黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

人はなぜ被害者を責めるのか

 日本心理学会のホームページに、「心理学ミュージアム」というものが設けられていると最近になって気づいた。見てみると、2015年7月13日付で追加された作品の中に興味深いものがある。タイトルは「人はなぜ被害者を責めるのか?」だ。(http://psychmuseum.jp/just_world/

 サブタイトルには、「公正世界仮説がもたらすもの」とある。

 そこに示されている研究結果から導かれるもの&自分なりの解釈をざっくり書かせていただくと、多くの人は、安定や秩序ある世界であってほしいとの理想がある。正義が勝ち、良いことは良い人に起こり、悪いことは悪い人に起こるものだと信じたい。そこは、時代劇の「水戸黄門」や、最近のヒットドラマ「花咲舞が黙ってない」が示すような、勧善懲悪アクションがちゃんと開始40分後くらいに担保されているような世界だ。それを「公正世界(the just world)」と言う。

 その「公正世界」を信じるメリットは、心の安定が得られること。自分の住んでいる世界が正義に満ちて安全だと信じられることで、安心して生活できるからだろう。

 他方、デメリットは・・理不尽な事件が起きたとき、その人の心の中に描いた安定した正義のある世界では、善良な市民に不幸な事件が起きるなどは「あり得ないこと」になり、「世界は公正なんだ、正義にかなっているんだ」と信じようとする余り、被害者を不当に非難してしまうことがある点だ。

 「被害者が暗い道を歩いていたからでは」「短いスカートをはいていたからでは」等々、「心無い言葉」が被害者に向かって浴びせられ、それが二次被害になる例は良く知られている。責められるべきは犯罪を行った加害者なのに・・という状況でも、だ。被害者は、落ち度を探し回られた挙句に「自己責任」なんて言われ方もすることになる。

 現実はどうだろう。正義が常に勝ち、良いことは良い人に起き、悪いことは悪い人に起きる・・なんてことには、なっていない。むしろ、人間への広報効果を狙った神様に選ばれているかのように、私の周りでは良い人から順に天に召されている始末。逆の「憎まれっ子世に憚る」の世界に見える。

 詩人のまど・みちおさんの詩に「れんしゅう」という作品があった。とりかえしのつかない「死」という大事が毎日繰り返されるのは、人が自分自身の死を迎える日に慌てふためかないように、やさしい天が練習を続けてくれている・・という内容だ。その死が善人に起きれば起きるほど、社会の他の人間への練習効果は大きいということだ。

 そういった現実をないがしろにして、公正世界を夢想しつつ「落ち度があった被害者が悪い」と責めれば、その人の心は一時安定するかもしれないが、被害者が傷つくだけで、世界も公正さから遠ざかる。落ち度のないパーフェクトな人間など存在しないのだし、むしろ、被害者が不当に打ち捨てられるなら、それは公正な世界とは言えないからだ。

 それなのに・・公正世界信者は珍しくない。例えば、昨日見た報道では、亡くなった被害者について知人が「まったくトラブルに巻き込まれるような人ではなかった」「とても友好的だった。こんな方法で殺される理由はない」とコメントしていた。悪気のないコメントだ。でも、ここであえて行間を意地悪く読むと、「トラブルに巻き込まれるような人がトラブルに巻き込まれ」「その人に殺される理由があって殺される」と解釈できてしまう。

 そうじゃないのに。事件の「なぜ」の答えを求めたくなるのだろうが、その先は被害者じゃないよ。加害者だけが犯罪を実行しようと決意でき、漫然と過失を放置できるのだ。

 そして、残念ながら私たちが住む社会には犯罪者が一定の割合で存在し、その社会の歪みを代表して被っているのが被害者だ。だから、人は「その被害者が自分だったかもしれない」と考える方が真実に近いのではないか。いつも書いていることだが。

 だから、支え合うのはお互い様だ。

 郵便不正事件で逮捕され、無罪確定後に厚生労働次官を務めていた村木厚子さん(冤罪の被害者)が今月1日に退任したが、その際の記者会見でこう言ったそうだ。「誰でも突然、支えが必要になると実感した」「ある日突然、拘置所の中で裁判を闘うためにプロの助けが必要になった。自分は支える側にいると思っていたが、間違った優越感だった」(2015年10月2日読売新聞)

 さすがに村木さん、勘違いにお気づきだ。それを率直に会見で言える人間でもある。そう、おっしゃる通り「支える側にいると思うのは間違った優越感」だろう。いつ誰が被害者になってもおかしくないし、それを選べず突然被害者になるのが現実なのに、自分だけいつまでも「支える側」にいて安穏としていられるわけがないのだ。

 そして、たまたま支える側に「その時」いたとしても、それが偉いわけでも何でもない。表彰される類のものではないだろう。

 以前書いた「ランキングさん」等の話が絡む要素もあるが、ここでも背景には「公正世界」信仰があったように思う。「公正世界で真っ当に生きている自分に限って、被害者などになるわけがない→支えが必要になるわけがない」と信じていたから生まれた「優越感」だったのだろう。

 この被害者を下に見る目線の気持ち悪さ・・下に見ているのは自分自身でもあるというのに、それに気づかず胸を反らしている人も、支援者の中にたまにいる。

 そういえば、「tomosukeさん、なぜ被害者へのボランティアなんかしているのですか」と、にっこり笑って聞いた官僚がいたなあ・・当時、質問の真意を量りかねたが、その人は、被害者支援に関わりながらも自分は支える側にだけ立っていると信じるが故の発言だったのか。反対に、毎朝不安になって子どもを抱きしめたくなり、なかなか出勤できないとこぼす弁護士さんもいた。被害者への共感力が高い弁護士さんだと思う。

 日々社会で起こる犯罪。それが同じ社会に生きる自分に関わりがあると気づけない人間にはなりたくないし、助け合いの気持ちを忘れないようにしたい。