黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

死刑執行阻止のための出頭か

新年を迎えて、オウム真理教信者の逃亡犯がひとり大晦日に警察に出頭したとのニュースを聞いた。区切りがついたから・・・等と出頭理由を話しているそうだが、一連のオウム裁判が終結したことと、2011年は1件も国内で死刑執行がなかったことについて年末に報道があったばかりだったので、「教祖や仲間の死刑執行を阻止するために出頭してきたんだな」と私は大いに勘ぐっている。
 
共犯者が裁判中の場合は、先に死刑が確定した死刑囚の刑を執行してしまうと残った共犯者の犯罪に対しての証言がその死刑囚から得られなくなってしまう不都合があるので、立証のために死刑は執行されないのだと聞いたが(他にも理由があるのかもしれないが)、この人物がこれから裁判を受けることを考えると、死刑執行を待つばかりだったオウムの確定死刑囚たちは命を長らえることになるのではないだろうか。
 
反対に、ただでさえ長い長い裁判に苦しめられてきた被害者や遺族の心は、この出頭によって大きく波打つことになってしまうのだろうと思う。気の毒だ。
 
こぎれいな恰好をして金銭も所持していたというから、支援者がかくまっていたのだろうと思う。おそらくは同じ信者仲間か。死刑執行に直面している教祖を救うために、スケープゴートとして仲間に言いくるめられて出頭に至ったのかもしれない。また裁判が終われば、あとふたり逃亡しているはずだから、ひとりずつ出頭してくる手筈になっているのかも・・・この勘ぐりが当たっているとしたら、卑怯千万だ。
 
年末、ちょうど死刑制度について多少ネットサーフィンをしたばかりだった。前述のように昨年は国内での死刑執行がなかったとの報道があり、刑事訴訟法では6カ月以内の執行と決まっているのに・・・と悔しく思う被害者遺族の声が新聞にも掲載されていたことから、以前から気になっていた関連サイトをちょこちょこと見てみた。
 
白状すれば、以前は良く知らずに「国際的な風潮からすれば死刑制度の廃止は逆らえない流れなのではないか」ぐらいに考えていた。「罪を憎んで人を憎まず」といった理想主義的な考え方も当たり前のように語られていたし、人間はそういった境地に到達できるものなのか?そうあるべきなのか?・・・と若いころは考えていた。
 
しかし、それは単なる被害者の現実を知らない人間のたわごとだったと、今は考えている。きれいごとだった。ただでさえ愛する肉親を殺されて魂をつぶされんばかりの思いに苦しんでいる立場の家族が、どうして自らの気持ちを押し殺し、さらにまた苦しんでそんな境地に到達する努力を強いられねばならないのか?そんなのは不公平でおかしいし、それを社会が被害者側に求めるとしたら、ふつうの人間が住むにはあまりに息苦しい、美化された絵空事の社会ではないかと思う。
 
(もちろん、努力を強いられたりすることもなく、社会に求められるのではなしに、自ら進んでそのように考える被害者の方もいるかもしれない。被害者も人それぞれなのだから、私ごときがそういった被害者の方を否定するものではないのは当然だ。)
 
民主党政権になってから少し経ち、死刑が行われる刑場が報道関係者などに公開もされたので、写真を見たり映像を見た人も多いだろう。死刑がどのような刑なのかが報道され、一般にも広く知られることで、死刑制度を存置する意見が多い世論を廃止の方向に動かしたかったのだろうとは思う。
 
が、どんなに「死刑ってひどいでしょう?」と言われても、もっと残酷な方法で加害者に殺された被害者のことを考えると「比べてみるとそれほどでない」とやはり思ってしまう。
 
それに、加害者は国の費用で医療にもかかれるし、寝る場所にも食事にも困らない。生き延びた被害者や遺族が、その日から生活に困ったり、金銭がなく病院にも行けなかったり、莫大な治療費を請求されたりする現実に直面するのとは大違いだ。
 
以前、法務省に招かれて刑場を見学したあるご遺族が、執行前には教誨師のありがたいお話を聞き、執行直後にはすぐに棺桶にきれいに入れてもらえてお坊様にはお経も上げてもらえる死刑囚の環境と、自身のご子息が殺害されて3日間も寒空の下、地面に転がされたままになっていた状況とを比較して「どっちが残酷なのか」と職員に迫ったという話を聞いた。もちろん、誰も何も言えなかったそうだ。
 
警察による検視の際も、被害者の遺体の扱いについては配慮が万全にされているとは言い難いのに・・・20年ぐらい前には、警察署裏の駐車スペース等のほぼ屋外で、地べたにブルーシート上で検視されるのが当たり前であり、その被害者の尊厳を大きく損なう扱いを見てしまってかなり傷ついた遺族がいたものだが、いまだに警察庁には内規が無く、検視場所は全国的には満足に整備されていない場所もあるのだという(霊安室が整備されてそこで行う県警もあるが)。
 
現場では遺体を「またがないように」という風に教えているとも言うが・・・それって最低のことであって、この検視場所と比較しても、死刑囚のために整えられた刑場の環境に遺族がかみつきたくなる気持ちが分かる。
 
被疑者や被告人、受刑者の権利保障と刑罰の人道化の流れは、強大な国家権力に対して泣かされてきた市民の視点からすれば大きな業績だ。国連被拘禁者処遇最低基準規則が採択されたのが1955年、そして被害者について国連被害者人権宣言が採択されたのは、遅れること30年の1985年だった。
 
だから、残念ながら、世界的な死刑廃止の風潮というのは、被害者について理解が深まる前の30年間に、人道主義の流れに乗って確立していってしまったのではないかと個人的には思ったりもする。
 
遅れて被害者について理解がされるようになってきても、死刑制度については耳に心地良く語るに快い人道的な言葉に押されてしまってきているのだろうなあ・・・。1920年に米国で施行された禁酒法という法律があったが、それと同じ、現実を見ずに理想の美しさだけに囚われているにおいがする。
 
理想を具現化した禁酒法が、逆に酒をめぐってマフィアの暗躍を許し、犯罪を増加させて10年あまりで廃止されたことは周知の通りだ。
 
「現実に家族が殺されてみれば、(死刑廃止など)そんなことは言っていられない」とはよく聞く言葉だ。不倶戴天、ともに天をいただかずの気持ちになるのは容易に想像ができる。この犯人が生きている1分1秒は、死んだ家族の生きたかった未来だと思えば・・・私も、当然許せないだろうと思う。