黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

「深く理解してくれる人しか認めない」ではみんなが逃げる

 時間がないときに限って書きたくなる変な奴です、ハイ。

 為末大さんの、障害者問題でのしばらく前の発言に関するJ-castニュースの記事が、なぜだかまた復活して配信されているようだ。(為末大が障害者問題で指摘した「ヒステリックな正義の人」って誰だ? http://www.j-cast.com/2015/05/21235797.html)前も読んだような気がするが、また気になってしまった。

 ここで言う誰って・・支援者のことなんですね。わかるな~わかる!とはいえ、そう言う私も被害者支援にまったく無縁の友人知人にはウザく見えているはず。ここでこんなことを書いているのが、既にもう極まってる感じもするし。当然、他山の石だ。

 しかし、為末氏の発言で強く同意したいのは、この点・・「深く理解してくれる人しか認めない」では先に進めない・・ここだ。

 いや私、ちょっとテーゲーなもので・・こんなこと言ってちゃいけませんかね? でも、あまりにも自分の信じる方法論に縛られていたりとかね・・引いてしまいます。

 以前、ある研修のロールプレイで、電話相談のつもりでロールプレイの話に入ったら、相手役のベテランさんに「面接相談のイントロの手順ができていない、ああそう、できないのねあなた」みたいに、こちらにはお構いなしに一刀両断され、閉口した。

 ロールプレイには決められた設定があったけれど、イントロについては何もなかった。プレイヤーの自由だったはず。「むしろ、この類の話はいきなり面接相談じゃなくて、まずは電話じゃないのかな~」と思ったけれど、黙った。

 また、ある飲み会で。勝手に話を曲解して怒り始めた支援者の方を前に、あ~あと沈黙・・どうしても、そういった解釈しかないと思い込んでるのか・・でもそれじゃその先の問題点の話もできないし、打開策は見つからないと思うけど。

 この方は、ある会議でも激高し、泣かんばかりに長時間の演説を始め、出席者を沈黙させたと聞いた。「支援者じゃなく被害者なのかと思ってました」とその会議の同席者から聞いたことがある。いえいえ、被害者は結構冷静なんですよ。

 とにかく・・物事には傾向があるにしても、人もケースも千差万別なのだから、あまりキチキチ何事も支援する側が決めすぎるのもどうかと思う。それだけではない。被害者像であるとか、被害者がどう考え感じるかとか、「被害者」というたった1人の人格がいるわけじゃなく、人それぞれ。それなのに・・自分の方法論に酔いすぎてはいけないよねと思う。泥酔では何も見えない。

 私も不勉強を自覚しつつ書いているつもりだし、チャンスを見つけて様々なところで支援の勉強を続けさせていただいているけれど、基本的に、社会のできるだけ多くの人たちが被害者を支えるのが理想的だとすると、あんまり支援のハードルを上げすぎても被害者のためにならないのではないだろうか。

 例えば精神面のサポートにしても、精神医療やプロのメンタルケアの良さもあるし、被害者仲間での問題の共有や、社会の仲間として寄り添うサポート方法の良さもあるはず。必要に応じて色んなサポートの形が存在することは被害者のためには大事だろう。

 もちろん二次被害を与えないよう気を付ける最低限の知識は必要だけれど、あまりに厳しいことを言い続ければ、素人は被害者を遠巻きに避け、逃げて行くことは想像に難くない。事件後、スーパーで会った知人が遠巻きに逃げていくのが一番つらかった、と何人かの被害者は言っていた。

 ちょうど先日、信頼する支援者の友人とも話したばかりだが、目指すゴールは同じはず。「被害者を支えたい」と、社会のみんながそう思えたら。だから、コレはダメ、アレもダメではなく、コレはこの点が良いよね、アレはあの点が使えるよね、と色んなサポート体制を共存させたいものだ。

 1つですべてをカバーする完璧なものは人類と同じで存在しないだろう。「帯に短しタスキに長し」かもしれないが、それでも選択肢は多く、理解しようとする人間が多い方が社会全体にも波及するから、この点だけは良いに決まってると言い切りたい。

 「深く理解してくれる人しか認めない」・・こんな支援者側の、排他的で独善的な考え方を、当の被害者が喜ぶとは思えない。