幽霊部員もいいところだが、一応、10年ほど前から被害者支援センターのボランティア登録をしている。その街頭キャンペーンのニュースを見た家族に言われ、ご案内をいただいていたのだったと思い立ち、最終日のギリギリにお邪魔した。
ホントに数年間の支援者研修を始め散々勉強させていただいたのに、全然貢献していない。自称、イベント担当などと言って受付などを形ばかりやって満足していたが、最近はそのイベントさえほっぽらかしでホントにゴメンナサイ状態だ。10年前はまだ喘息がコントロールできていなかったので、週に1回通うのさえ、センターの空調に当たると翌朝苦しいから通えない。裁判を傍聴すれば、当時は座り続けられず気持ち悪くなったり、咳き込んでダメ。大いに期待外れのボラだった。
そんな私だが、さすがの笑顔で迎えてくださる度量の大きいみなさん。キャンペーン中の忙しい時間に父の事故のことなど話せないだろうなと思っていたのだが、立ち話で少し、父の死にまつわるモヤモヤを聞いてもらった。
話しつつ確認したことは・・・改めて、人ができない過大な期待を、そもそもする方がいけないのだ、ということ。すぐに人の期待を裏切るポンコツの私が、人に多くを期待しちゃいけないでしょう。
誰のことかというと、母だ。
いつまでもこちらを見下して子ども扱いしたい母には、「子離れできてないからなー」と思っていたけれど、私の方こそ、1人の人間というよりも、父の妻として、母には父に対してこうあってほしい期待が根強くありすぎたということだろう。だから、言葉とは裏腹に、心でいつまでも母を許せなかったのだ。
母の態度については、姉と弟には、つらいことではあるけれど「悲嘆感情のグリーフには色々な表現があって、必ずしも好ましく家族で共有できるものばかりではない」といったことを度々伝えてきた。だから、普通には「鬼嫁の暴発」にしか見えず、こちらを凍りつかせる母の言動も、「夫を失うことが悲しすぎるから、その悲しさに耐えられないことからのグリーフ」なんだと、説明してきた。
父は分かっていただろう。「自分の妻は、自分の戒名を決めるときに人となりを説明しようと『背が高くてハンサム!』とお坊さんに叫んだくらい、カッコいい自分が大好き。だからこそ、事故後の自分の変化を受け入れられなかった」ことを。私が母を許す許さないじゃなくて、父が決めることだった。
支援センターのWさんも、「辛すぎたんですね」と母のことを言っていた。「ひとりでも、それを分かっている人が家族にいてお母さんには良かった。そうじゃないと家族はお母さんを責めて崩壊しちゃうから」とも言ってくださった。
後者についてはしかし、母は私が母の心情を理解しているとは考えてもいないだろう。むしろ、態度からは逆かも。
というのは、上記の説明は、姉弟だけでなく、自分にも言い聞かせていたところがあったのだが、そうすればするほど、私の中では黒い重しが気持ちの奥底に広がっていくような気がしていた。「父が苦しんでいるのに、父に当たる母ばかりが許されていいのか?」と思ってしまい、母と表面的に接しているのが苦しくなっていた。母は、それをヒリヒリと感じていたのではないかと思う。
父と同じく、高次脳機能障害を負った方に聞いた話では、奥の方に本当の自分が居て、「出来の悪い操り人形」になってしまった自分が表に居るような感じなのだそうだ。そして、周りの人たちの感情の流れを把握するなど情報のインプットは特に問題を感じないのだが、アウトプットで苦労があって思うように反応できない。
結果的に、その「出来の悪い操り人形」が無言で立ち尽くしている姿を、本当の奥の自分が残念に思って頭を抱えているそうなのだ。もどかしい、の一言だろう。
このようなことが事故後の父にも起きていたとすれば・・・父は、自分にぶつかってくる自分の妻を、哀れだと思って奥の方で見ていたのではないだろうか。そして四十九日を終えた今は、天から見てる。全部マルっとお見通しかな。
父が事故に遭い、亡くなったと同時に、私は母も失ったような気がしていた。悲しむ母は可逆的とは思うが壊れて、今までの母とは違う、そんな感覚があった。母のあの時の鬼嫁的悲嘆のかたちを受け入れることが、私の親離れなのかもしれない。