昔、新聞記者になりたての頃、ある刑事が私にこう言った。「普通の人は、警察署なんて運転免許の書き換えの時に来るぐらい。それが、わざわざ警察署に足を運んで被害を訴えようなんていうのは余程のことに決まっているのだから、こちらも覚悟して話を聞かないとね」
また、5~6年前には、別の犯罪被害者支援に携わっている警察官がこう言った。「痴漢など性被害なんていうのは、まず眉唾。美人局を疑いながらいつも話を聞いている」
もちろん、前者の刑事には「かくあるべし」と感動した。他方、警察に不正な事柄を申し立てて喜ぶ人間がいないとも言えないことも事実だろうとは思うけれども、後者には「せめて被害者支援の現場から離れてくれ」と心の中で悪態をついた(声に出して言うべきだったが、正直、あっけに取られてしまったということもある)。
私が記者になったのは20年以上も前の話だから、既に前者のような警察官は駆逐されてしまって、後者のような警察官が当たり前になっているのか?と暗澹たる気持ちになった事件が、昨年末にあった。長崎県西海市で、娘にストーカー行為をしていた男に母親と祖母が殺された事件だ。
私が記者になったのは20年以上も前の話だから、既に前者のような警察官は駆逐されてしまって、後者のような警察官が当たり前になっているのか?と暗澹たる気持ちになった事件が、昨年末にあった。長崎県西海市で、娘にストーカー行為をしていた男に母親と祖母が殺された事件だ。
この事件について、最近「誰も助けてくれない」という5回にわたる連載を読売新聞紙上で読んだ。被害者家族の絶望感が表れているタイトルだ。ストーカー被害に遭っていた娘の父親は、千葉県に住む娘のために、はるばる長崎県から千葉県警習志野署に出向いて相談をしていた。もちろん最寄りの長崎県西海署だけでなく、加害者が住む三重県警桑名署にも相談したそうだ。
結果を見れば、この父親からの相談を「余程のこと」と感じる警察官が、この3警察署で相談に対応した警察官の中にいなかったことは確かだ。
被害者の訴え話というものは、他人が聞くと本能的に「面倒事に関わりたくない」といった自己防衛の意識が働いてしまい、知らず知らず「些細なことなのでは」と思いたくなるとの話を聞いたことがある。逆に「何もありません」と事件を否定する加害者の話というのは、面倒を避けたい他人からすれば「そうだよね」とついつい迎合して乗っかりたくなる話なのだそうだ。
被害者の訴え話というものは、他人が聞くと本能的に「面倒事に関わりたくない」といった自己防衛の意識が働いてしまい、知らず知らず「些細なことなのでは」と思いたくなるとの話を聞いたことがある。逆に「何もありません」と事件を否定する加害者の話というのは、面倒を避けたい他人からすれば「そうだよね」とついつい迎合して乗っかりたくなる話なのだそうだ。
記事によれば、千葉県警は、被害に遭っていた娘さんが当初「自分で転んだ」など男からの暴力被害を否定する発言をしたことを出足の鈍さの言い訳にしていた。どう見ても被害が疑われるものを警官が目にしていながら、周囲に聞き込みもせず、どうして動かないという判断に至ったのか?「被害者が否定している」という事実に、面倒を避けたい意識が働いて飛びついたのではないか…と疑いたくなる。
良く考えれば、被害者支援の原則でもそうだが、その時に動き出さなかったのは、あくまでも被害者の意思を尊重した結果…ということになるかもしれない。しかし、1カ月ほど後、周囲の説得で娘さんが被害届を出すことを決心しても、手が空いてないからと届を「1週間待って」と断ったというのだから、被害者の意思を尊重したとはとても言えない。
むしろ、自らの職務がどういった性質のものであるかを忘れていたとしか思えない。会議室やテニスコートの使用を申し込んだのとは訳が違うのに、被害届について、そんな軽い感覚でとらえていたのではないか?
他県警から「3県警でタライ回し」「被害届の受理を1週間待ってといったのは理解に苦しむ」など批判が相次いでいるのがせめてもの救いだ。福岡県警は、2年前の2010年に「男女間のトラブルによる傷害容疑事件などは、被害届がなくとも逮捕することがある」と福岡地検と協議の上、了承を得て積極的に立件し始めているのだというから、被害者のことを真に考えたら、被害届の受理前でもやれることはあるのだと言いたい。
他県警から「3県警でタライ回し」「被害届の受理を1週間待ってといったのは理解に苦しむ」など批判が相次いでいるのがせめてもの救いだ。福岡県警は、2年前の2010年に「男女間のトラブルによる傷害容疑事件などは、被害届がなくとも逮捕することがある」と福岡地検と協議の上、了承を得て積極的に立件し始めているのだというから、被害者のことを真に考えたら、被害届の受理前でもやれることはあるのだと言いたい。
ただ、被害者の意思を尊重する…という点は大事なことではある。しかし、その意思を尊重することにあまりにも拘泥すると、このままでは限界があるのではないか。やはり、被害者の意思がなくても、裁判所なりの判断で事件化できるよう、法改正は必要だろう。読売連載の最後の方で、常磐大学の諸澤英道教授が指摘していた。
これは「経済的暴力」と言えるのかもしれないが、最近、人々の耳目を騒がせている「事件」に、お笑い芸人でタレントでもある人物が女性占い師にマインドコントロールされ、食い物にされているらしいというものがあり、報道が盛んにされている。彼女も、コントロールされながらも「自分の意思」でこういうことになっており、何の不都合も本人的には感じていないらしいという。
こういった問題を聞くのは珍しくない。これまでにも宗教に多額の資産を喜々として巻き上げられ、家族や周囲が「目を覚ませ」と本人に訴えても、本人に被害に遭っている意識がないので・・・などという類の問題は起きていた。
この件にも共通すると思うのだが、ストーカーやDV事件に巻き込まれている被害者を救いたい側からすると、本人の意思を尊重したいのは山々でも、それがかなり厄介なものとなっているのではないのかと思う。
そもそも、自分が何かの被害に遭うだなんて思ってもいない人が世の中ほとんどだという話なのに、ストーカーやDVの場合、自分が好きだと思っていた相手から暴力を受けるようになってしまったことが、まず被害者本人は信じられない思いだろう。
また、暴力がエスカレートして恐怖を自覚しても、「逃げたらもっとひどい目に遭う」との恐怖心が強すぎて/「こんな人を選んだ自分が悪い」とあきらめてしまって/「逃げても自分など誰も助けてくれない」と思いこみ→結局逃げられない…という状況に陥るという。
かわいそうだが、犬を使って行われた海外での実験では、犬を檻に入れて出口に電流を流しておくと、犬はその出口から出ようと近づくたびに痛い思いをすることから、しばらくすると出口には電流が流れていなくても近づかなくなる。周囲からは「出口が開いているんだから自由に出ればいいのに」と見えるのに、痛い学習をさせられてあきらめ、逃げなくなってしまうそうだ。
もう、「逃げない」のでなく「逃げられない」のだ。
だから、「本人の意思を尊重する」という御旗の陰に隠れて、そんな被害者本人に「自分が逃げないのだから」とすべての責任を帰してしまうのは、酷な話だ。被害者本人からのアクションをあくまで求めていると、目の前でみすみす命が失われていくことになるのではないか。
ストーカー規正法は、相手に対する規制は「告訴」が要件だと13条の2項で言っている。刑訴法を見ると、被害者が死んでいない限り、告訴権者は通常の成人なら「被害者本人」だ。
未婚の場合はカバーしてくれないが、ストーカーと根っこは同じDV防止法を見てみても、保護命令には「被害者の申し立て」が必要だと10条1項で言っている。さらに、6条2項では配偶者からの暴力による負傷や疾病を見つけた医師などが「配偶者暴力相談支援センターや警察に通報できる」としているものの、ご丁寧にも「被害者の意思を尊重して」と言ってしまっている。
これでは、被害者が否定してしまえば、余程DV問題に理解があって加害者からの暴力のとばっちりを恐れない医師以外からは、関わりを恐れて通報も何もなされないことにならないか。
人身保護法は、被害者本人以外に「何人も請求できる」となっているが、「出口が開いているのに逃げない」と見えてしまう状態で、例えば監視されつつも買い物に出たりしていれば、「拘束されている」と裁判所は認識してくれないのではないか。
だから、マインドコントロールされて被害届が出せない人を一刻も早く救えるように、医療関係者からの通報や、警察官が認識できる状況があるなど、客観的に暴力の存在が認められたら、本人からの被害届や告訴がなくても捜査当局がガンガン動き、被害者と加害者のつながりを断ち切れるよう、法律を変えておく必要がある。
日本人には抵抗があるようだが、米国では人前で夫が妻を殴ったり、親が子を殴れば結構簡単に逮捕されるというが、それぐらいでいいのかもしれない。人前での暴力行為は、氷山の一角。人の目が届かない陰で、被害者はどれだけのことをされているかと考える想像力が、被害者のためには必要だと思うのだ。
逃げたいけど、逃げられない。被害者は、被害が深刻であればあるほど届を出せない状態に陥っている可能性がある。ことは急を要する。
その法改正を考える際に、ぜひお願いしたいのは…暴力をふるわれてうれしがっている人間がいるだなんてバーチャルな世界での話を、大真面目に信用しないでほしいということだ。そんな方向での想像力はいらない。