その幼少期、「糸やん」には幼馴染のヘタレ、勘介がいた。
お転婆に輪をかけたような糸やんと勘介の姿をドラマで見るたび、私は自分とKを思い出した。
先日も、ある友人に「Kとはおもしろい関係だったよね」とにやにや笑って言われたが、
先月に急逝した幼馴染のK宅に、週末、お邪魔してきた。
小学校時代の仲間8人で、近くのスーパー駐車場に集まり、ぞろぞろ歩いてK宅に向かった。
見事におじさんになっている人たちが同級生とはなかなか信じられなかったけど、
私も負けず劣らず、押しも押されもせぬ立派なジャイアンおばさん。
これが「時の流れ」ってやつなんでしょうね。
しかし、ずるいことに祭壇のKの写真は、若いままだった。
白っぽいスキーウェアを着ている・・・これは、みんなで斑尾に行った時の写真だろうか。
私の夫がK宛てに写真を送り、それが手紙と一緒に出てきたとおばさんが電話で言っていたが、
その中から選んだ写真なのか?・・・ちがうかな。
最後にKに会ったのは、たぶんその時になってしまうのだろう。20年以上前?
少なくとも、私が体調を崩した1999年以降は会ってない。
目の前の友人たちのように、本当はおじさん化していたはずのK。
その姿を、思い浮かべようにも私は全然知らないのだ。
こんなにも長い間、故郷の友人たちを顧みずに来てしまったんだ私は・・・そう思った。
私が数年にわたり寝たきり状態だったことも、全然知らなくてごめんと友人は言ってくれた。
良くなったら言おうと思って、言わずにいたのはこちらの方だから当たり前なんだよね。
そして・・・それはKも同じだったとおばさんが言っていた。
やっぱりそうだった。Kも元気になるつもりで、死ぬつもりなんかなかったんだ。
最近の写真も、見ることができた。
少しタレ目になってるかな、でもあまり印象が変わらない。でもおじさん。
椅子に座ってテーブルに向っているのに、片膝を立てて物を食べるK。
おじさんになっても、その癖は子供の頃のまんまだったんだねえ・・・泣きそうになった。
おばさんの話だと、Kは近所に住む親戚のおじさんのガン闘病の世話係のように立ち働き、
そして、母親であるおばさんにもガン疑いが浮上する等、神経をすり減らしていたらしかった。
身内の子ども世代でひとり故郷に残った者として、独身でもあり、便利にくるくる働いていたらしい。
いわば、親戚内支援者として、親世代の4人分の変事を1人で抱え込んだのがKだった。
親戚のおじさんが昨年の1月に亡くなり、Kは、3月ごろにはもう体調に異変を感じていたらしい。
本人は、ネット情報から血液のガン「再生不良性貧血」を疑って、そう思い込んでいたとか。
その方面に詳しい病院の検査で、その可能性が否定されてからも、
Kは物がどんどん食べられなくなっていき、体重も40キロを切ったらしかった。
病院の食事がまずくて食べられないからと、ウィダーインゼリーを冷蔵庫にずらりと並べていたそうだ。
そのうち物をうまく飲み込めない嚥下障害に至り、のどに穴をあけてチューブでの栄養補給を開始。
その時点で言葉を失い、それが友人たちを遠ざける理由になったようだった。
よく喋る人間としては、喋れないのはつらかったに違いない。
「1週間前には、覚悟を決めた」とおばさんは言っていた。
支援者としてのバーンアウトだったのかな、と思ったりする。
今さら、理由を探ってもどうしようもない。
こんな事態にKが陥っても何の役にも立てない場所にいた私が、何を言えるというのだろう。
みんな、Kに何とか食べさせようとしていた。
飲み込む機能がそんなに簡単に失われることなど、Kも考えもしなかっただろう。
それが、急速な筋力低下を招くことなど、少しも思いもしなかっただろう。
ごぶさたしていたKのおじさんとおばさんは、以前と変わらず優しそうに微笑んでいた。
居並ぶ私たちを見て、涙ぐんだおばさん。
お邪魔する前の電話では、私と話して気が楽になったと言ってくれた。
またお邪魔させてもらおう。