黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

JR福知山線の脱線事故裁判で

この悲惨な事故が起きるまで、恥ずかしながら私は福知山線というJRの路線があることさえも知らなかった。しかし、106人の乗客の命を奪ったこの事件(加えて運転士1人も死亡)が起きたことで、関西の土地鑑のない私のような人間の記憶にも、この路線の名は刻みつけられた。電車が巨大な蛇のようにマンションに巻き付いた映像を見ながら、涙が止まらなかったのを今も思い出す。
 
11日、この事件について業務上過失致死傷罪に問われたJR西日本の前社長に対し、神戸地裁において無罪判決が言い渡された。裁判長が主文を告げると、傍聴していた約50人の遺族からどよめきが漏れた・・・と報道にはあった。前社長の予見可能性を否定する判決に、怒りのあまり、判決途中で席を立つ遺族もいたという。
 
無罪判決については、報道を見る限り、遺族の考えを尊重して地検も控訴を検討するようなので、神戸地検の判断を待つしかないのだろう。
 
大きな事件ではあったが遠隔地であるため、これまであまり注意を払ってこられなかったこの事件について、なぜ書こうと思ったかというと、ちょっと気になることが11日夕刊の新聞報道にあったからだ。
 
この裁判には、過去最多となる54人の遺族と負傷者が被害者参加制度を利用して被害者参加人になっているのだという。被害者参加人として、直接、被告人質問に立った被害者もおり、さらに意見陳述もしているそうだ。
 
この意見陳述が、被害者ならば参加人にならなくてもできる方の「意見陳述」なのか、被害者参加人としての「最終意見陳述」の方を指しているのかが報道からは分からないのだが、被害者の多くは厳罰を求める一方、遺族の1人は「証拠が不十分で有罪は不適当」とする求刑意見を述べた・・・などと記事にあるところを見ると、被害者参加人として後者の意見陳述をされた被害者が多かったようだ。
 
それで、私が何が気になったかというと、読売新聞夕刊に「地検に通い、捜査資料を朝から夕方まで書き写した」というご遺族がいて、資料のコピーが許されなかった・・・とあったからだ。
 
この方は、当時40歳の長女を亡くし、「なぜ私が死んだの?」と問いかけられている気がして、それに応えようと検察通いを始めたのだという。支援してくれる弁護士によれば「積み重ねたら高さ4メートル以上」という膨大な量を書きうつし、ファイルは26冊にもなったそうだが、なぜコピーが許されなかったのだろうかと気になった。
 
過去最高の数の被害者やご遺族が被害者参加人になっていることからも、これは間違いなく被害者参加制度の対象事件だ。対象事件ならば、公判前の段階から、実況見分調書など検察側が請求する予定の証拠(捜査記録)を被害者や遺族は見られることになっている。そして、コピーについても、被害者参加人になる人なら、認めてもらえる場合が多いのだ・・・と私は聞いている。
 
被害者参加人は第1回の公判が終わってからなら「裁判記録」を閲覧でき、コピーもできることになっている。しかし、第1回の公判が終わってしまってからでは被害者参加制度を利用しようかどうしようかを考えるには遅すぎるし、参加制度を利用して被告人質問や被害者論告をしようにも、準備が間に合わない・・・といった実質的な問題に直面してしまう。だから、裁判記録を待たずに捜査記録からの閲覧・謄写が認められているのだ。
 
そういうことで、「被害者のための刑事裁判ガイド」を出版した際にも、被害者参加制度の対象事件の場合には、とりあえず参加人になることで「そういった証拠書類のコピーが手に入るだけでも、被害者参加人になる価値がありそうだ」と書いたし、実際、そのようにして被告人質問も被害者論告もしないけれども、被害者参加人になる道を選んだ人がいると聞いている。
 
もちろん、私自身が本の「おことわり」で書いたように、被害者ができることについては、法律で決められていて必ずできるものと、そうではなくて、事実上の慣例や配慮で行われているものとに分かれる。そうすると、後者の場合は「必ず」実現はしない場合も出てくるだろうし、また、法律があって「できる」とされている事柄にも、実際には制約が出てくる場合も個々のケースでは、ある。
 
だから、微妙なのだけれども・・・でも、70歳を超える老母に、地検に150回も通わせて書き写させ、コピーを禁じるという運用が何とかならないものだったのだろうかと、どうしても思ってしまう。この方は、もしかしたら被害者参加人にはならなかったのかもしれない。でも、それが理由ならば「参加人ならコピーできますよ」と教えてあげてほしかったが、参加人だったとして・・・何かコピーできない理由があったのだろうか。
 
この捜査記録の書き写しは、単なる文章をただ単純に読んで書くのとは訳が違うのだ。愛する家族の、命が奪われていった様子が記録されているものであり、この事件ではないが、こうした記録を読むたびに亡くなった家族の苦痛を思って涙し、平常心でいられないと語る被害者の方が多くいる。
 
そのように、ただでさえ精神的にも身体的にも苦労があるのだろうに、さらに大きな負担を被害者の母に背負わせていいものかどうか。娘さんのために一生懸命になる親心に乗っかっていていいと思えないのだ。
 
弁護士がついていないと、記録の扱いがどうなるか分からないと警戒して検察が参加人であってもコピーさせないことも多いとは聞くのだけれど、今回は支援する弁護士がいると記事にもある。そうすると、コピーをさせない理由は何だったのだろう。・・・やはり、無罪判決が出るだけあって、検察にも余裕がない、難しい裁判だったということなのだろうか。