黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

本村洋さんに、幸あれ

 このブログで被害者に関する記事を書くにあたり、できるだけ被害者や関係者の実名を記すのは避けてきたつもりだが、匿名で書くのが無駄な努力とも思えるほど名前の知れ渡ってしまった被害者遺族がいる。本村洋さんだ。名前を聞くだけで、多くの人が「山口県光市で起きた、母子殺害事件の遺族だ」と思い浮かべることができるのではないだろうか。
 
 事件は1999年4月に起きた。彼の新婚の妻は、被告人によって無残にも殺され、強姦された。11カ月の幼い娘は、異変のあった母のもとにハイハイして行き、泣き声が事件の早期発覚を促すと考えた被告人に殺された。あまりの残酷さに、この部分を書くだけでもつらい。その被告人の上告が20日最高裁によって棄却され、死刑が確定することになった。
 
 被告人は犯行時18歳と1カ月だった。少年法は18歳未満の少年への死刑適用を禁じているため、その年齢からわずか1カ月を経過しただけという被告人に対する裁判では、量刑が争点になってきた。周知の通りだが、当初の1審、2審では無期懲役が選択されたが、最初の上告審では最高裁は被告人の年齢を「死刑を回避すべき決定的な事情とまではいえない」として差し戻した。差し戻し審の高裁では死刑が選択され、今回の最高裁では、それが支持されたというわけだ。
 
 もう、事件発生から13年が経とうとしている。当時、テレビ画面で見る本村さんは、まだ見るからに初々しかった。その間、節目ごとに遺族としてメッセージを発し続けてきた本村さんの姿に、心の動いた人は多かったのではないかと思う。最初の地裁判決の後でのメッセージは、彼の若さゆえもあっただろうが率直で、世間の目を見開かせたものだったと思う。
 
 本村さんは、被告人に無期懲役を下した日本の司法に絶望し、「被告人をすぐにも釈放してほしい、自分の手で殺すから」と言い切った。それまで「お上」の判断に異を唱えたり、被告人といえど相手の死をあからさまに願うことが憚られたりする世の中の空気があり、悔しさをこらえて口を閉ざす遺族がほとんどだった中、あそこまで明言した被害者遺族は日本では初めてだったのではないかと言う研究者もいる。
 
 彼の言葉が、被害者の感情を率直に表に出しただけではない。よく、被害者の言葉は「悲痛な訴え」とひとくくりにされ、泣いている姿や感情的な物言いだけが今でもクローズアップされがちだが、テレビを通じて見た本村さんの記者会見での訴えはとても理論的に響き、「被害者=感情的」のイメージを大幅に塗り替えたようにも感じる。そして、その内容には聞いている側が首肯せざるを得ないものがあったと思う。そしてそれが、忘れ去られていた犯罪被害者の境遇に多くの人の目を向けさせたのではないだろうか。
 
 20日最高裁では傍聴席の最前列に本村さんが座り、その膝には亡き妻と娘の遺影が載せられていたのが象徴的だったが、1999年11月の山口地裁は、被告人への影響を過大視して当の本村さんに遺影の傍聴席への持ち込みを禁じている。
 
 被害者遺族にとって、遺影が単なる写真ではないのは当然のことだ。遺影持ちこみは、「被害者本人」を法廷に連れて行って裁判のなりゆきを見せているつもりなのであって、遺族は本人の代理にすぎないのだという人もいる。その「本人」の前では「委縮してしまうだろう」と被告人をかばう司法の方がおかしいのだと、本村さんの件があって初めて数多くの一般人が気づき、司法も自分たちの世界の「ことさらに被害者側を排斥する非常識さ」に気づかされたのではなかったか。
 
 2000年より前と言っても、まだまだ最近のようにも思えるが、被害者側は、遺影持ちこみ以前に、まず被告人に対する刑事裁判を傍聴することでさえ簡単なことではなかった。ひどい場合は何の知らせもなく裁判が始まって判決まで出てしまい、新聞のベタ記事を読んで初めて裁判があったことを知ったという遺族もいた。メディアが取材に来てコメントを求められ、それで裁判があることを知らされた場合でも、一般の人たちと同じように傍聴席の抽選の列に並ばされ、はずれて傍聴できないケースもあった。注目の裁判では多くの傍聴人が押し掛けるので、そのようなことも起こりえた。
 
 運よく傍聴席に座れた場合でも、喪服を着てきたことを裁判長に咎められた遺族もいたと聞く。また、審理が始まっても、傍聴席の遺族には何の配慮や発言権もなかった。被告人や証人が嘘を並べ立てていても、傍聴席からは反論の声も上げられない。その当時は市民から選ばれた裁判員もおらず、プロの裁判官、検察官、弁護士だけの間で専門用語が飛び交うので、さっぱり分からない場合や聞こえにくい場合でも、質問できるチャンスなどなく、今のように検察官に別室で分かりやすく説明してもらえるわけでも、証拠が見られるわけでもなかった。「検察官に会ったこともない」という被害者は、大勢いた。
 
 たまらず、傍聴席で何かアクションを起こせば、退廷させられるのが落ちだ。書き出せばキリがないが、とにかく、被害者側は証人にでもならない限り裁判では無視され、散々な状況だったことが少しでもお分かりいただけるかと思う(証人でも、言いたいことが言えるものでもないから、聞かれたことにしか答えられず、不満が募るような状況だったという)。
 
 それが今では多くが改善され、法廷での被告人への直接質問まで法律が認めているのだから、被害者をめぐり、どれだけ革命的なことが司法制度を舞台に成し遂げられたのかが分かろうというものだ。
 
 2000年に犯罪被害者保護法ができたのは、被害者の力もあったがそれを支える研究者や、支援者の声が大きかったような気がするのだが、その時点で、被害者側の優先的傍聴や、法廷内で主に「気持ち」を述べる意見陳述、公判記録の閲覧と謄写が認められるようになった。
 
 しかし、被害者側は「保護」を与えられ「気持ち」を言うだけでは満足できなかったのは明らかで、司法の中での被害者の「権利」を求めるべく、動いた。保護法が成立した同じ年の1月に設立されていた「全国犯罪被害者の会」は、全国で52万もの署名を集めて政治を動かし、2004年の末には「犯罪被害者等基本法」という被害者の「権利」を認めた法律の成立に結びつけた。本村さんは、同会の設立に関わった数人の被害者のうちの1人だ。
 
 その被害者や遺族自身が作った流れによって、本村さんの事件の差し戻し控訴審が始まった翌月の2007年6月には刑事訴訟法が改正され、被害者の刑事裁判への参加制度が2008年12月に導入されるに至った。
 
 「被害者参加制度」を利用すると、「被害者参加人」になった被害者側は傍聴席でなく法廷内に席が与えられ、被告人に直接質問でき、情状証人にも尋問ができ、被害者なりの論告意見を検察官とは別個に述べられる。また、検察官は被害者参加人の意見に耳を傾け、その納得が得られるように説明することも求められるようになった。参加制度の対象事件だと、「被害者参加人」と正式に認められる前でも、被害者側はかなり早い段階から証拠を目にすることができるようになったが、これも大きい。
 
 ただ、この新制度がさかのぼって適用されるわけではないので、本村さん自身の裁判で彼が新制度の恩恵を受けることはない。すべては、のちに不幸にも被害者になる人たちのための、「権利」を獲得する運動だったのだ。
 
 このように、この山口県光市の事件発生以来、今世紀に入った10年ほどで日本の刑事裁判における被害者の立場が急速に変化し、「権利の拡充」が進んだのは、偶然ではない。変化の動きの中心近くに立ち続けてきたのは、彼1人ではないにしても、どう見てもキーパーソンは本村さんだ。運動の象徴として、己を世間にさらし続けるのは大変なことだ。本村さんの歩みを抜きには、この被害者運動の成果は語れないと私は思っている。
 
 今回、最高裁での判決により死刑が確定することになり、本村さんは判決に満足しつつも「うれしいとか、喜びの感情はない」「犯罪が起きた時点でみなが敗者」と苦渋の表情で語ったという。「この国の社会正義が示された」との言葉も、最初の地裁判決の後の司法制度に対する絶望を示すコメントとは対照的だ。それだけ、長い年月が流れたのだと思う。
 
 少し前、お手伝いしたシンポジウムで、実行委員会が本村さんを講演の講師として招こうとしたけれど、結局断念したことがあった。彼がこれまで仕事関係など周囲に迷惑をかけてきたので、その恩返しをせねばならず、日常の生活を取り戻そうと努めているので辞退されたとのことだったように思う。日本の被害者の環境を変えるほどの大きなことを成し遂げた本村さん。再婚されたとの報道もあった。簡単なことではないかもしれないが、ぜひ幸せになってもらいたい。