黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

客観的証拠が被害者を守り、犯人を追いつめる

「変だと思ってたんですよ、バイバ~イって手を振っていて・・・子どもが行方不明の親のすることかって」
 
6日昼のテレビで、インタビューされた近所の匿名女性がそう話していた。昨年9月、大分県で行方不明になっていた2歳の女の子の事件の話だ。
 
母親がチャイルドシートに寝ている子を寝かせたままスーパー前に車を停め、ほんの短時間買い物に行って戻るまでの間に子が消えたとの報道が当時あった。それが、行方不明を訴えていた母親自身が、子の死体を遺棄したとして5か月後の25日に逮捕された。
 
ただ、遺棄については認めているものの、殺害については認めていないという。「帰宅したら死んでいて、気が動転して遺棄してしまった」と警察の調べに対しては供述していると、NHKなどのニュースサイトで見た(7日の報道によれば、「起床したら毛布をかぶって死んでいた」「5歳上の兄が毛布をかぶせた」などの供述が出てきているのだという)
 
父親は仕事柄、1週間単位で家を空けることも珍しくなく、また、5歳ほど上のお兄ちゃんは動き回りたい年頃で、亡くなった2歳の女の子は逆に脚の筋力が普通の子よりも弱く、いつもお母さんが抱っこして歩いていた・・・などと報道で出てきた話を聞くと、困難な育児をひとりで担っていた母親が、子の死という重大事に直面した時に、夫や周囲からひどく責められるのは避けがたいと怖くなり、保身からわが子を遺棄するなどという暴挙に出たのだろうか・・・と思ったりもする。
 
(あるいは、もしも本当に5歳上の兄が毛布をかぶせたのだとしたら・・・兄を守るための茶番劇だという見方もできるのかもしれない。)
 
当然、死体遺棄罪に問われて刑法上の責任を負うのはこの母親ということになろう。
 
だが、育児の大きな責任を普段から母親だけに背負わせがちなこの社会のありようでは、またこのような事件は繰り返され、さらなる幼い被害者が出ても少しも不思議ではない。このニュースを見て、またひとり若い日本人女子が「将来、子どもを産みたくない」と密かに決意するかもしれない。このような日々起きる事件が、若い世代の意識下に何の影響も及ぼさないと考える人はおめでたいとしか言いようがない、と私は思っている。社会が本気で育児を支える仕組みを作って母親を重荷から解放しなければ、少子化が進行するのも当たり前ではないか。
 
<被害者を息苦しくする世間の狭いイメージ>
 
脱線してしまった。軌道修正したい。そう、今回の大分事件では、私は冒頭のコメントが気になったのだ。
 
先週、ちょうど家族を事件で亡くしたご遺族の方たちに、偶然別の場所で「外ではまだどういう表情をしていいか悩む」という話を聞かされたばかりだった。私と他愛もない話をして笑った後で、彼女たちが言うには、道で会う知人が探るような眼をしてくる。いつでも悲しそうにしていないといけないのかしらと思うと、やりきれない・・・のだそうだ。
 
事件直後は見える風景の全部が悲しみで塗りつぶされている場合でも、家族は、その悲しみを抱えて日常を生きていかなければならないのだから、全方位に悲しみばかりを押し出してもいられない。悲しみの中で生活をしていくうちに、うれしいことも、心が晴れることだってボツボツとそれなりに生まれてくるものだ・・・と私は感じている。庭の花や庭先に訪れるネコなど、何気なく一生懸命生きている生命の姿に思わず微笑むこともあろう。PTSDならぬ、PTGpost-traumatic growth)という、心が引き裂かれるような重大な経験の後でも、人間は傷ついているばかりでなく成長する部分があることについて、最近は良く耳にするようになってきたと思う。
 
だから、「被害者は泣いてばかりじゃないと変」だという、ごく狭いイメージに基づいたかのような「手をバイバ~イと明るく振っていたから変」だと見るようなことはやめませんか、と言いたい。大分事件ではたまたま当たった程度の話だ。
 
当初、子の死体を遺棄した母親は「取り乱す」という一般的に知られた被害者イメージに乗っかった演技を披露していたらしいが、実際には、解離という「自分であって自分でない」状態に陥って、非常に冷静にテキパキと物事に対処してしまう被害者もいる。そういう被害者が「冷たいのね」「よく平気ね、私ならできない」などと責められたり、疑われて深く傷つく話も耳にする。
 
これまでにも書いたように、被害者の反応は様々で、十人十色だ。人間が十人十色なんだから当たり前だが。それに加え、通常の人生経験にはとても納まらないような想像を超えた経験をしている被害者その人を前に、「自分の中の被害者イメージに合わない」などと簡単に判断することが、いかに無意味なことか分かろうというものだ。そのような固定化されたイメージは、被害者を息苦しくする。
 
<流山事件の二の轍を踏まない>
 
さて、この大分事件では、発生から5か月間かかって母親の逮捕に至っている。「時間がかかり過ぎだ」とするコメンテーターもいたが、そうだろうか。大分県警が、客観的な証拠をひとつひとつ積み上げて、母親の証言との矛盾を直接母親に当てていった結果が彼女の自供に結びついたのだとしたら、どうか?客観的裏付けもなく、イメージや思い込みに惑わされて拙速で自供だけを引き出し、短期間に済ませるよりも、後の公判維持やえん罪防止の観点から遥かに望ましかったのではないかと私は思う。
 
そう思うのは、千葉県流山市で被害者の家族が誤って逮捕されたという不幸な事件がつい先月報道され、客観的証拠の大切さが再度クローズアップされたばかりだからだ。
 
19975月に発生した強盗殺人事件で、千葉県警は事件翌月の6月、被害者女性の祖母と姉夫婦の3人を逮捕していた(千葉地検21日後には処分保留で釈放、12月には嫌疑不十分で不起訴にした)。しかし、20121月になって証拠の再解析などにより真犯人が特定され逮捕となり、被害者家族の誤認逮捕についてようやく県警は謝罪するに至った。大々的な報道があったので、周知の事件だろう。
 
逮捕された義兄が読売新聞(119日付社会面)に語ったところによると「だんだん犯人にさせられた」とか。事件の早期解決のために捜査協力していた家族は、深夜に及ぶ事情聴取が2週間続いたあとで「自白」したとされてしまったのだという。身内の死を、悲しむどころではない。妹が殺され、無実の自分ばかりでなく夫まで逮捕された姉の苦しみはいかばかりか。姉妹の母も、嵐の中に放り込まれたような気持ちだったろう。
 
<被害者家族の自責感>
 
流山事件では、「自白」したのは当時80歳の祖母だったのだという。祖母は、殺された孫と同居していて悲鳴や物音に気付かなかったことが警察に不自然だと考えられてしまったそうだが、お年寄りは耳が遠く、「聞こう」と集中していないと何も聞こえていないことは一般的にもよくあることだし、眠れないからと就寝時には安定剤を飲んでいるような場合もあるかもしれない。
 
その上で、かわいい孫が自宅で殺された祖母の立場になれば「自分が気づかなかったからいけない、なぜ孫娘を助けてやれなかった」と非常に大きな自責の念に苛まれたのは想像に難くない。悲しみと絶望の混乱した精神状況の中で、自責の念でいっぱいになった被害者家族がようやく言葉を発するときに、「私が殺したようなものだ」という意味で「私が殺した」などと口走ってもまったく不思議なことではないだろう。自分が疑われているとかいないとか、保身については思いつきもしない・・・ということもあるだろう。
 
東日本大震災で多くの例が報道されていたように、家族に死なれた側は「生き残ってしまった」と自分を責める。それが客観的に見たらどうしようもないことであっても、「あのとき、声をかけたから(かけなかったから)」等々、責め続ける。自分を責める理由も、次々と探し出してしまうような話も聞く。その家族の死に関わる状況を、身近で変えられたのではないかと考えるから、それを変えられなかった自分を責めるのだろう。
 
その自責の念に基づいた混乱した発言を、15年前の千葉県警は「自白だ」と安易に飛びつき、証拠と符合しないのに逮捕したのではないか・・・と推測する。
 
プロの捜査官をして、そうだったのだとしたら。裁判員制度について見直しが現在進められているはずだが、裁判員になる市民は、審理に入る前に被害者学の講義を少しだけでも聞いて、被害者に関する知識の補填や修正をしてもらえないものだろうか。でないと被害者が偏見まみれで不利に判断されかねないし、実際にそのような例も出ている。
 
そして、捜査側があせらず客観的証拠の収集に全力投球していたら、祖母の証言との矛盾を理解して軌道修正でき、事件発生から翌月での誤認逮捕は避けられたはず。無用に被害者家族を傷つけることもなかったはずだ。
 
今回の大分事件では、母親が演じる茶番劇を突き崩せたのも、とっかかりは客観的証拠だったように思う。焦らず、証拠を集中的に集めること。これが被害者を守りもし、真犯人を追い詰めもする。流山事件で得た教訓だ。