パソコンを開いたら、この記事が目についた。
2008年6月に起きた秋葉原通り魔事件が来年3月に映画化されるのだという。タイトルは「RIVER」、監督は広木隆一という「余命1ヶ月の花嫁」を撮った人だそうだ。主役の蓮仏美沙子は、事件でオタクの恋人を失った設定で、描かれるのは「人とのかかわりの中で立ち直っていく姿」だと記事では書いている。また「凄惨な事件そのものより、大切な人間を失った心の痛み」が描かれていくのだとも。
とりあえず、犯人側の心の闇を描く…などと犯罪者理解が中心の作品でないようなので、良かったと思う。事件の報道に接して、「自分もそういった心の闇があるかもしれない、犯罪に手を染めてしまうかもしれない」と自問し、恐れおののく人間は、むしろ健全であり、実際には犯罪を犯さないものだと最近何かの本で読んだ…が、頭が悪くて何の本だったか今ちょっと思い出せない(汗)。
とにかく、そういった健全な警戒心からかもしれないが、過剰に犯罪者に寄り添った報道や、小説、映画、ドラマなどが社会では作り続けられてきたように感じていたので、そろそろ私たちの側にいるはずの、不幸にして被害に遭ってしまった仲間の被害者の痛みに目を向けてもらいたい気持ちがあった。
やはり、2004年に被害者等基本法ができて以降、世の中は変わってきていると言っていいのだろう。この基本法以前だったら、きっとお定まりの「加害者の心の闇を描く」路線の映画だっただろうし、いまだから被害者側の人間を描くことに抵抗も薄くなったのだろうから。
ただ、以前にドラマ「それでも、生きてゆく」の際にも書いたが、見る側が「加害者を赦す被害者」「回復していく被害者」を見て安心したいからといって、その既定路線通りの被害者の描き方をしてほしくないなあ…と思う。脚本を手掛けているという監督が、よく取材して脚本を書いてくれているとは信じたいのだけれど。
つまり、この事件は2008年なんだから、もう回復していてもいいはずだよね、という思い込みは取り払って被害者の回復を描いてもらいたいということだ。一般の人間と、大切な人を失った人たちとでは、事件の後の時間の流れ方は違う。相対性理論ってそんなことじゃなかったかもしれないけれども、後者の立場の人たちは、忘れられない事件の流れの中に、いまだどっぷり浸っていても全然おかしいことではないと私は思うからだ。
人間がさまざまいるように、被害者もさまざま。犯罪被害者支援20年・犯罪被害給付制度及び救援基金30年記念誌として、つい今年の9月末にまとめられた「犯罪被害者支援の過去・現在・未来」の中で、寄稿している朝日新聞の河原記者がこのように書いている。「そもそも、『被害者』というひといろの人間がいるわけではなくて、この社会に存在するいろんな人が被害者になるだけなのだ」と。そして、メディアの側にいる人間として「被害者や遺族が本当にどんな体験をしたのかを、私たち記者は知らない、それどころか現実と違うステレオタイプな被害者像を持っている」と。
その通りだと私も思っているし、この点はもっと知られなければいけないことだと思う。なぜかと言えば、ステレオタイプの被害者像の積み重ねは、現実の被害者が社会で生きる時の生きにくさにつながってしまうからだ。
現在、各都道府県に被害者を支援するセンターができている。被害者個々人によってセンターの支援が合う合わないは当然あるのだけれど、このセンターに早い段階で支援を受けられた被害者や遺族の人たちが、比較的早期に回復しつつあるとは言われているように思う。他方、半世紀近く前になる強盗事件で両親を殺害された女性が、昔のことなのでずっと支援を受けられず、社会での生きにくさに直面して回復がままならなかった話を、知っている。
彼女は先日、秋篠宮殿下・紀子妃殿下も会場でご覧になったパネルディスカッションで身の上を語っていた。現在、彼女はセンターでの支援を受け始めており、席上でも明らかに回復に着実に向かっている様子が見てとれたが、数年前に初めて彼女の話を聞いた際には、私も涙を抑えられずに号泣してしまったが、会場の全員が涙したと言っていいくらい、まったく事件当時の傷つきを昨日のことのように抱えていて、回復も見えないような状況だったように思う。
いや、でも、体験を語れるぐらいにまでなっていたのはすごいことだと思うので、私が涙したその会場で語ったときには、彼女は回復のスタートラインに立った時期だったのではないか。
とにかく、私としては語られる内容を聞いて、こんな悲しいことがあるのか、あっていいのか…それが、当時の正直な感想だった。
このように、被害者の状況には個人差があり、何年経とうが、何十年経とうが、半世紀経とうが、ズタズタに傷ついたまま放っておかれた人もいれば、事件直後に適切な支援に巡り合えた人もいる。簡単に一律に「回復」なんてものは語れないと、私は様々な被害者の方たちの状況を学んで思い知った。
映画の話に戻ると、秋葉原事件からはまだ、たったの3年が経過しただけであり、加害者の刑も確定していない。被害者や遺族の方たちは、自身の回復を語るどころか、まだ事件(裁判)の奔流の中で、痛みを抱えたまま、その心の傷から血が流れ出るのをじっと見つめている段階の人も少なくないのではないか…と勝手ながら思ってしまう。
でも、確か警視庁の被害者支援室からも支援員が積極的に出向いて支援にあたったとも聞いたので、あるいはその後も継続的な支援を受けられた被害者や遺族もいるかもしれない(そうだといいのだが)。ただ、遺族ではなく、恋人という立場だとどうなんだろうか…もしかしたら、そういった支援のセーフティネットからは漏れてしまっているような気がする。
それで、映画ではどんな被害者の恋人の回復を描くつもりなんだろうか…痛みを描くのは良いとしても(でも、その「痛み」についても、ステレオタイプがバリバリ固定化されていくようなものだと正直困る)。単に周囲の人と触れあうだけで、それなりの支援や医療の手を借りないで被害者がいるだけでは、実際は回復は難しくはないのだろうか。それに、触れあいといっても、被害に遭ってから友人・知人が「そっとしておこう」と(善意もあるのだろうが)寄り付かなくなってしまい、被害者が孤立感を深めていってしまう話には、枚挙に暇がないのだが。そうなると、普通の形では人と触れあうのさえ難しい。
いやでも、それぞれ事情が違うのだから、周囲からたまたま適切な支援を受けられて、回復が目の前に見えてきている被害者がいるのかもしれないし…う~ん、でも考えにくいように思うが。
いずれにせよ、映画制作者側にお願いしたい。被害者を描くのであれば、いつまでも回復しない被害者では絵にならないとか、救いがないじゃないかとか、そういうつまらないことに囚われずに、社会の意識にこびりついたステレオタイプを突き崩すような、現実の被害者の苦しみに寄り添った、真実に近い被害者像を提示してもらいたいと思う。
それは、社会の被害者への無理解を減らす助けになる。映画によって、被害者の方たちの生きにくさを少しでも軽くしてもらいたいものだ…と思う。