黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

持病の申告、本人任せには限界がある

 年度切り替えのこの時期に引き受けている仕事と、引っ越しとそれに伴うトラブルのしわ寄せ、そして何よりも安易に流れる私のサボり体質からブログの更新がおろそかになってしまった。ご迷惑をおかけした方にはおわびしたい。今週、ようやくリフォームの再工事も終わる。やれやれ、だ。
 
 私がサボっている間も、被害者について書かねばならないことはもちろんあったわけだが、珍しくろくに新聞も読めなかったので書くこともできなかった。これから、ぼちぼちキャッチアップしていきたい。
 
 私はクリスチャンではないが、13日の金曜日はどうも居心地が悪い。そんな日、朝刊には前日に起きた京都・祇園の暴走事故が掲載され、夕刊には首都圏での連続殺人事件で裁判員裁判により死刑判決が出た話が載っていた。
 
 前者ではこの時期、美しい京都の桜を見に来たであろう観光客が多く巻き込まれている。また、観光客ではないようだが、数日前に子供が誕生し、父親になったばかりの人までもが命を失ってしまったそうだ。亡くなった人は7人、運転手も死亡したので8人か。そして、この文章を書いている今でも重体の方がいるようだ。暴走車は30秒ほどの間に18人をはねたとの報道も目にした。
 
 そんな短時間に18人もはねたのが、威圧的なところは少しもない軽ワゴン車だという事実に、改めて「車は簡単に凶器になってしまうのだ」と思った。しかし、車を凶器にするもしないも運転手次第なのだから、運転や免許について簡単に考えてはいけない、人の命を簡単に奪えるほどの恐ろしいことなのだ…という意識を、この社会の多くの人が共有しているかといえば、そうではないような気がする。
 
 いや、むしろ特別感はゼロ、「運転ってフツーなことだよね」という意識にどっぷり浸かっているのではないか。
 
 その証拠に、習慣的な飲酒運転をなかなかやめない人もいれば、申告しなければならない持病があっても申告もせず、ハンドルを握っている人がいる。それを周囲で許している人もいる。車の運転について簡単に考えているからこその行動としか思えない。
 
 この祇園事故の運転手については、てんかんの持病があると事故から早い時期に姉が明らかにしていた。バイク事故で頭部に負傷して以来、どうやら10年近くも運転してきた弟に、最近てんかんの症状が頻発するようになってきたことから、運転させないよう、家族会議を開いたばかりだったという。それも事故の2、3日前だというのだから、もしかしたら同じ週の月曜日(9日)に延べ30万人以上の署名を携えて小川法相に面会したクレーン車事故の遺族についてのニュースを見て、ようやくそのような話し合いを持つに至ったのかもしれないな…と思った。残念なことに、姉によれば事故を起こした弟には「変な自信」があって、家族の心配をよそに運転を続けたとのことだが。
 
 クレーン車事故に関しては、署名の提出を受け、法相も「検討を要する」と前向きなコメントをしており、それについても報道があった。昨年4月18日に栃木県鹿沼市で起きた事故そのものについては、以前にも書いたが、てんかんの持病を隠して免許を取得していた男が発作を起こし、運転していたクレーン車が登校途中の児童の列に突っ込み、6人の命がほかの多くの児童や教師の目の前であっけなく奪われている。
 
 鹿沼事件の運転手は不正に免許を取得して抗てんかん薬を飲まずに漫然と運転したのだから、それが自動車運転「過失」致死罪で裁かれるべきでなく、故意犯として裁いてもらいたいと遺族が考えても当然のところだったが、故意犯である危険運転致死傷罪には「飲むべき薬を飲まないで運転した」場合までは構成要件に含まれていない。よって、遺族は、危険運転の構成要件を拡充する法改正と、持病を隠して免許が取れないシステムの構築の2つを国に対して要望したと聞いた。
 
 祇園事件の運転手は、てんかんの持病があったことについては家族も言うのだから違いないのだろうが、忘れずに書いておかねばならないのは、事故時には抗てんかん薬を服用し、意識があったとの見方が今は強いという点だ。繰り返し放送されている映像では、猛スピードで車や人の脇をすり抜けて走った末にブレーキを踏んで電柱に激突している。最初に追突事故を起こした時も、いったんバックで車を後退させてからハンドルを切って暴走を始め、途中でもクラクションを鳴らしながら交差点に突入しているとの証言があるという。
 
 てんかんの症状はどんな出方をするのか、何人もの医師がさまざまな番組で解説していたが、それによれば患者の全員が全員、完全に意識を失ってブラックアウトというわけでもなく症状には濃淡があるそうだから、てんかん発作が起きていたかそうでなかったかを運転手も死亡した今、決めることは難しいのかもしれない。
 
 ただ、この運転手が事故当時に発作に見舞われていたのかそうでないかに関わらず、この祇園での惨状からひとつ言えることがあるのではないだろうか。それは、意識を喪失する可能性があるような持病を、本人の申告任せにするのはもう限界があるということだ。
 
 最初から持病をきちんと申告する人は、自らが運転することで起きるかもしれない悪影響をよく自覚しているからこそ申告しているのであって、そういう人が漫然と持病に起因する事故を起こすことは考えにくい。そんな人たちが偏見や不利益を受けないようにするにはどうしたらいいのか。
 
 問題なのは、持病の申告を怠る人だ。運転を軽く考えているから「大丈夫だ」とハンドルを握り続ける。そして、無申告がばれそうになり、追い詰められたような気になって暴走するのではないか。それは他人に迷惑なだけでなく、本人の命までも縮めることになる。断定は禁物だが、てんかん発作を起こしていなかったとしたら、祇園事件の運転手は、無申告の上に築かれた砂の城が崩れることを恐れて暴走したとみるのが自然ではないだろうか。
 
 だから、きちんと申告している多数のてんかん患者のためにも、運転の重さの自覚のない本人の救済のためにも、運転を何とかやめさせようと悩む周囲のためにも、何より被害者をこれ以上出さないためにも、患者の申告に頼らず、運転に支障のある疾患をきちんと法で定めた上で、その疾患を診断した医師が運転可か不可かを通報するシステムにするべきなのではないだろうか。
 
 そうやって申告の呪縛から患者を解放すれば、てんかんの持病があっても免許が取得できているという場合、国の責任で自動的に法に則って免許を取得させていることにもなり、安心ではないか。国からの免許と言いながら、国が患者本人からの申告に頼って責任を負わずにあいまいな状況に患者を置くことこそ、かえっててんかん患者一般に対する偏見を助長することになるように思う。
 
 そうすると、私が患う喘息も、重症ならば通報の対象になるかもしれない。そのほかにも対象の疾患が出てくるだろう。多くの人が免許を返上することになるかもしれない。不便には違いない。
 
 しかし、それだけ運転免許というものはフツーじゃなくて特別な重いものなのだ、飲酒運転なども、もってのほかなのだ…という意識が社会に広まるのではないだろうか。