蝶よ花よクロスケよ
7月31日に手術をしてもらい、1週間後の8月7日に何とか退院を迎えた訳だが、親バカとしては当然ながら入院中は毎日、息子クロスケの顔を見に行った。煮だした紅豆杉茶も届けねばならない。
術後初日、8月1日の息子は、朝方はぐったりしていたらしいが、家族と面会に行った時にはICUの中で体を起こして座っていた。入院以来の手術着をそのまま着て、首にはよだれかけ代わりにペットシーツを巻いたエリザベスカラーをはめている。出されていたチュールを食べた様子はなかったが、首脇から食道に入れてあるカテーテルから流動食を与えているとのことだった。
入院以来、消炎鎮痛剤オンシオールを毎日注射してくださっているので痛みは多少コントロールされているはずだったが、下顎半分を失った手術の翌日だけあって、さすがに違和感があるのではなかろうか。息子は不機嫌そうだった。
顎半分を失ったら、人間ならば鏡を見て将来を不安に思ったり自己を憐れんだりして嘆きそうなものだが、猫はそんなことはないのだと執刀した専門医が言っていた。猫は、与えられた現実に対処しようと努めるだけらしい。すごいなぁ。どこまでもリアリストなのか。
リアリストだとしても、いつも使っていた顎半分が無いのだ。手で触れないから確認できないわけだが、不思議だろうし不快だろう。
息子の体温が平熱の38度になっていたのは喜ばしかったものの、また血液検査の結果は貧血に傾いており、涙目で鼻水や口からの分泌液もあった。まだ抱っこできないのが寂しいが、持参したペット用ウェットティッシュでぐしょぐしょの顔をていねいに拭いた。「よく頑張ったね」などと話しかけていると、息子はゴロゴロと喉を鳴らして応えた。
息子にとって、家族の中で順位が最下位らしい私に喉を鳴らすなど、日頃は滅多にない。余程つらかったのだろう。顔が濡れてきれいじゃないのもプライドが許さないよね。でも、生きてくれている。本当によく頑張ってくれた。
不機嫌な息子は、しかし、話によると反抗する元気はあるという。そうか、涙目で不機嫌なのは反抗の痕だったのか…。胸が痛い。
面倒を見てくださっている獣医さんや看護師さんたちに対して、あまり反抗はしないでもらいたかったが、本人(猫)は訳もわからず必死のはずだ。かわいそうなんだけれど、ご迷惑になるし、何より本人の体力の無駄遣いになる。だから、ちょっとは他の猫ちゃんたちのように大人しく治療を受け入れて…とはならないのが、殊のほか意思のしっかりしたうちのクロスケなのだった。
実のところ、過去の他の獣医での入院手術時のトラウマがあって相当ビビりなだけなのだが、「暴れん坊将軍」扱いだったので、当初は術前の入院さえも難しそうな反応が獣医さんから返ってきていた。
その点は、息子命の親バカながら、無理もない…と思わざるを得ない。本人も消耗するので、できるだけ手術前の入院はさせずにいたかったが、今回は状況が差し迫ってしまったから選択の余地はなかった。
術後6日目の退院前日のこと。面会時、おむつを交換してくださっていたのだが、部屋に入っていって見かけた息子の恐慌状態はひどかった。とにかくアップセットして牙をむいていた。プロの看護師さんたちも、緊張して身構えていた。
かわいそうに、相当怖いんだね。これではもう家に帰った方が良いね、明日は退院だから、大丈夫だよ…と話しかけて撫でて落ち着かせた。そこまで反抗できるほど、体力が戻ったということもあるんだろう。
考えてみると、術後2日目には看護師さんにお尻を洗ってもらって気持ちが良かったのか尻尾をパタパタ、おむつをさせられても従順にご機嫌そうだった。その日は酸素ルームの中で薬も効いているのかとにかくよく寝ていたので、15分ほどで退散したのだった。この頃は、まだ反抗する体力もなかったのだろう。
やはり、箱入り息子の世間知らずだからなぁ…。人間型の息子だったら、社会で生きていけるよう、人様にご迷惑をかけないように一人前の人間に育てなければならない責任が親にもある。
しかし、うちの息子は猫型だ。溺愛の限りを尽くして甘えさせるだけ甘えさせても人様のご迷惑にはならないよね!と信じて、「蝶よ花よクロスケよ」といった育て方を18歳に至る今までしてきてしまった。
しっかり、ご迷惑になってしまった・・・。
私は完全なる下僕。入院という事態に至り、久しぶりにいきなり出現した「下僕抜きでの社会」との接点に戸惑う息子、だったのだろう。