます!」と言うのは、まあ企みのある所いつも居る俊賢なので、そうだろうなと期待通り。
これに対して、聞こえていない様子の三条帝が悲しい(中の人が上手)。「その件は、朕が左大臣に厳しく言うておくゆえ安心せよ」と、とんちんかんな答えを返すのだ。可哀そう!でもそうも言っていられないんだよね。
それで、三条帝が帝位にしがみつく延命策なんだろう、道長を取り込もうと娘・皇女禔子(やすこ)を道長の嫡男・頼通の妻にと言い出すのだが、頼通が拒絶して「嫌でございます」「藤原も左大臣の嫡男であることも捨て、二人きりで生きて参ります」と言うのが、道長にはまひろと逃げようとした昔を思い出させただろうね。頼通、若いな~ピュア~✨
道長は、自分では兼家パパにそんなことは言えなかったんじゃないのかな。でも、頼通は堂々と自分に宣言している。そこは息子にとって道長の方が物を言いやすくて兼家よりも良きパパなのかもしれない。今作の道長は兼家パパの策を結局なぞっているようにも見えるけれど(この後、頼通に仮病を命じることとかね)、全然兼家パパの怖さは無い。相変わらず、下地は三郎だからだな。
道長は、むしろ婿入りした先の倫子様パパ(源雅信。益岡徹が演じていたよね)の方に似たかもね。倫子様パパは、娘にほだされて道長を婿にせざるを得なかった。倫子様が何か言うたびにショックを受け、従う時の顔芸が面白かったなあ。
さて、三条帝は頼通重病と聞いて「万策尽きた」と皇女様の降嫁話が止まる訳だけど、将来、没後に頼通の弟・教通と件の皇女様が結婚することになるそうで(公任の娘の没後に嫡妻になるらしい)、皇女本人のためにはそういう帝位絡みの策略抜きの結婚の方が当然良かっただろう。兄の後始末をする弟みたいだけど。
ところで、降嫁話について倫子様が「心は隆姫、お務めは内親王様でよろしいではないの」と心の闇を感じさせることを言うのに対して、娘の皇太后彰子が「女子の心をお考えになったことはあるのか?」「この婚儀は誰も幸せにせぬと胸を張って断るが良い」と道長に言うのが晴れ晴れと対照的。倫子様ファンではあるけれど、彰子みたいに言えたらカッコいいよね。
ということで、三条帝は道長を左大臣のまま准摂政(1015年末)→摂政(1016年)にしてみたりと、まだジタバタ足掻くが、結局は譲位を認め、彰子の息子・後一条帝が即位(1016年)。三条帝は譲位の引き換えに実資のアドバイスに従って敦明親王を東宮にとの条件を出していたが、ナレーションは敦明親王が東宮を辞退したと告げた。しかも三条帝の没後(1017年)、たった数か月のうちにだ。
三条帝がどうしてここまで粘ったか、父の冷泉系を皇統に残したい思いを息子は分かってたのかな。悔しいだろうね、三条帝。
ウィキペディア先生によると(三条天皇 - Wikipedia)、ドラマでは似ていないが、リアル三条帝は外祖父の兼家パパに容姿が「酷似」して「風格があった」とか。そりゃ粘りそうだ。リアル道長はやりにくかっただろうなー。
三条帝のこの悔しさは、後には酒におぼれている妍子が産んだ三条帝の娘が晴らすそうなのだ、なんと数奇な運命。泉下の三条帝が操ったか?やりそうだ。そうそう、愛妻と言うべき皇后娍子との最期のやりとりが泣けた。
三条院:(出家して剃髪している。苦しい息の下で瞳を彷徨わせ)闇だ・・・闇でない時はあったかのう・・・。娍子。
皇后娍子:(涙)はい。
三条院:闇を共に歩んでくれて嬉しかったぞ。
皇后娍子:(三条帝の手を取り)お上・・・お上はいつまでも私のお上でございます。
ナレーション:時勢に翻弄され続けた三条院は42歳で世を去り、後ろ盾を失った敦明親王は自ら申し出て東宮の地位を降りた。そして、道長の孫であり帝の弟である敦良親王が、東宮となった。それから1年、彰子は太皇太后、妍子は皇太后、威子は中宮となり、3つの后の地位を道長の娘3人が占めた。
今回、ドラマはホップステップジャンプで進む。ここらへんを端折らず、敦明親王を東宮辞退に追い込むところもやってほしかったけどな・・・そうすると、ホワイト道長として描くのが難しくなっちゃうからかな。刀伊の入寇も待っているし。
三条帝は、百人一首に譲位の際の歌が採録されているのだとか。
三条院:心にも あらでうき世にながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
そうなのか・・・公式サイトには、他にもドラマの百人一首勢が紹介されている(『百人一首』に選ばれた「光る君へ」の登場人物! - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK)。ドラマを見てから改めて見ると、これまで良く考えもしなかったが、また深く理解したいような気になった。
「この世」か「この夜」か
一体どれくらいかけて、あの華やかに一堂に会した道長派のキャラたちの衣装や調度、食事等をNHKは揃えたのだろう。3后の座を占めた道長の娘たちは役の上では2人が仏頂面だったけれど、中の人たちとしたら、あれだけの豪華な衣装を着られて皆うれしかったことだろう。青海波(?たぶん。それしか知らん)を舞った2人の息子・頼通&教通もあでやかだった。
この威子立后の宴、すなわち一家三后を祝う1018年の宴の時に、ドラマで道長が身に付けた衣装「直衣布袴(のうしほうこ)」については、なんだか見慣れないと思ったら公式サイトに説明があった。なんでも、かなり特別な衣装を身にまとっていたらしい。「選ばれしものでなければ気後れしてしまう、きわめて特別な恰好」だという。それを、満を持して望月の歌の場に着用させたという訳だ。
道長は太閤と呼ばれる立場。太閤と言えば秀吉と条件反射がほぼ出来上がっている私は、実資に太閤様と称されている道長を見て「へー」と思った。ウィキペディア先生によると(太閤 - Wikipedia)、「太閤(たいこう)は、摂政または関白の職を退いて後、子が摂関の職に就いた者[1]、摂関辞職後に内覧の宣旨を受けたものを指す称号[2][3]」だそうだ。なるほど。
しかし、この宴で目についたのは、倫子様の産んだ土御門系の子どもたちばかり。同じ道長の子でも、明子が産んだ高松系の子どもたちはどこにいった?気づかなかっただけかな。まさか、お呼びじゃなかったのだろうか。明子・・・😢
かの有名な望月の歌を道長が披露した今回。豪華で見るのもまさに眼福で拝みたいくらいで、それこそこれが最終回だと言われても相応しい程華やかだった。4回を残して、もうドラマのフィナーレがやってきたのかと思うくらい。これでクランクアップの演者も多かったのではないだろうか。
公式サイトの説明を読むと、道長と倫子様の娘3人が天皇の后となり、威子の立后の儀の後の、二次会とも言うべき穏座(おんのざ)での話だという。そこで、道長は「望月の歌」を詠んだ。
このよをば 我がよとぞ思う 望月の 欠けたることも 無しと思えば
ここらへんの話は、「原作・藤原実資」と書いた方が良いくらい彼の日記「小右記」の記述を基にドラマの筋立てができているらしい。
望月の歌が伝わっているのも、実資が書いたから。実資は「このよ」を「この世」と書いた。私もそのように習い、記憶してきた。で、道長=傲慢男との説が私にも漏れなく定着していたが「この夜」説もあるらしい。そうすると話が少々違ってくる。
素人ながら考えてみる。3人の娘が3后しかない后の座を全て占めるという未曾有の夜に、気分が良くなってのことだろう。月が后を示すことから「この夜は我が夜、望月のように欠けていないと思うので」と、ひとときを喜んで言いたくなってもね、仕方ないだろう。
実際は、月には満ち欠けがあるのだ。翌日から満月も欠ける(実際には宴の日には少し欠けていたらしい)。それを知っていて、ほんの限られた一晩満月に見える「この夜」だけを大切に喜んでいると思うと、そんなに傲慢にも聞こえないというかむしろ控え目。「この世」とは印象が変わる。
実資も、道長のイメージを後世まで下げる罪なことをしたものだ。
このドラマのホワイト道長には「この夜」説の方がぴったり来そうだ。「まひろ、俺ここまで頑張ったよ!満足だよ!」という歌のようだから。
まひろへの返歌(ラブソング)か
この宴では、道長が盃を見て思い立ち、実資に頼み盃が巡った。実資の記録によると、リアルでの順番は貴族社会の上下にきっちり従っていたらしいが、ドラマでは便宜上少し違っていた。(コロナ禍だったら撮影できなかったことだろう。こういう回し飲みをやっていたから昔は感染症でバタバタ公卿が死んだのか?)
道長は巡る盃を見てとても満足そうだったが、これって、まひろが詠んだ歌の内容を実際にやってみましたという話なのかな?記憶が正しければ、柱に寄りかかって2人で月を眺めながら、道長が「おぼえておこう」と言った、あの歌なんだけど・・・。
第36回のことだが、私は寄り添う2人の姿を覗き見ていた「女房は見た」の方に気を取られて、自分のブログではまひろの歌を記録していなかったらしい💦痛恨の極みだ・・・と思ったら、「紫式部日記」を引用してそこに含まれていたので満足したらしい。どこだっけと探しに探して、時間を取られた。
『 紫式部日記』には、若宮様の祝いの席で藤式部が求められて和歌を詠み、道長が歌で返したことが書かれていますが、ドラマの中では月を眺めながらひとり若宮様を祝う歌を口ずさむ藤式部のもとへ、道長がやってきて、ひっそりと一緒に同じ月の下で喜びを分かち合うというシーンになっていました。
いかにいかが数えやるべき八十歳の あまり久しき 君が御代をば
(大意:皇子様の御誕生をお祝いする宴の席の杯は栄月そのもので、下に下ろされることなく次々と手から手へと捧げ持ちながら回されていきます。その様は、望月と同じように欠ける事がなく、皇子の栄光も永遠に続いていくことでしょう)藤式部と道長の和歌のやり取りと察した嫡妻・倫子。『紫式部日記』に描かれた宴会と「猫一瞬カットイン」に思うこと【光る君へ 満喫リポート】36 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2
誕生五十日の祝い(「いか」の祝い)と「いかが」がかかっているそうだ。そして、「今宵はまことに良い夜だ」と言って、今回道長が詠んだのが「望月の歌」だった。
まひろの歌を公卿を総動員して実演して、歌も唱和してもらって自分の思いに賛同してくれる人がこんなにいるよと示した。望月のように願いは叶えられた、満ち足りているよと詠んだ道長の、まひろへのラブソングだと私は思った。
まひろも道長の気持ちを投げかけられた視線から受け取り、それまでとは打って変わって表情を輝やかせていた。
もう1つ、道長の歌の下敷きになったといわれている紫式部の歌が紹介されている記事があった。うろ覚えだったが、道長が褒めたのはこっちだったっけ?たらればさんが言うのなら、そっちの方が正しいよね、絶対。
水野:以前、まひろが詠んだ歌と、道長の「望月の歌」は関係があるのでしょうか?
たらればさん:はい。後一条天皇が生まれた時(道長が「望月の歌」を詠む約10年前)に祝いの席で紫式部が詠んだとされる、こちらの歌ですね。
「めずらしき光さしそう盃は もちながらこそ千代もめぐらめ」
たらればさん訳/新たに加わった若宮(敦成親王=後一条帝)へ捧げるこの栄光の盃(栄月)は、望月(満月)同様、永遠に輝き続けることでしょう。(紫式部集86歌)
水野:ドラマでも道長が「よい歌だ、覚えておこう」と返していましたよね。
たらればさん:道長が「望月の歌」を詠むときに「この歌を参考にしたんだろうな」という研究もある歌です。
水野:そう考えると、ドラマでは「まひろの歌を、俺は今も覚えているぞ」というメッセージもあったのかな……と思えてきました。
まひろは万感の思いに包まれ、これまでの道長とのことが全て走馬灯のように駆け巡っただろうね。まひろの脳裏には道長と初めて結ばれた廃邸での満月と星屑キラキラが蘇り、振り返る道長が同じキラキラをまとって自分を見つめ立っているという図が、何とも乙女チックだった。まひろ&道長としては、1つの到達点、満月を迎えたのかも。
道長の限界を知り、言葉を贈っていたまひろ
その宴よりも1年以上前の1016年、道長は翌1017年に摂政を頼通に譲る前に、まひろに左大臣と摂政を辞める件について相談しに来ていた。「何度も先の帝に譲位を促したが、今度は俺が辞めろと言われる番なのか・・・」と、公任に「辞めろ」と直言されて悩んでのことだった。
道長は「摂政と左大臣、2つの権を併せ持ち帝をお支えすることが、皆のためでもあると思った」と言い、公任に「違うのだ。道長のためを思うて言うておる。考えてみてくれ」と返された。
あの川原で道長はまひろに、思う通りの政など全くできぬと弱音を吐いていた。民を思う政だ。その目的を果たせぬまま権力だけを集中して握り続けていれば、父兼家の我が家のためだけの政や、それを引き継いで長兄道隆がやっていた栄華を極めるための政と、よそから見れば何の変わりも無い。
全然話が違うかもしれないが、民主的に皆の声を聞いてにっちもさっちも物事が進められない(若しくは時間がかかる)のと、ひとりの権力者を仰いでその人の思うように政治をスピーディーに進めさせるのと、どちらが良いのか今も世界では迷いがあるようだ。
民主主義国の方が少数派というし、絶対権力者に政治を委ね楽になりたいと思う人たちは一定数いる。海外に目を向ければそういう強力なリーダーが率いる国は増えているんじゃないかとも思う。そうすると、民主主義の国育ちだと不健全だとか危険だと思う。
ドラマの道長はホワイトだけど絶対権力者で、民のための政治をまひろと直秀に誓ったが、民の顔は見えているのかと問われる。志を愚直に守っていたつもりにもかかわらず、やり方は兼家パパのそれだから、欲張りにも権力にしがみついているだけと疑われるような目を向けられ、自分では何も変えられないと思うに至ったようだった。空しいよね。
道長:暮れの挨拶に参った。(まひろの前に腰を下ろし、周りの様子を見る)摂政と左大臣を辞そうと思う。
まひろ(藤式部):摂政におなりになって、まだ1年にもなりませんのに。
道長:摂政まで上っても、俺がやっておっては世の中は何も変わらぬ。
まひろ:は・・・頼通様に摂政を譲られるのでございますか。
道長:ああ。
まひろ:頼通様に、あなたの思いは伝わっておりますの?
道長:俺の思い?
まひろ:民を思いやるお心にございます。
道長:ああ・・・(首をひねって)どうだろう。
まひろ:(溜息をついて)たった1つの物語さえ、書き手の思うことは伝わりにくいのですから、仕方ございませんけれど・・・。
道長:俺の思いを伝えたところで何の意味があろう。お前の物語も、人の一生は空しいという物語ではなかったか?俺はそう思って読んだが。
まひろ:されど、道長様がこの物語を私にお書かせになったことで、皇太后様はご自分を見つけられたのだと存じます。道長様のお気持ちがすぐに頼通様に伝わらなくても、いずれ気づかれるやもしれませぬ。(熱心に聞く道長)そして、次の代、その次の代と、一人で成せなかったことも時を経れば成せるやもしれません。私はそれを念じております。
道長:そうか・・・(切り替えて)ならば、お前だけは念じていてくれ。
まひろ:はい。(まひろを見つめる道長)
メンターまひろとのカウンセリング終了。ある意味、私との約束は己ひとりで成すつもりになっていなくてもいいよと、まひろから許しを得たようなものだったかな。
だけれど、道長め、直秀を忘れたような会話だったな。民を思いやる心を既に忘れ切っていたような。頼通にもただ1度ぐらいしかドラマでは「民を思う政」が大事なのだと伝えていなかったと思うのだよね。そういうところがボーッとした三郎のまま。まひろもちょっと呆れたかな。
そろそろ物語は締めくくりへ・・・入内は幸せか
「道長様は大当たり。私に見る目があったって事よ」と清々しく言い切った石野真子演じる倫子様ママ。左大臣だった倫子パパはずっと道長を婿とするのを「不承知」と言って亡くなったものねえ。まさか、自分の曽孫が帝になる日を迎えることが人生で起こるだなんて思わない。なんと幸運、また、それを見届けられ、幸運として受け止められつつ長生きできるなんて、本当に恵まれた人生だ。
この日、后の座を占めた3人の孫娘を含めて、入内した女性キャラたちがほぼ皆与えられた立場で苦しい人生を生きたのに、入内しなかった倫子ママ穆子さんは倫子様をバックアップし続けた愛され幸せキャラ。倫子様の入内にも反対しての道長の婿取りだったと思うし。
そんな誰かのセリフがあったような、入内入内と言うけれど、入内する娘たちは必ずしも幸せかと。そういうことだよね。今回も「めでたいのは父上と兄上だけ」とはっきり娘に言われて、道長は口を半開きにしていたもんね。娘たちは父や兄弟のために翻弄されるばかりだ。
まあでも、彰子については例外とも言えるかも。彰子はまひろの帝王学の英才教育によって開眼したから、不幸だけとも言えない。後一条帝の即位式での表情は引き締まって美しかったなー、かつて女御に立った時の儀式での冠も曲がり、べそ泣きしそうな、やらされてる感が全く無かった。
(ちょっと話が飛ぶけど、東宮をマッハの速さで降りた敦明親王についても「解放された」ような気分になったのではと、中の人・阿佐辰美が「君かたり」でコメントしていた。帝位とか后とかの地位には、そういう縛られる感覚が今もまつわるよね。お気の毒だが。)
一方、まひろパパ為時は、出家すると言った。妻のちやはと惟規の菩提を弔うのだそうだ。為時も、2回国司を務め、もう人生を十分やり切った感があるのだろう。「いとには福丸がいる」というセリフには、ちょっと冷や汗だった。いとは為時の召人だったよね、鈍感真面目の為時パパでも福丸のことは分かっていたんだ。
為時じいじにその気はないのかと聞かれていた賢子も、次回はとうとう彰子に女房として仕えるらしい。それもまひろの代わりに。活躍の様子も見られるかな?最終回の締めくくりに向けて、どんどん片付いていく感がある。
あと残り4回は、大宰府での刀伊の入寇を描くのだろうけれど、そこになぜか「光る君」道長に別れを告げたまひろが行って、宋人医師の・・・ええと名前がジョウミンだっけ・・・ちょっと今漢字が思い出せないけど、松下洸平が演じるキャラと再会するらしい。前回、行成を抑えて大宰府行きを勝ち取った隆家が、目を診てもらう医師なんだろう。やっぱりの再登場だ。
今になってなぜ?松下洸平だからかな?まひろ、まさか彼と宋に行くのかしらね?リアル紫式部はそんなことしてた可能性があったの?記録が無ければ何でもOKなのかしらね?
何か、あの「江」の主人公がRPGのようにあちこち有り得ない場所(家康の伊賀越えとか)に出没して違和感たっぷりだった嫌~な思い出が脳裏に甦っているのだけど・・・😢まさか、残り4回がそんなことになりませんように。紫式部の人生を描く物語として、「望月の夜」が最終回でよかったんじゃないかと思わせないでほしいな。頼みますよ、大石静を信じるのみだ。
倫子様がまひろにお願いしたのは罠か
前述のように道長は、まひろの局へと1016年に姿を現し、周囲を気にしつつ摂政も左大臣も辞めることを打ち明けた。もう限界だったんだよな。それを背後から見ていたのが倫子様だった。一体いつからそこにいたの?💦キャー。
まひろ(藤式部):(廊下に向かって頭を下げる。道長も目を向ける)
倫子様:おふたりで何を話されていますの?
道長:政の話だ。
倫子様:政の話を藤式部にはなさるのね。(下を向くまひろ)
道長:(やれやれといった表情でまひろの前の席を離れ、倫子の前に立つ)皇太后様のお考えを知っておかねば、すんなりとは政はできぬ。
倫子様:(張り付いた笑顔で)そうでございますわよね。藤式部が男であれば、あなたの片腕になりましたでしょうに。残念でしたわ。
道長:(まひろを見て)そうだな。
まひろ:恐れ多いことにございます。
道長:では。
まひろ:は。(チラリと倫子を見て、去っていく道長)
倫子様:藤式部に頼みがあってきたの。
まひろ:はい。
倫子様:殿の事を書いてくれないかしら。
まひろ:は?
倫子様:清少納言が「枕草子」を残したように、我が殿の華やかなご生涯を書物にして残したいのよ。やってくれるかしら?(息を飲むまひろ)今すぐに答えなくてよろしくてよ。(微笑んで優しく)考えてみて。
まひろ:は・・・。(一礼する。瞳がせわしなく動き、眉がピクリと撥ねる)
倫子様は、道長の生涯を書いてほしいと、まひろに頼みに来たのだった。「栄花物語」として赤染衛門が書くアレだ。
政治的に本当に何が大切かをよく分かってらっしゃる倫子様。ネット社会になった今でも、本を出している人となると発言力に裏打ちがあるというか、信頼性が増す気がする。ましてやあの時代。記録に残すことの大切さよ。できた妻だよね。
とはいえ、実は倫子様の怖ーい企みもあったのではないかと少し思う。殿について藤式部が書けば、怪しいふたりの仲について何かボロが出て、決定的に尻尾をつかむのを期待したのではないだろうか。
例えば、道長の人生をたどる中で、例の文箱に倫子様が見つけたまひろが書いた漢詩を同じように書かせることもできそう。そこで筆跡を比べたりして・・・(年月による変化はあるだろうけれど)。その他、過去の行動確認もできそうだし。
追い詰め方としてなんて頭が良い!怖すぎる、物書きに書かせて自滅させようだなんて!
でも、史実としては書くのは赤染衛門だから・・・まひろはどうやって倫子様の真っ当に見える執筆依頼を断ったのだろう。頼まれたのは1016年とずいぶん前でも、その時はまだ源氏物語を執筆中だった。それで、書き終えて大宰府への旅に逃げるって事かな?
いよいよ次回、倫子様VS.まひろか?・・・手に汗握る攻防が楽しみだ。あれ?もうこんな時間?次が始まっちゃう!
(ほぼ敬称略)