黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

「いじめ」と「DV」は犯罪行為の連鎖

 この世に生まれて半世紀はとっくに過ぎただろうある男性が、少し前にトラブルに巻き込まれ、こう言っていた。「初めて法律のありがたみを感じた。法律は弱者を守る武器なんだね」
 
 「そりゃあそうですよ、これまで法律のありがたみを感じないで生きてこられた方が幸せだったということ」と、その人とは笑いあったが、法律の及ばない世界は、つまりは弱肉強食の世界だ。弱者にとっては生きにくい恐怖の場だろう。
 
 昨年10月、滋賀県大津市の中学2年の男子生徒(当時13歳)がいじめを苦に自殺したとされる問題が、連日報道されている。既にこの男子生徒が通っていた中学校だけでなく、市の教育委員会が同県警に異例の強制捜査を受け、また、同中学校でいじめを目撃した生徒にも県警が近く事情を聴くことになるのだという。
 
 そして、被害生徒の父親が、加害者とされる3人の同級生を7月18日に県警大津署に告訴し、受理されている。容疑は、19日付の読売新聞によると、暴行、恐喝、脅迫、強要、窃盗、器物損壊の6つらしい。
 
 念のために細かく引用させていただく。「①ヘッドロックをかけたり殴ったり、たばこの火を手に押し付けたりした(暴行容疑)②金を持ってくるように脅し、キャッシュカードの暗証番号を聞き出して金を引き出させた(恐喝容疑)③自殺の練習を何度もさせた(強要容疑)④店舗で万引きをさせた(窃盗容疑)⑤教科書やテストの答案用紙を破くなどした(器物損壊容疑)」とある。記事中に、⑥脅迫容疑に当たるものは、省略されていて書かれていない。
 
 少なく見積もってもこれだけのことをされている、という確かなところで遺族側の弁護士は告訴をしたのだと思うが、報道で出ている内容を思い浮かべると、あまりに遠慮した罪名が並んでいる…と不満に思うのは私だけだろうか。
 
 まず、①の「暴行」は、せめて「傷害」にならないのだろうか。たばこの火を手に押し付けられて火傷を負わないでいられる人間は、この世に存在するのか。いくら本人が亡くなっていて証拠が残っていないにしても、それぐらいの被害の推認は許されないのだろうか。
 
 暴行が傷害になったからって何なの?少し量刑が上がるぐらいじゃないの?と思われるかもしれないが、万が一、加害者が刑事裁判にかけられることになったら、暴行容疑では、遺族は被害者参加制度の利用ができないことになるだろう。制度の対象になるには「故意の犯罪行為により人を死傷させた罪」などの要件があり、傷害なら参加できるが、暴行ではできないことになるのではないかと思う。
 
 告訴した生徒の父親は、「息子のためにできることをしたい」という意思をお持ちのようだ。もしも、この罪名の違いで制度を利用できないと知れば、がっかりするのではないのか。
 
 もっとも、年齢を考えると少年審判に付されるだろうから、どうせ大したことではない…という判断があるのかもしれない。でも、罪名上でも悪質さが増せば、保護処分の内容も相当程度重くなるはずで、それは加害者が反省しての更生を願っている遺族の心情に適うはずだ。
 
 さらに、私が疑問を持ったのは③の自殺の練習を繰り返しさせた点を「強要」で片付けていることだ。立派に「自殺関与罪」になるのではないのだろうか。刑法202条にあり、6月以上7年以下の懲役か禁錮とある。199条の殺人罪と同じ第26章「殺人の罪」の中に置かれている。被害者参加制度の対象犯罪でもあるだろう。
 
 法学部で使った判例集を引っ張り出してみたら、やはりあった。妻が自殺するだろうと予見しながら夫が暴行・脅迫を繰り返した結果、妻が首をくくって自殺した事件について、広島高裁で昭和29年6月30日に判決が出ている(高刑集7巻6号944頁)。
 
 その判決では「犯人が威迫によって他人を自殺するに至らしめた場合、自殺の決意が自殺者の自由意思によるときは自殺教唆罪を構成」すると言っている。同級生の暴行と脅迫に耐えかねて自殺を選んだ大津のケースにぴったり…ではないのか。
 
 続けて、この判例はこうも言っていた。「進んで自殺者の意思決定の自由を阻却する程度の威迫を加えて自殺せしめたときは、もはや自殺関与罪ではなく殺人罪を以て論ずべきである」
 
 つまり、被害者が加害者の暴行・脅迫の結果、自分で物事を決められないくらいに精神的に参ってしまって自殺したのだったら、それはもう「殺人」ですよと、そういう話だろう。自殺関与罪どころではない。
 
 判例集の解説には「被害者の意思決定の自由を失わせる程度の威迫(強制)が被告人から加えられたか否かが、殺人罪自殺関与罪を区別するメルクマール」と書いてあった。
 
 こういった内容を読んでみると、やはり今回の大津のケースは、強要罪なんぞで片付けていい問題とは思えない。
 
 ひとり、私のような素人がいきり立って遠吠えをしていてもどうしようもない。だが、プロの法律家はどう考えているのかな…と思っていたところ、ある弁護士がテレビで今回の大津の件を解説して「自殺関与罪、または殺人罪にもなろうかという問題」だと発言していたので、私の見方もあながち大外れとも言えないようだ。
 
 だったら、なぜ遺族側の弁護士は矮小化して告訴してしまうのだろうなあ…関係ない素人には分からない事情があるのだろうか。相手が少年だからか?被害者が死亡しているからか?それとも…失礼を承知で書いてしまうが、大風呂敷を広げた後での失敗を、そしてそれによって自分が被る非難を恐れたのか?そんなことはないだろうが。
 
 被害者が亡くなっていれば確かに証拠の点で弱いだろうが、亡くなっているからこそ、ご遺族は最大限のことをしたいはず。捜査機関が既に捜査に着手している中、せっかく遺族がわざわざ告訴するのだ。最大限考えられそうだという罪名をぶつけても、ダメモトでも良かったと遺族は考えるのではないだろうか。
 
 そんな気弱な告訴では、捜査側も「その程度でいいの?」と広げた風呂敷を早々に畳み始めるのではないかと気にかかる。もっとも、県警が3回も過去に遺族の被害届を受理しなかった点で受けた反発を見ても、報道を通じて事態の推移を見ている市民がそんなことはさせないだろうが。
 
 気にかかるのは、もしかしたら遺族側の弁護士さえも、「中学生のいじめ」という言葉にとらわれてしまい、事態を小さく小さく見ているのではないかということだ。
 
 「いじめ」も「DV」もそうだが、言葉とは不思議なものだと思う。人を1回殴れば「暴行」になる。その暴行が繰り返されているものが「いじめ」や「DV」のはず。ということは、「暴行」よりも、かなり悪質なはずだ。それなのに社会でそう見られていない。「悪ふざけ」「けんか」が発展した程度だと思われてしまっている。
 
 いじめもDVも、実態は犯罪行為の連鎖とも言うべきものなのだが。
 
 それなのに、なぜかその犯罪行為が塊になったことで、小さく見られている。どうしてかと言えば、学校や、家庭といった「隔離された世界」でそれが起きていて、それを管理する権限を(事実上)握っている人間が、自分に不都合な法律を軽んじてしまっているからだ。外からは隔絶されているから、外の一般社会にはその隔離社会で何が起きているのかは分からない。
 
 冒頭で無法地帯での弱者の話に触れたのは、そういうことだ。大津の事件で、中学校は法律違反を見て見ぬ振りする無法地帯だったに等しい。強者に目をつけられた弱者はどう生きていけばいいのか。守ってくれる武器もなく、それを行使してくれる監督者もいない。暴力を止めるはずの規範がないところで、恐怖ばかりが連鎖していく。その世界が全ての人間にすれば、絶望するしかなかっただろうと思う。
 
 今回のケースによって、一般的に学校にも法律を意識する風潮が生まれているらしい。犯罪行為について、教師はきちんと知識を持つべきだ。そして、被害者にならない選択は自分ではできないが、加害者にならない選択は自分でできるのだから、生徒に「せめて加害者にはなるな」と教えるべきだろう。
 
 どうしたら「加害者にならない」選択ができるようになるのか…それは、簡単なことではないだろうが、「良い人間関係の基本は相手を尊重すること」だと学ばせることがまず大事ではないかと思う。いじめもDVも、やっぱり根っこは同じかな、と思う。
 
 参考文献:塩谷毅「自殺関与罪殺人罪の限界」『刑法判例百選Ⅱ各論【第5版】』有斐閣、2003年4月発行