黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

【光る君へ】#34 まひろ、道長から贈られた檜扇にインスパイアされ、もう1人の自分「若紫」を書き始める

道長、対興福寺で奮闘。日記に記録が

 NHK大河ドラマ「光る君へ」第34回「目覚め」が9/8に放送され、まひろの宮廷作家生活は軌道に乗った一方、為政者道長は興福寺の強訴に遭った。これが、寺は違えど後世で白河法皇が嘆いた「天下三不如意」の山法師の強訴の走りなのだろうか。寺社勢力の強まりの兆しを感じる。まずは公式サイトからあらすじを引用する。

(34)目覚め

初回放送日:2024年9月8日

興福寺の僧らが都に押し寄せ、朝廷に要求を突きつける非常事態。道長(柄本佑)は事の収拾に奔走する。一方、まひろ(吉高由里子)は物語を書き進め、宮中の話題を集めるが、狙いである一条天皇(塩野瑛久)と中宮・彰子(見上愛)の関係は深まらない。道長が熱望する彰子の懐妊はほど遠く、さらに都で病や火事など、不吉な出来事が続いたため、道長は一世一代のある決断をする。そんな中、天皇がまひろを訪ねてきて…。((34)目覚め - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK

 前回の終わり、強面の老齢の僧が多くの僧を引き連れて都に押し寄せる映像が出てきてオヨヨとなった。この事態に、道長はどんなことを日記に書いたかなと思い、公式サイトの「ちなみに日記には」(ちなみに日記には… 大河ドラマ「光る君へ」第34回より - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK)を見てみたら、多くの記述があった。

 これでも、途中端折られているのか?こんなに多く書かれているなんて、道長の興奮ぶりが伝わるというものだ。いつも短文しか書いてないような気がしたが、最近はこうなってた?

 しかし、読みにくい・・・数行の記述のたびに道長等の写真が挟まれ気が散り、理解の邪魔だ(数えたら、日記ページだけで37枚も写真がある!)。嫌がらせのように読みにくくして、公式サイトの担当者は何がしたいんだ。一条帝の言葉の途中で別項に切られているのはひどすぎる。イラっとした。

 そこで、ちょっと長くなるけれど、自分のメモ代わりに34回分の日記を公式サイトから転記した。写真抜き、同じ日付はまとめて(元々の別項は「‣」を入れた)。全て『御堂関白記』から。このメモのせいで、今回のブログはさらにダラダラと長めです。

寛弘3年(1006)6月14日条

‣山階寺(やましなでら/興福寺)から、馬允(当麻)為頼のために打擲(ちょうちゃく)された池辺園(いけべのその)の預の者が作った寺の解文(げぶみ)がもたらされた。

‣(当麻)為頼を召している際に、人が云(い)ったことには、「山階寺(やましなでら/興福寺)から三千人ほどの僧が為頼の私宅に行き、数舎を焼亡しました」ということだ。・・・聞くにつけ、不審に思ったことは少なくなかった。

寛弘3年(1006)6月20日条

大和国が、山階寺(やましなでら/興福寺)の僧蓮聖(れんしょう)が数千人の僧俗を招集して、大和国内を存亡させたという解文(げぶみ)を進上した。

寛弘3年(1006)7月3日条

大和国の解についての宣旨が下った。下手人の俗人や追捕すべき僧たちの名が入っていたが、それを蓮聖(れんしょう)に進上させることになった。蓮聖の公請(くじょう)を停止(ちょうじ)した。

寛弘3年(1006)7月12日条

‣定澄(じょうちょう)僧都(ぞうず)が土御門第に来て云(い)ったことには、「昨日、京に参りました。これは明日、興福寺の僧綱(そうごう)や已講(いこう)が、こちらに参上することになっていることによるものです。蓮聖の愁訴(しゅうそ)の事です・・・

‣・・・もしも愁訴(しゅうそ)についてしっかりした裁定が無かった場合には、土御門第の門下および大和守(源)頼親の宅の辺りを取り巻き、事情の説明を請うて、悪行を致すことになるでしょう」と。これを聞いて奇怪に思ったことは少なくなかった。

‣私が答えて云(い)ったことには、「もしもそのようなことが有ったならば、僧都(ぞうず)や寺家の上臈の僧綱(そうごう)・已講(いこう)たちは、覚悟を致しておけよ。我が家の辺りにおいて、そのような事が有った場合には、どうして吉(よ)い事が有るだろうか。・・・  

‣・・・汝(なれ)は僧綱(そうごう)であるとはいっても、その職に在ることは難しいだろうな。能(よ)く思量すべきである」と。・・・外記(大江)時棟に命じ、明日、陣定(じんのさだめ)を開くことを公卿(くぎょう)に通知させた。

寛弘3年(1006)7月13日条

‣右大臣(藤原顕光)がおっしゃられたことには、「『山階寺(興福寺)の法師たちが、理由もなく八省院(朝堂院)に集会(しゅうえ)している』ということだ。早く退去させるべきである」と。すぐに(小槻)奉親宿禰が宣旨を寺司に下した。

‣「朝堂院に参集している僧たちは、多数に上っている」ということだ。検非違使を遣わして追い立てるべきであるという宣旨が下った。右大臣(藤原顕光)は、その宣旨の上卿(しょうけい)を勤めた。

‣(藤原)説孝朝臣(あそん)を遣わして、(一条)天皇の仰せを伝えたことには、「仰せは、『僧たちが参上しているというのは、道理がない。早く奈良に罷(まか)り還った後、愁訴(しゅうそ)した事が有るのならば、僧綱(そうごう)が訴えるように。・・・

‣・・・もしこのような事が有ったならば、不都合なことではないか』と承っている」と。僧たちを定澄(じょうちょう)の許に追い立てた。

寛弘3年(1006)7月14日条

‣定澄(じょうちょう)が申し入れて云(い)ったことには、「得業(とくごう)以上の法師たち三十余人ほどが、まだ留まっています。こちらに推参するのは如何でしょう」と。

‣私が云(い)ったことには、「得業(とくごう)の僧たちが来ることは無用である。ただ、僧綱(そうごう)と已講(いこう)だけが来るのが宜しいのではないか。今はまだ、騒然としている。後日に来るのが吉(よ)いであろう」と。

寛弘3年(1006)7月15日条

‣天が晴れた。興福寺の別当(定澄/じょうちょう)・五師・已講(いこう)が、土御門第に来た。西廊において会った。「諸僧たちは、罷(まか)り還りました。ただし、私たちは申文(もうしぶみ)を進上するために参上しました」ということだ。

‣その申文を見たところ、四箇条有った。第一条には、「検非違使を派遣され国司が申した。寺家の僧が(当麻)為頼の宅を焼亡した事、および田畠を踏み損じた事を調査してください。また、きっと追補を行わないという事にしてください」とある。

‣この二事について、私が云(い)ったことには、「この事については、調査は行われる様に、私は申しておいたのである。ところが寺の解文(げぶみ)が申上された後、議定を行う前に、汝(なれ)たちは悪行を致したのである。・・・

‣・・・これでは氏長者(うじのちょうじゃ)である私の思うところを蔑ろにしたようなものである。そこで調査を行わなかったのである」と。

‣第二条には、「大和守(源)頼親の停任(ちょうにん)をお願いいたします」とある。これまた、極めて奇怪な事である。頼親の身には罪は無かった。僧たちが申したことには、道理が無い。

‣第三条には、「(当麻)為頼もまた、停任してください」とある。これまた、奇怪な事である。為頼というのは、人のために宅を焼かれ、愁(うれ)いが有る者である。焼いた人を罰せず、愁人を罪に処すというのは、極めて不都合な事である。

‣第四条には、「蓮聖(れんしょう)が公請(くじょう)を停められたのを、免されるべきでしょう」とある。これについては、蓮聖は罪名が有る者とはいっても、優免(ゆうめん)を申上することについては、何の不都合が有るだろうか。

‣罪が有る者を免される事は恒例である。そうではあるとはいっても、この申文(もうしぶみ)の中には、裁可できない第三条までのことも入っている。そこで、そのまま奏聞することはできない。

‣もし蓮聖(れんしょう)について申上したいのならば、他の申文を作って奏聞しなければならない。これらの雑事を教示した。僧たちは、事毎に道理であると称し、還り去った。子細は、ここには記さない。衆人が聞いてくる事が有るであろう。

 6月14日には寺から、そして20日には大和国から解文がもたらされていた。それに対して「大和国の解についての宣旨が下った」とあるのが7月3日。「蓮聖の公請(くじょう)を停止(ちょうじ)した」等とあり、それに怒って寺の皆さんが大挙して上京してきたわけだね。

 寺の行動に対して「道理が無い」とか言ってるけれど、どうなのよ・・・最初の寺側の被害を無視してないか。贔屓が招いた騒乱のよう。「氏長者(うじのちょうじゃ)である私の思うところを蔑ろにした」なんてつまらないこと言ってないで、両者の話は早いうちに調べて聞くべきだったね。

 ドラマでも、殊更に寺側を強面にしたり、悪く描き過ぎだった。ホワイト道長だからね。

まひろが活躍、帝は彰子を子ども扱い

 それにしても、割と日記に忠実に、肉付けされてドラマが進行しているのが分かる。こんなにいい記録を下敷きに使わない手は無い。

 「山階寺(興福寺)の法師たちが、理由もなく八省院(朝堂院)に集会(しゅうえ)している」と日記に書かれた7/13には、ドラマでは、まひろの機転で中宮彰子が大事を取って帝の側へと避難した。

 この時、中宮大夫の斉信は、藤壺の女房らに「中宮様を奥の間にお隠し参らせよ」と言った後で、「興福寺の僧どもが大極殿の前まで押し寄せておる。内裏に入ってくることは無いと思うが、万が一に備えよ。そなたらも命を懸けて中宮様をお守りせよ」と抽象的な命じ方をした。

 「お守りするとは、どのようにしたらよろしいのでしょうか?」と、案の定、お姫様育ちの女房衆から返って来たところで、まひろが機転を利かせて具体的に提言。

まひろ:清涼殿にお連れ申したらいかがでしょうか。万が一、僧たちが内裏に攻め込んできたとしても、まさか帝の御身にまでは危害は及ぼしますまい。帝と共におられることが、最も安心かと。

 これを斉信が了承した。その時、帝は彰子にこう言い聞かせた。

一条帝:(ずっと下を向いている彰子)そのように案じることは無い。今、左大臣が陣頭に立っておるゆえ、間もなく事は収まるであろう。彰子、そなたも己が父を信じよ。顔を上げよ。そなたは朕の中宮である。こういう時こそ、胸を張っておらねばならぬ。

彰子:(帝をちらりと見るものの、また下を向く)

 彰子はまだ子ども。そう思って、帝が教え諭している様子が見て取れた。

 史実の彰子は988年生まれ。この時は1006年だから18歳?そうか・・・💦ドラマの彰子は、母の倫子様にも道長にも心配され、18歳でもいわゆるコミュ障気味。それで、帝からも子ども扱い。この子を何とかしなくちゃいけないのは、まひろにとっても、手ごわいだろう。

 道長も心配が頂点に達している。まひろの局に立ち寄り、様子を尋ねた。

道長:帝と中宮様はいかにおわす。

まひろ:お渡りはございます。

道長:親王様にお会いになるだけか・・・。

まひろ:物語のお話もなさいます。

道長:いまだ中宮様にお手は触れられぬか。

まひろ:は・・・。

道長:お前・・・何とかならぬか?このままでは不憫すぎる。

まひろ:恐れながら、中宮様のお心が帝にお開きにならないと、前には進まぬと存じます。

道長:それには・・・どうすればよいのだ?

まひろ:どうか、お焦りになりませぬように。

道長:皇后定子様が身まかられてもう6年だぞ。焦らずにはおれぬ。

まひろ:力は尽くしておりますゆえ。

道長:お前が頼みだ。どうか・・・頼む。

 道長は、問題クリアには帝の攻略が肝要だと思っていた様子。だが、まひろはそうじゃない、クリアすべき問題はむしろ彰子側にあるとここで言ったのだ。物語によって帝を惹きつけつつ、同時に彰子の心を溶かさなければならない。かなりの難問だ。

 そんな彰子が、わざわざまひろの局を訪ねてきた。左衛門の内侍を下がらせ、まひろにこう言った。

彰子:そなたの物語だが・・・面白さが分からぬ。男たちの言っていることも分からぬし、光る君が何をしたいのかも分からぬ。帝はそなたの物語のどこに惹かれておいでなのであろう。

 世慣れぬのも、上級貴族の姫だったし入内も幼かったし無理もない。しかし、母の倫子様の本能的肉食ぶりを思い出すと、これでも親子か。道長似でも、ボーっとし過ぎだ。

 とはいえ、彰子は頭を働かせて理解しようとしている。その心の動きが彼女を成長させるはずだ。

まひろ、帝もとりこの宮廷の人気作家に

 まひろの書いた源氏物語は空蝉の帖が流布され、多くの人たちに読まれていた。

 光源氏が人違いをして、逃げた空蝉と同じ部屋に寝ていた義理の娘の軒端の荻を身代わりにしたくだりを、公任は妻の敏子と、行成はひとり、斉信は小少将の君の膝枕で読んでいた。三者三様で面白い。斉信、職場の部下相手に何やってんの?

 宮中の女房達も、ウフフと笑いながら集って読んでいた。読みあげていたのは、おじゃる丸の声優さんらしい。

 そこに!なんと!一条帝まで、まひろの局にやって来た。「なぜ、そなたはこの物語を書こうと思い立ったのだ」と聞かれ、まひろは正直に「お上に献上する物語を書けと左大臣様が仰せになった」と答えた。

 一条帝は心の中で、清少納言の枕草子に対抗する道長の生臭い意図に気づいたはずだ。それでも、まひろの言葉「書いているうちに・・・私は、帝のお悲しみを肌で感じるようになりました」に心が動いたか。こう言った。

一条帝:朕に物おじせずありのままを語る者は滅多におらぬ。されど、そなたの物語は朕にまっすぐ語りかけてくる。

 まひろの物語は帝をとりこにし、第一関門はクリア。彰子という難問はまだ残る。

 この時の「私ではなく、中宮様に会いにいらして」というまひろの心の中の言葉で、倫子様の命を懸けた願い「中宮様のお目の向く先に帝の方からお入りくださいますよう」を思い出した。本当に、彰子の心を閉ざすのは巌の扉のようだなあ・・・。

全てを失った顔がうまい、はんにゃ金田

 続けて道長の日記「御堂関白記」の記述を見てみたい。

寛弘4年(1007)1月5日条

‣昨日の酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃から、女方(源倫子)は、重く病んだ。これは御産によるものである。卯剋(うのこく/午前5時~午前7時)に、女子(藤原嬉子)を産んだ。巳剋(みのこく/午前9時~午前11時)に臍尾(へそのお)を切り、乳付を行った。

‣亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、火事が有った。右衛門督(えもんのかみ/藤原斉信)の家であった<中御門(なかみかど)である>。「一物も取り出すことができなかった」ということだ。

‣「(藤原斉信は)叙位の議に出席していて、宿直(とのい)装束が無かった。束帯を着たまま、まだ内裏(だいり)にいる」ということだ。そこで宿直装束一具(よろい)を届けた。袿(うちき)を四枚に直衣(のうし)・指貫(さしぬき)・合袴(あわせばかま)であった。

寛弘4年(1007)1月13日条

‣未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)に内裏(だいり)に参った。五位蔵人に右兵衛佐(藤原)道雅を補した。(一条)天皇は、「道雅は、若年ではあるが、故関白(藤原道隆)の鍾愛の孫である。そこで補すのである」と云(い)われた。

‣六位蔵人には兵部丞(藤原)広政と(藤原)惟規を補した。蔵人所の雑色や非蔵人を差し置いて、この人々を補せられるのは、現在、蔵人所に伺候している蔵人は、年が若く、また、補すべき巡にあたっている非蔵人や雑色たちも年少である。

‣そこで、この二人は頗(すこぶ)る年長であって、蔵人に相応しい者である。そこで補せられただけのことである。後世の人に判断を任せよう。この人事の賢愚(けんぐ)はわからない。

 倫子様は、高齢出産によってかなりダメージを受けた様子。ドラマには今回お姿が無く心配にもなるが、彼女が長命なことは未来人の私たちは知っている。40代で出産をすると人間の不思議で長命になると聞いたが、それを地で行っている。

 また、火災に遭った斉信が、実に良い表情をしていた。全てを失い、柱に寄りかかってようやく立っていた。演じるはんにゃ金田のYouTube動画によると、若き日の海外のカジノでの失敗が、今回の演技には生きたそうだ。道長が素早く見舞いに装束を用意したのも史実だったんだね。

youtu.be

 まひろ弟(姉の七光りか✨)惟規が蔵人に出世することも、この日の道長の日記には記されていた。道長が、蔵人には3人空きがあると言い、一条帝の推す伊周長男の道雅と、道長が惟規を推していた。もう1人は誰?と思ったが、広政の名が日記にはあった。

 ちょっと先に飛ぶが、数カ月後にはまた火災。今度は道綱の家が焼け、日記に記載がある。

寛弘4年(1007)3月24日条

内裏(だいり)から退出した。亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、南西の方角に火事が有った。事情を問うと、東宮傅(藤原道綱)の大炊御門(おおいみかど)の家であった。

 セコムもアルソックも無い時代、火事場泥棒を狙って貴族の邸宅は放火されたという。火事は笑えないが、はんにゃ金田と道綱役の上地雄輔のショック顔比べみたいになっていた。

流れてきたのはお風呂のアヒル?

 そしてそして・・・本日のメインイベント「曲水の宴」について、3月3~4日に道長は日記に書いていた。オードリーの「100カメ」(大河ドラマ「光る君へ」 平安の雅を生み出す舞台裏 - 100カメ - NHK)でもフィーチャーされていたが、雅な世界を再現するのに、大変な苦労をしているドラマ裏方の姿が良く分かった。

寛弘4年(1007)3月3日条

‣土御門第で曲水(ごくすい)の宴(えん)を催した。東渡殿の所から流れてくる川の東西に、草墪(そうとん)と硯台(すずりだい)を立てた。東対(ひがしのたい)の南唐廂(みなみからびさし)に公卿(くぎょう)と殿上人(てんじょうびと)の座、南廊の下に文人の座を設けた。

‣辰剋(たつのこく/午前7時~午前9時)の頃、大雨が降った。水辺の座を撤去した。その後、風雨が烈しくなった。廊の下の座に雨が入ってきた。そこで対の内部に座を設けていた頃に、公卿(くぎょう)が来られて、座に着した。

‣新中納言(藤原忠輔)と式部大輔(菅原輔正)の二人が、詩題を出した。式部大輔は、「流れに因(よ)って酒を泛(うか)ぶ」と出した。こちらを用いた。申剋(さるのこく/午後3時~午後5時)の頃、天が晴れた。

‣水辺の座を立てた。土居に降りた。羽觴(うしょう)が頻(しき)りに流れてきた。唐の儀式を移したものである。皆は詩を作った。

‣夜に入って上に昇った。右衛門督(藤原斉信)・左衛門督(藤原公任)・源中納言(源俊賢)・新中納言(藤原忠輔)・勘解由長官(藤原有国)・左大弁(藤原行成)・式部大輔(菅原輔正)・源三位(源則忠)、殿上人や地下の文人が二十二人、参会した。

寛弘4年(1007)3月4日条

詩ができあがった。流れの辺りに降りて清書した。流れの下に立った。草墪(そうとん)を立て廻られた。詩を披講(ひこう)した。池の南廊の楽所(がくしょ)に数曲が有った。

 日記を読むと、ドラマとは雨が降った時間に違いがある。日記には3日朝7~9時の降雨とあり、まだ公卿が来る前の話だから。

 でも、宴の途中で雨が降った方がドラマチックだ。盃を載せて流れてくるお風呂のアヒル(さすがに真っ黄色ではなかった)みたいな「羽觴(うしょう)」が、大粒の雨を受ける様子がかわいかった。「100カメ」によれば、その1羽だけは自在に動かせるようにモーター入りだったとか。細かい。

 制作陣の力の入り具合は、こちらのページにも書かれていた。(【光る君へ絵巻】ドラマ美術の世界 ~藤原道長が催した「曲水の宴」 - 大河ドラマ「光る君へ」 - NHK

彰子の心の目が開く?

 これだけ苦労して金も掛けて再現した曲水の宴だもの、これが物語に活かされないとかなり勿体ない。

 雨の時間を史実から動かしたことで、面白いシーンが生まれた。雨に降られた公卿たちが御簾で仕切られた彰子の隣の部屋に逃げ込み、男どもの会話を彰子が目の当たりにしたのだ。(どこかで見たような。)

 まひろは、濡れてしまい部屋に入って来た「公任抜き四納言」に「どうぞ」とタオル代わりの布を配り、その場に控えた。そこに道長がやってきた。

道長:このような空模様となってしまい、済まぬ。

源俊賢:いやいや、左大臣様のせいではございませぬ。

斉信:昔は雨に濡れることなぞ平気であったが、すっかり弱ったな。

道長:ああ、年を取った。

斉信:しかし、道長は昔も今もいい体をしておる。(ポンポンと触る)

道長:えっ?俺?

俊賢:上に立つ者はきりりとしておらねばならぬゆえ。

斉信:そうだ。

道長:は?きりり・・・ハハハ、そのような事考えたことも無かったわ。(皆と笑い合う)

 昔の美意識ではキリリよりポッチャリではなかったのか・・・父親が屈託なく笑い合う様子を、彰子は目を丸くして御簾越しに見ていた。そして、俊賢がまひろに話しかけた。

俊賢:そなたは、今はやりの物語を書いている女房か?

まひろ:はっ。

俊賢:なぜ、光る君を源氏にしたのだ?

まひろ:親王様では好き勝手なことをさせられませぬゆえ。

俊賢:臣下の籍に下ろされた、亡き父高明を思い出した。父は素晴らしき人であった。

まひろ:どなたの顔を思い浮かべられても、それはお読みになる方次第でございます。

斉信:光る君は、俺のことかと思っていたぞ。フフフ・・・あれ?どうした?(笑い声)

行成:少なくとも、道長様ではありませんね。道長様は笛もお吹きになれないし。

道長:いや、俺だって少しは吹けるぞ。(笑い声)

斉信:では、笛を持ってこよう。(笑い声)

道長:少し。(続く笑い声)

 行成、道長こそがまひろの光源氏なのだよ。雨に降られた控室では、皆がリラックスし本音が出るのかな。それを世慣れぬ彰子が、まじまじと見ているのをまひろが眺めていた。遠い昔、直秀がいた頃の打毬の時もそうだった。あの時、品定めにあげつらわれ、いたたまれず逃げたまひろ。前回、約20年ぶりぐらいに返り討ちにしていたね。

 雨が上がって宴が再開され、彰子は、まひろに言った。

彰子:さっき父上が心からお笑いになるのを見て、びっくりした。

まひろ:殿御は皆、かわいいものでございます。

彰子:・・・帝も?

まひろ:(頷いて)帝も殿御におわします。先ほどご覧になった公卿たちと、そんなにお変わりないように存じますが。帝のお顔をしっかりご覧になって、お話申し上げなされたらよろしいと存じます。

彰子:(照れたように、菓子を一口食べる)

 まひろは微笑み、彰子を見守った。その様子を遠くから窺う道長も、少し安堵したような顔だった。

 ここで彰子が拗らせないでほしいものだ。何とかうまく着地して!と願わずにはいられない。拗らせ、疑り深くなり天邪鬼になったりしたら、ああ、全てはぶち壊し。壊れやすい姫様の心の扱いは本当に難しい。真っすぐ育ってねと、溜息が出た。

感激の誕生、若紫の物語

 まひろは、道長から贈られた檜扇を手に取った。出会った頃の道長、まひろ、追いかけた雀が描かれている。眺めるたび心が喜びで満たされる一品だろう。思いは当時に飛び、まひろは考えた。

まひろの心の声:小鳥を追って行った先で出会ったあの人・・・あの幼い日から、恋しいあの人の側でずっとずっと一緒に生きていられたら・・・いったいどんな人生だっただろう。

 近くの雀を目にし、庭にいた女の子は誰?まひろは宮仕えをする女童でも見たのだろうか。それとも、まひろの物語の中に生きる幻影か。

 そして、まひろは物語の本筋に目覚めた。ヒロイン紫の上が登場する若紫の帖だ。ただ一人で勝手にストーリーを思いつくのではなく、道長から贈られた檜扇にインスパイアされて、というところが2人の物語らしくて素敵だ。

 誰でも、昔「じゃない方」を選んでいたらどんな人生を歩んでいただろうかと考えたことはあるだろう。そう、紫の上はもう1人のまひろ。若紫の出会いの頃から一緒に三郎と生きていられたとすると、まひろにはどんな可能性があったのか。それを書くのだ。

まひろの心の声:「雀の子を犬君が逃がしてしまったの。籠を伏せて、閉じ込めておいたのに」と大層くやしそうにしています。

 今年の大河ドラマが始まった時にも、主人公のまひろは、まるきり源氏物語の若紫じゃないかと思った。三郎とまひろの出会いは、光源氏と若紫のそれをなぞっていたから。紫の上は、光源氏の愛妻でも嫡妻にはなれない。そこがまた、まひろとシンクロした。

 ドラマで視聴者がまひろの人生として見てきた経験を、逆にまひろが物語に書いていくのだから、設定のうまさに脱帽するしかない。

 一般的に、若紫はモデルが彰子だともいう。もちろんそのようにも読めるから、次回以降、物語を読んだ彰子がさらに様々に目覚め、学んでいくんだろう。

 次回は、道長の金峰山詣での暗殺未遂事件が出てくるようだ。伊周の命で動く人物は、「おんな城主直虎」で石川数正を演じたあの人かな?目立つなあ。暗殺者は目立ったらダメじゃないか、地味じゃないと。

 ところで、惟規が「神の斎垣を越えるかも、俺」とまひろに言っていた。「神の斎垣を越える」とくれば、道長がまひろに渡した恋の歌を思い出す。惟規は予告でも恋人(?)の名を叫んでいた。次回、彼の恋バナも楽しみだ。

(ほぼ敬称略)