黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

園田監督と内柴被告…あの2人、重症だ

 柔道女子のトップ選手15人に暴力行為を告発された園田隆二・全日本女子監督と、未成年の教え子への準強姦罪により求刑通りの実刑5年の判決を受けて即日控訴したという五輪金メダリスト内柴正人被告。ふたりは、多くの一般人が別れを告げた古い常識で未だ日本柔道界が動いている事実を示したような気がする。
 
 ま、確かに自らのコミュニケーション能力が劣るのを隠すかのように、威圧的に強面で振る舞う大物政治家もまだまだ存在するから、「多くが別れを告げた」とは、日本社会ではなっていないのかもしれない。
 
 けれど、徐々に世間が「古い」と感じるようになっていた暴力と恐怖で選手を支配する手法の中に、柔道界に生きてきた2人は、どっぷり嵌まり込んだままで、疑問も感じずに生きてきたんだということは、今回よく分かった。
 
 その古い常識をしっかり支えていたのは何かと言うと…「無駄に頑丈な上下関係」だと思う。それから「沈黙は金」という価値観もおまけに付くだろう。
 
 2つが合わさると最強だ。上下関係によって何でも悪いのは下になるから、「上の考えを分からない下の方が悪い」とする見方につながるし、沈黙でいることが賞賛される社会では、口下手が許される上の人間は、自分のコミュニケーション能力の良し悪しを自ら問うこともなく、簡単に「分かりの悪い」下の人間に暴力をふるうことにつながるのではないか・・・と考える。
 
 そんな不条理な上下関係に嵌まり込むと、下が黙らされているのをいいことに、上に都合の良い「変な理解」がまかり通る。
 
 思い出したのは、「支那の夜」という戦中に作られた映画だ。長谷川一夫李香蘭山口淑子)が出演していた。劇中で、長谷川一夫に頬を叩かれて、それで相手を慕うようになるという李香蘭の演じた中国娘について、中国では「中国の女性は暴力を振るわれて好きになることなんかない」との反発が大きかったと、中国にいた時に聞いた。
 
 「叩かれて好きになるメンタリティを日本人の女性は持っているの?」と聞かれ、当時、留学生だった私は「普通はそうじゃないと思うんだけど…何でそんな映画が作られたのかな…」とはっきりと答えられなかった。
 
 今なら「それはフィクション。映画を作った当時の男の側の都合のいい幻想、願望の姿だよ」と答えると思う。「叩かれる側の日本女性には、選挙権もなかった時代。だからこんな虚像が独り歩きしても、誰も言い返せないどころか迎合することしか言えなかったんじゃないの?まったくふざけた話だよね」と言いたいところだ。
 
 時代も変わり、イヤよイヤよも好きのうちとか、叩かれて愛が通じると未だに信じている日本男性はもういないと信じたかったのだが、そうではないらしい(それはそうだ、まだその路線でのフィクションがたくさん作り続けられているように見えるし)。園田監督もそうで、彼は選手に告発された暴力行為自体の存在は認めても、それが「暴力」とは認識できていなかったという。記者会見の姿を見る限り、今でもそうなのか?気持ちが込められていれば同じ行為でも意味が変わり、「愛の鞭」「熱心な指導」と美しく受け止めてもらえると、本当に信じているのだったら怖い。
 
 言うまでもなく、どこまで行っても暴力行為は暴力だ。なぜそんな馬鹿な都合のいい意味づけが彼の中で出来上がってしまったかと言えば、上下関係の中で上が絶対、下は黙って命令に従うという環境にずっと身を置いて来たからこそだろう。下の人間が本来は正しくても、その声は常に抹殺される運命だから、下の声は存在しないも等しい。
 
 園田監督だけじゃない。彼の周りでも下の声の存在を忘れていたらしいことは、告発した選手への聞き取りが満足に全日本柔道連盟によって行われていなかったことが示している。
 
 そして、内柴被告も、園田監督と同じだ。行為自体の存在は認めても下がどう考えるかなんか気にもしなかったんだろう。相手が合意だったと今でも本当に信じているらしいから、こちらも重症だ。
 
 「奥さんがいるのにいいんですか」と被害を受けた学生は言ったらしい。その言葉を、内柴被告側は「じらされた」言葉として、合意の裏付けとして裁判の中で挙げていたように報道で見たが、そんな自分勝手な解釈があるものか?とびっくりだ。下の人間としてはっきりNOが言いにくいから、その代わりに言った精一杯の抵抗の言葉にしか聞こえない。内柴被告がその言葉を聞いて、自ら「そうだな、やばいな」と考えを変えることを期待して口にしたに決まってるじゃないか。
 
 内柴被告の被害者の学生の場合、師弟関係という重しが加わったのだから、かなりキツイ状態だっただろう。自分が打ち込んできた、柔道における未来を捨てることにもなるかも…とも思っただろう。ここまで我慢してきたのに、と。
 
 いつもいつも命令される側で我慢させられ、イエスとしか言うことを許されない立場の人間は、いざという時にもNOなんて言えない。それはその立場を厳しい上下関係で経験しないと分からないことだと、ある被害者が言っていた。同じような言葉は、DV問題に取り組んできた他の支援者も言っていた。
 
 「ただでさえ日本で女に生まれると、自分が我慢しなさいとか譲りなさいとか、おとなしくしていなさいとか人に迷惑を掛けないように波風を立てないようにしなさいとか、小さい頃から事あるごとにそういう我慢の教育を受けて育つことがまだ多いと思う。それでいざというときにNOなんか口にできるだろうか。『なぜイヤと言わなかったのか』とか、それはイヤと言える環境、立場にいつもいる人間の言うことだ」といったことを、その支援者は言っていた。
 
 譲られている側の人間は、譲っている人間の本音には気づきにくいだろう。いや、余程の人格者じゃないと気づかないのかも。
 
 園田監督も内柴被告も、柔道界という堅固な上下関係に身を置いて来て、必要がなかったから、下の声の存在をきれいに忘れちゃったんだろうか。ふたりは、早くに「下の立場」から抜け出ただろうし。五輪2連覇なんかしてしまった内柴被告は特に、また、園田監督も、一番手ではなかったけれどもかなりの戦績を収めていたエリートではあったようだから。
 
 そうそう、谷亮子議員が体罰を受けた経験がないと言っていたのも、「それはそうでしょう、あなたは特別な存在だったでしょうから」と言いたい。暴力をふるう人間は、相手を選ぶのが普通だ。絶対にやり返されない相手、自分の立場が不利にならない相手にしかそんなことはしない。
 
 陸上選手だった為末大氏が、選手も指導者も「フラット」で話すことから始めないと、と指摘していた。もう、スポーツは師弟関係とか、上下関係で語る時代じゃない。選手が監督の絶対的支配下にあるような関係は、やめないといけない。
 
 しかし、年若い女の子アイドルが坊主頭になるところを見ると、どうもなんだか個人に対する支配形態が歪んでいて、しかもそれが強固で怖い国だなあ、日本って・・・と外国人には既に見えちゃっているだろう。大丈夫かなあ、東京の五輪招致。