黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

裁判員に期待したいプロの意識の修正

 金環日食のあった21日朝、日本のこんなに広範囲で日食が見られるのは平安時代以来932年ぶりだということで、朝から大々的にテレビ中継が行われていた。こんな日に制度開始からちょうど3年を迎えてしまった裁判員制度は、なんて運がないのか…と「金環食」という言葉だらけの新聞テレビ欄を見ながら思ったが、ひっくり返した一面、そして社会面、特集面と裁判員制度関係の記事が掲載されていた。ちょっとホッとした。
 
 裁判員制度は、3年で制度の見直しがされることになっている。だから、新聞も21日を待たず、先週あたりにはもう裁判員制度に関する連載を掲載していた。こういった報道の下敷きになる公的な統計データも、最高裁などから出されている。統計関係は苦手の私が何か書いても墓穴を掘るだけのような気もするが、法務省のHPなどネットで簡単に見られるので、先週からの報道でも気になった資料を見てみた。
 
 最高裁の「特別資料2(量刑分布)」では、平成20年(2008年)4月1日から同24年(2012年)3月31日までの第1審判決宣告分のうち、8つの罪名について、裁判員制度施行前に起訴されて裁判官裁判で判決があった2757人と、制度施行後で裁判員裁判で判決があった2884人を比較しており、裁判員制度開始によってどう量刑分布が変化したのかが分かる。裁判官裁判で被告人に言い渡された実刑期間と、裁判員裁判でのそれが、同じ罪名の場合は同じグラフの中で比較できるように折れ線グラフになっている。
 
 特別資料に表れている8罪のなかで、殺人未遂、傷害致死、強姦致傷、強制わいせつ致傷、強盗致傷の5罪は、裁判員裁判では「実刑の分布のピークがワンランク重くなった」と新聞では報道されていた。制度開始によって、この5罪では重罰化が進む傾向があったということだろう。
 
<「殺人未遂」では両極化?>
 
 しかし、資料の「殺人未遂」のグラフを見てみると、裁判員裁判での実際のピークは、執行猶予を含む「懲役3年以下」が3割を超えており、これが一番多い。裁判官裁判の「懲役3年以下」ではほぼ3割だから、プロの値を超えている。となると、「裁判員によって重罰化」と言えるのだろうか。むしろ、加害者に対して寛大な判断が裁判員によってなされていることも、注目すべきかもしれない。
 
 ただ、裁判員裁判での次のピークは「懲役7年以下」で2割を少し超えるぐらい。裁判官裁判では2つ目のピークが「懲役5年以下」で25%程度だから、2つ目のピークについて言えば、報道にあるように重罰化の傾向を示したということなのだろう。
 
 殺人未遂の場合、「死ななかったんだから良かったじゃないか、ハイおしまい」では済まされず、被害者には大きなダメージが残るケースがあるように思う。表面に見える身体上の傷だけではなく、精神的にもPTSD等に苦しむことになる。以前と同じようには働けなかったり、引っ越しを余儀なくされるとしたら、経済上の損失も大きいものがあるだろう。そこに、プロだけの裁判での量刑が示すように、5年で加害者が出所してくるとしたらどうだろうか…と考えた。
 
 きっと、順調に回復の道を歩んでいる場合でも、5年では被害者はようやく立ち直りつつある…といった程度だろう。そこに加害者が出所してくるのだ。被害者は「今度こそ殺される」と恐怖感に襲われ、また身の置き所なく苦しむことになるのは想像に難くない。
 
 それが5年が7年になったって、たった2年の差では大した差とは言えず、被害者の苦しみは変わらないとも言えるかもしれない。しかし、裁判員裁判の評議においては最低1人の裁判官の賛同は必要なわけだから、プロを巻き込んでのそんなにドラスティックな変化は望めるべくもない。そう考えると、ワンランクと言えど、大きな進歩にも見える。
 
<被害者には、傷害致死と殺人は同じ>
 
  「傷害致死」のグラフを見ると、裁判官裁判の量刑ピークは突出して「懲役5年以下」に集中している。なんとほぼ4割だ。プロの間では「傷害致死なら懲役5年」というパターンが出来上がっているのだろう。一方、裁判員の折れ線グラフの方は、ピークが「懲役7年以下」で3割近いが、5年以下がほぼ2割、9年以下も2割近くと幅がある。裁判官裁判の折れ線グラフで描かれた険しい山を、重罰化の方向に蹴り崩したらこんな形になるのかな…と裁判員裁判のグラフを見て思った。
 
 そして、プロの量刑グラフは「懲役17年以下」の1人を最後に重罰方向では0人が続き、グラフの稜線も平坦に続くばかりなのに、裁判員裁判の方は「懲役23年以下」のところに、ひょいっと持ち上がった小山というか、丘が出現する。裁判員は3人に懲役23年以下、そして1人に25年以下の判決を下していた。懲役23~25年以下と言えば、「殺人」のケースとしても、重い量刑の範疇に入るだろう。
 
 もう15年以上も前に起きた、加害者が「手が滑らないよう、包丁の柄をタオルで巻いて準備しておいてから刺した」事件では、起訴も判決も傷害致死だったと聞いた。「殺意はなかった」と言われても、遺族が納得できるわけがない。被害者参加制度もない頃で、検察官と会ったこともなく、公判日程も知らされず、自分で調べて途中から傍聴に行った遺族は、傍聴席でただただ悔しさに耐えるしかなかった。
 
 殺人と傷害致死とでは、被害者遺族にとっては最愛の家族の命を故意の暴力によって奪われた点では区別がない。それなのに、「殺意」といった加害者の意識ひとつをことさらに重視して罪名の上では区別があり、量刑にも差が付けられてきた。身内が傷害致死で殺された被害者からすると、大いに違和感のある話だろう。
 
 だが、裁判員は「殺意」には必ずしもこだわらず、罪名が傷害致死であろうと犯罪の実際の状況が悪質なものには殺人並みの重い量刑の言い渡しをいとわない傾向があるのかもしれない。折れ線グラフを眺めていてそう思った。この傾向は、被害者の肩を持つ人間からすると歓迎したい。
 
<性犯罪での重罰化傾向>
 
 性犯罪で裁判員裁判の対象となる2罪、「強姦致傷」と「強制わいせつ致傷」のグラフを並べて眺めても、上記のように裁判員は裁判官の量刑パターンに引きずられず、実情をよく見ようとしているのではないかとの印象を持った。
 
 刑法の規定上の区別もあり、プロは強姦の既遂か否かを気にせざるを得ない。しかし、被害者にすれば、本人の中では強姦だろうが強制わいせつだろうが、とにかく襲われたショックやダメージで一杯の場合が多い。それでも、事情聴取で「既遂なのか」としつこく聞かれ、恥ずかしく辛い思いをしたとの話は枚挙にいとまがない。恥ずかしいから「いいえ」と答えてしまったという話も聞く。もし、それがそのままだとすると、強姦未遂という道もあるだろうが、強制わいせつと区分されてしまう可能性もあるだろう。それに、本来的に強制わいせつであっても、男児が襲われる場合など、強姦並みにダメージが大きく悪質なケースは存在する。
 
  「強制わいせつ致傷」の量刑分布の折れ線グラフを見ると、プロの場合は執行猶予を含む「懲役3年以下」が45%近くと、非常に高い量刑の集中を示しており、そこからは崖を落下するように分布は減っている。裁判員裁判の方は、やはり一番多いのは「懲役3年以下」とプロと同じではあるものの、「懲役5年以下」の目盛には3割近いはっきりした山が再度表れており、そこがプロの分布とは違う。
 
 興味深いことに、「強姦致傷」のグラフでは、プロの裁判官裁判の量刑分布のピークが「懲役5年以下」にある。35%を超えており、これも集中していると言えるだろう。
 
 つまり、プロの中では「強制わいせつ致傷」に対しては執行猶予を含む懲役3年以下、「強姦致傷」に対しては懲役5年以下の量刑がパターン化されている。他方、裁判員は「強制わいせつ致傷」には5年、「強姦致傷」には7年がピークとなっているので、確かに性犯罪では裁判員制度開始によって重罰化の傾向がある。
 
裁判員が目を向けた、人間としての被害者>
 
 その、重罰化はなぜかと考える。裁判員は、殺人の場合の「殺意」と同様、「強姦の既遂」といったプロが囚われてきた部分に囚われず、「被害者のダメージ」といった点にも力点を置いて性犯罪の量刑を決めているのではないだろうか。「被害者のダメージ」というものが、裁判員という市民によって個々人の「人間の苦しみ」として直視された結果が現れているのではないか…と想像する。
 
 そして、人間の苦しみとして直視する点と相まって、前述のように、個の事件として丁寧に実情を捉えようとする裁判員ならではの姿勢がある。事件を多くの中の一事件と捉え、被害者を人間でなく「証拠物」として見慣れてきただろう裁判官とは異なる点だ。
 
 従来のプロの手のみによる裁判では、被害者を「被告人を裁くための存在」としてしか見てくれなかった、被害者のためにもきちんと被告人を裁いてくれると思って苦しくても協力したのに、裏切られた――という怨嗟の声が、これまで被害者からよく聞かれた。
 
 そういえば、裁判官自身でさえ、裁判官としてでなく個人的に考えたら量刑の変化がありますか?と聞かれ、「職業を離れればもっと重い刑罰を与えたいと思う」と回答した…といった趣旨のものを何かで読んだ記憶がある。プロとしての意識というか、もしかしたら単なる法曹集団への帰属意識の結果なのかもしれないが、それが一市民としての意識に歯止めをかけているんだなあと、その時に思ったのを覚えている。
 
 こと性犯罪においては、明治時代の感覚で考えられた保護法益が現代の刑法にも改められずにそのまま生き残り、「家」主体で血統を守る上での不利益を引き起こした加害者を罰するという点を重視しているようなところがあるから、被害者個人のダメージを軽視するようなおかしなことになったのだろう。そして、法律家のプロが個人的にはおかしいと思いつつも、しがらみから脈々と踏襲してきてしまった部分を、裁判員が現代の感覚で修正してくれているような気がする。
 
 性犯罪が裁判員制度の対象事件として残るべきか否か等については、長くなるので次の機会に書きたい。しかし、それ以外の一般論で言えば、折れ線グラフを眺めていただけだが、裁判員の存在は量刑の従来パターンを打破して適正化を進展させ、結果的に被害者のためになっていくのではないかという印象を持った。被害者を「証拠」として突き放してきたプロの裁判官に対して、裁判員が「被害者を人間として見る」ことを思い出させ、プロの意識を修正していってほしいと思う。