
近所の小学校の「校舎移転特別講演会」
今回は、直接いつもの大河ドラマの話じゃないが、大河ドラマの時代考証で大いに貢献されてきた歴史家の小和田哲男さんの講演会が先週近くであったので、もったいないからそれについて書こうと思う。
ある日、新聞に挟まれていたチラシ。近くの小学校が旧中学校跡地に移転する話は小耳に挟んでいたが、その「さよなら校舎 夢のプロジェクト」の一環で、「校舎移転特別講演会」と銘打ち、なんと小和田哲男先生がいらっしゃってお話をするのだという。
講演は無料だ。なんでまた小和田先生が?と驚いたが、何でもいい。生徒の家族でも何でもないが、チラシ末尾には「地域の皆様のご参加を心よりお待ちしております!」と書いてあるし、絶対に行こうと決めた。伊豆に移住するとこんなに良い事があるんだ。
お問い合わせ先は小学校、場所は体育館で、持ち物はスリッパと防寒着。どうやら会場は寒そうだ。ホカロンを腰に貼って出かけよう。
チラシを改めて読むと、小学校の現校舎からの移転は令和10年度になるのだという。「この機会に、特別授業の講演会として、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏をお招きし、皆様に歴史の魅力をお届けします」とある。
年度で言ったら今はまだ令和7年度のはず。4月からでも8年度。10年度の移転の話を「この機会に」と言ってしまうのは少々力技のような気もするが、何でもいい、小和田博士が来てくれるのだもんね。
きっと、小和田先生の大ファンの方がこの企画の主なんだろう。よくやってくれました!こんなチャンスも滅多にないから頼んじゃえ!と思い切ったのだろう。
さらにチラシには「歴史ロマンに触れる絶好の機会、子供たちと一緒に、新しい(静岡県伊豆市)八幡地区の未来に思いを馳せましょう」と書いてあったのだが・・・この「子どもたちと一緒に」を私は読み飛ばしていて、当日、会場の体育館に入り、前方半分に(インフルエンザで休校の6学年を除く)4年生と5年生が着座したのを見て少し驚いた。
てっきり地域の大人で会場は埋まるのかと思っていた。「高学年でも内容が難し過ぎるのでは?大丈夫?」と少し不安になった。
登壇された小和田先生は、これまでたくさんの講演に招かれたが「校舎移転」の講演会というのは初めてだと笑って仰った。やはりね。でも、相手が小学生だと分かってお引き受けになったのか?かみ砕くと言っても限度があるよね、それよりもまず、講演の間、小学生はちゃんと座っていられるかなあ・・・等々、心配だ。
大河ドラマって知ってる?
まず、講演は小和田先生の自己紹介から。先生は、大河ドラマは「秀吉」から「どうする家康」までの8作品で時代考証を担ったとのこと。ここはウィキペディア先生で確認した。
秀吉(連名、1996年)、功名が辻(2006年)、天地人(2009年)、江~姫たちの戦国~(2011年)、軍師官兵衛(2014年)、おんな城主直虎(連名、2017年)、麒麟がくる(2020年)、どうする家康(連名、2023年)。並ぶタイトルを見ると、小和田先生は大河ドラマの花形・戦国大河の時代考証に継続的に携わってこられたのだと分かる。
「秀吉」は、当時のNHKも力を入れていた。「八代将軍吉宗」で低迷期を打ち破ったので、さらにダイナミックに上を行く人気作にしようとしていた。私も取材させてもらって記事を書いたが、あの時、時代考証の先生にはお話を聞かなかったんだよな・・・私的趣味に走り過ぎる気がして自重したのだが、依頼すれば、そのチャンスはあった。もったいなかったが仕方なかった。
それで、時代考証のお仕事はというと・・・働き方改革のため年間ほぼ48話で固まりつつある昨今だが、昔は50話の時代もあったよね。最初に、ドラマで取り上げると決まったテーマに関連する最近の研究成果を「これ読んで」等と伝えながら、その話数の筋道をどうするかを制作側と相談するそうだ。
そしてキャラ設定。先生は例として「どうする家康」のヒロイン瀬名姫(築山殿)を挙げ、これまでの悪女キャラは「どうもそうではない」ので止めたと仰った。研究者の間での大方の見方がようやく変わったのだね。
小和田先生が同じく時代考証を務めた「おんな城主直虎」の頃でも、築山殿はまだ悪女キャラのイメージを引きずり、演じたのは怜悧な印象もある菜々緒だった。でも「どうする」では愛らしさ満点の有村架純。どう見ても悪女のイメージじゃないから、配役発表の時には確かに築山殿の路線変更でちょっとした驚きをもたらしていた。
だってそうだよね。築山殿事件については、江戸時代は徳川家康が絶対の存在だったことを考慮しないとね。「家康=神様が間違うはずがない」ので、家康のことはどんな記録だって悪くは書けなかったはず。
先生は「あの事件は家康と嫡男信康親子のずれ、考え方の違い。信長から信康は離れようとしていた」と仰り、それで信康は処分され、長く悪女のレッテルを貼られるとばっちりを食ったのが妻の築山殿だったという訳だ。気の毒に💦
研究が進むと、その成果で通説が変わり、大河ドラマでもキャラ設定が引っくり返される事態が起きる。悪役と見られがちな敗者にも光が当てられ、ファンとしても物語に深みが増して面白いから、研究成果のドラマへの反映はじゃんじゃんやってほしい。
だから信長・秀吉・家康の三英傑のドラマは「またか」と言われがちだけど、やる価値があるのだよね。今年の「豊臣兄弟」もおなじみ三英傑ものだけど、どこがどう変わってくるのかが、楽しみだったりする。
そして、脚本のセリフ間違いを直すのも当然ながら時代考証の仕事のうちで、割と頻発するそうだ。「その時その人(物)はそこにいなかった」のに、ドラマでジャジャーンと登場していたら困る。例として挙がったのは、「秀吉」の小田原攻めの時のセリフ「わしゃこの石垣山に城を作りたい」。秀吉が作る前に、当時の関東の山に石垣が組まれている訳がなく、築城前の呼び名(笠懸山)に変えてもらったとのことだった。
・・・ここまでの「はじめに」の裏話だけでも十分面白いので私を含む大人は楽しんでいた様子だったが、体育館前方席を陣取る小学生の存在にハッと気づいた。今のところ、着座してまっすぐ小和田先生のお話を聞けている様子だけれど、シーンと静か、反応がほぼない。おとなしい。
みんな偉いなあ。だけど、面白い?大河ドラマって知ってる?まず、テレビを見たことはあるんだろうか?と心配は拭えなかった。
北条早雲って知ってる?
裏話を続けてもらいたいところだったが、講演タイトルは「小和田哲男のとっておきの話 中伊豆戦国遺産 大見三人衆と大見城」なのだから、本筋に入って頂こう。
小和田先生は1987年7月、伊豆市の前身の当時の中伊豆町主催の市民講座で講師を務めたご経験があるそうだ。その講座に、タイトルにもある「大見三人衆」の佐藤藤左衛門のご子孫が来場していると聞いて調査をお願いしたら、家に古文書があり、そのおかげで北条早雲の研究を進める転機になったのだとか。
先生にとって、思い出深い場所だったのだね。それで、わざわざここまで講演に来てくださっている訳か。(昨日、図書館で旧中伊豆町史を見たら、講演と同じ内容の書きぶりで書かれている箇所があった。町史も書かれていたのだ。)
その北条早雲(伊勢盛時、また宗瑞)について。彼もまた研究によって見直しが進み、自分では一度も「北条早雲」とは名乗らなかったそうだ。この地域の大人にとっては北条早雲は聞く名前だから「へー、そうなのね」と驚きにもなる。それが小和田先生の狙いでもあるだろう。
が、大丈夫かな、講演を大人しく聞いている小学生たちは、そもそも北条早雲を知っていた?授業で予め説明があっただろうか・・・。
さて、伊勢は西の苗字であり、関東武士に対して重みのある北条を名乗ろうと変えたのは、二代目の北条氏綱からだそうだ。(ウィキペディア先生によると、正室の養珠院が執権北条氏の末裔横井氏の出身だとか。この話も最近聞く。つまり婿入り?)
早雲は、研究が進んで生まれ年も1432年から1456年と変更され、従来の説よりも24歳も若返った。64歳没だそうだ。これまでオーバー80の矍鑠たる老人のイメージが強かったね、だが覆された。
分かりやすさを優先して、ここでは北条早雲で続ける。
早雲は姉の子である今川氏親に沼津の興国寺城をもらい、伊豆半島を眼前に見て暮らすことになった。伊豆の北条にある堀越御所には、堀越公方・足利茶々丸が伊豆の最大兵力を誇っていたそうだが、『北条五代記』によると、讒言によって茶々丸は2人の家老を切腹させてしまった。
それで騒ぎとなっているのを知った早雲は、「是天のあたふる所なりと」北条に兵を出して制圧。大森山に逃げていた茶々丸は下山し切腹した。讒言は誰の仕業か・・・?
(ここでウィキペディア先生を確認したところ、最近は「同年4月の明応の政変によって11代将軍に就任した義澄(清晃)が、幕臣であった宗瑞に生母と実弟の仇討ちを命じて、茶々丸を討伐させたというのが定説になっている」そうだ。足利茶々丸 - Wikipedia 宗瑞=早雲のこと。)
そして、早雲の威勢に恐れを抱いた伊豆一国の侍ども(土肥の富永三郎左衛門尉、田子の山本太郎左衛門尉、雲見の高橋将監、妻良の村田市之助など)は悉く早雲に降参し、北条氏直時代にわたってその在所の知行が許されたのだそうだ。なるほどー。
レジュメにはこのあたりの『北条五代記』一節の読み下し文が書いてある。でも、それでも小学生には明らかに難し過ぎると思う💦お手の物でスラスラ読める子がいたら、将来は古文書ネイティブと名高い磯田道史のような大物になりそうだよね。
地元の「大見三人衆」の活躍
この伊豆一国の去就が定まった時に、いち早く早雲の幕下に付いたのが、お待ちかねの「大見三人衆」の佐藤四郎兵衛、梅原木工右衛門、上村玄蕃だったそうだ。(他の文書では三人衆として記録されている氏名が変わる。先生のレジュメによると「明応6年4月25日付文書」では佐藤藤左衛門尉、梅原六右衛門尉、佐藤七郎左衛門尉。「永正16年正月29日文書」では、佐藤四郎兵衛尉、梅原六右衛門尉、佐藤兵衛太郎尉。)
さて、この『北条五代記』には「伊豆一国は三十日の中に相違なくおさめられたり」と書いてある。が、小和田先生によると、そんなに短期間には無理で、狩野城にいた狩野氏が頑張って反抗を続けたらしい。狩野氏といえば、後に絵師の家として有名になる(狩野氏 - Wikipedia)。
当時の狩野氏に苦労させられた早雲は、大見三人衆を狩野城の抑えとして頼りにしていて、柏窪(城?現在の伊豆市柏久保に古い城跡があるね)の一戦での彼らを「忠節比類なし」と早雲から三人衆に宛てた文書で称賛している(『嶽南志』第2巻所収「佐藤氏蔵 早雲の文書」)。
ところで、小和田先生によると、この早雲の文書は全部で7通出てきて三人衆末裔の佐藤さんの家にあったのに、静岡県史の編纂時に紛失されてしまったとか。信じられない。しかし、他の名刹でも「先代の時に研究者が借り出していった文書2通が返ってこない」と嘆いていたのを最近聞いたばかり。研究者のみなさーん、困りますよー。地域の宝なんですよー。
この文書によれば、三人衆は、狩野城に対する備えのために、年に3回もせっせと土木工事に従事していた。文書は明応六年(1497年)4月25日に書かれた。早雲の伊豆討ち入りが明応二年(1493年)というから、やはり1か月で伊豆一国全体がさっさと早雲の手に落ちた訳ではなかった。
レジュメには、大見城の縄張図も先生の著作『北条早雲とその子孫』から紹介されていた。しかし縄張図は小和田先生が描いたわけではなく、その道のプロ見崎鬨雄さんが原図を描いたものだそうだ。
先生は、大見城は、戦国期の城としてそれなりの作りをしているので、そう決定していいと仰った。鎌倉期の大見小藤太の城とは別だそうだ。
大見三人衆が拠点とした大見城は、三人の城ではあったのだが、北条直属に近い城だったそうで、興国寺城の次に早雲が拠点にする韮山城の出城として重視されていたという。三人衆で130貫文(3人で割ると約40貫文)の知行があてがわれていて、それは北条家臣団の中では上の扱いだったそうだ。
ここで小学生を意識したのか、小和田先生は平城、山城、平山城について解説を入れた。平城ではとても守れないと思われがちだが、水堀や周囲に沼地があれば守れるのだと。なにしろ攻める時に侍は20~30キログラムはある鎧を付けるのだ。重くて沈むから渡れない。分かりやすい。
平城の次に発達したのが山城。攻めにくいけど、あんまり高いところにあっても家臣みんなが不便だしね。それでちょうど良い具合の中間の山に作られるようになったのが韮山城のような平山城なんだそうだ。てっぺんを広げて曲輪を作り、まわりを兵が守る。ここまでジッと固まっていたような小学生が、少し緩んだようで、良かった。
後北条家の初代となった早雲は、韮山城で亡くなり、二代目氏綱からは本城が小田原に移された。そして、戦国時代に秀吉に敗れる五代目氏直まで、伊豆は北条家の下にあったということだ。ここはずっと北条の里だったのだなと思いを馳せた。
小和田先生は最後に、小学生に向かって「古いものではあるけれど、自分の身近にあるものから入っていくと興味を持てると思います。北条早雲がどういう人だったの?と思って、マンガや本を読み、地元の遺跡を歩いて深めていってほしい」と仰った。
この講演を企画して小和田先生をお招きした大人には、むせび泣きたくなるような、有難いお言葉だろう。だけれど、歴史ファンが羨む中世の武士の世の歴史ロマン溢れる場所に住んでいることに気づくには、小学生はまだまだ時間が必要だろう。案の定、質問タイムに小学生からの質問は無く、大人の歴史に詳しい人から、質問があった。難しいもん、子どもは無理だよね。
小さい頃、ずいぶんと大先生が地元の小学校まで来て、お話をしてくれたんだな、と将来気づき、地元の歴史を大事にしてくれたらいいね。
(ほぼ敬称略)