黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

支配は愛情ではない

 ホイットニー・ヒューストンが亡くなった。まだ50にもならない、若すぎる死だ。1991年のスーパーボールでのアメリカ国歌の独唱は、「これまでで一番素晴らしい国歌独唱」との評価もあるらしく、YouTubeで探して聴いてみた。感動のあまり、思わず涙が出て、くり返し3回も聴いてしまった。軽々と何の苦もなく高音を操り、のびやかに堂々と歌う彼女の声こそ、神に祝福された声だと思った。本当に惜しい。
 
 彼女が亡くなったことに関連して、前夫ボビー・ブラウンによるDV問題が報道されていた。結婚してから彼女の人生がおかしくなったとのコメントがあったので、少しアメリカでの報道をネットで読んでみると、なるほど2003年には警察にも通報があり、ホイットニーは顔にあざを作り唇を切るけがを負っていた・・・などとあった。
 
 皮肉にも、あの映画「ボディガード」の大ヒット以来、ボビー・ブラウンが妻の活躍を素直に喜べず、亀裂が入りそうなところをホイットニーが必死にフォローしているような話は当時も聞いたような気がする。「私をヒューストンと呼ばないで。ミセス・ブラウンと呼んで」とも言っていたのではなかったか・・・けれど、その後、彼女が薬物におぼれていた話などは、彼女から興味が離れていたので知らなかった。
 
 だいたい、妻の社会的成功を喜べないところに、彼の支配欲が表れていると感じる。妻を自分のものとして完全にコントロールしきれない高みに妻がいることが許せない。その夫のご機嫌を取ろうと、妻は夫の言うなりになり、それで夫は安心する。妻の名声が高まるごとに、夫は不機嫌になり、おろおろした妻は、夫の喜ぶようなことをしてみせる・・・それがどんなバカなことでも。
 
 これを繰り返していったら、どうなるか。妻の得た名声が大きければ大きいほど、「私なんて大したことないのよ」とばかりに、彼女はどんどん自らを高みから引きずりおろすようなことをし、さらに貶めることを続けるようにならないか。彼女は、「どんなことでもこいつは俺の言うことを聞く」という事実を喜ぶ夫のせいで、薬物中毒にまで転がり落ちたのではなかったのだろうか。(夫が妻の名声に対して不機嫌になるだけでも、恐怖感から妻は夫の言うことを聞かざるを得ないのではないか。)
 
 女性の薬物事犯での検挙者が、ほとんどパートナーの男性に言われて初めてクスリに手を出している・・・との話も矯正関係者に聞いたことがある。思えば、日本の例のアイドルもそうだった。
 
 ちょうど、NHKの「視点・論点」で数日前に武蔵野大教授の小西聖子さんがデートDVと加害者の更生教育について話をしていた。日本では、未婚のパートナーによるDVに対してDV法が適用できないという間抜けな状況があり、そのほか、様々に早急に改善されるべき話があると思う。
 
 その中で、個人的には、人に対する支配欲が愛情であるかのような意識からの転換が、まずは社会全体で早急になされるべきだと感じている。
 
 人を支配することと、愛することとはむしろ正反対な行為だと思う。愛情があれば、相手を大切にし、尊重する。支配することのどこに、相手への尊重があるのか。支配は、一方の側からの感情の押し付けにすぎない。他方の感情は無視されている。互いに尊重してこその愛情ではないのか。
 
 デートDVの加害者が、逃げ出した相手をしつこく追いかけるストーカー行為に走りがちな話を小西さんもしていた。そこに相手の意思の尊重は無く、相手がどう思おうとお構いなしだ。「自分のものだ」といったん考えてしまったら、その支配下からの喪失を許さない。支配関係を守り、相手の自分からの喪失を防ぐためには、暴力を働いてもかまわないと思っている。
 
 こういった支配行為を、「愛しているから、離れたくないから仕方ないんだね」と言って正当化することは間違いだと、社会で了解する必要があるのだと思う。
 
 皮肉なことだが、恋愛相手から「束縛されたい~」などと「束縛好き」をトーク番組でたびたび公言していたタレントがDVホットラインのテレビ広報に一時期出演していて、「あれは頭が痛かった」との関係者の話を耳にしたことがある。束縛のような支配関係が愛情の一形態だと社会で広く誤解されてきたから、彼女は屈託なく口にしていたのだろう。
 
 束縛が愛のわけがない。いつまでも、つらいことに一方的に相手が応えなければならないような関係は間違っている。
 
  「私をヒューストンと呼ばないで、ミセス・ブラウンと呼んで」・・・この言葉に、今は考えさせられる。語源的に、Mrs.ってMr.に所有されている人ってことだ。彼をつなぎとめるため、自分を押し殺して、支配されることを望まざるを得なかったホイットニー・ヒューストン自身の言葉が、愛情の形をゆがんでとらえていた2人の関係を端的に表しているように思える。
 
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 前回書いた流山事件の続報があり、2月8日に真犯人が起訴された。これまでの報道では、ほのめかす部分があったにせよ、強盗殺人容疑としてしか新聞報道では出ていなかったので、9日の読売紙面にある起訴罪名を確認して、改めて腹が立った。
 
 そこには、男を強盗殺人、強盗強姦、住居侵入罪で千葉地裁に起訴・・・と書いてあった。「強姦」が入っているのに、なぜ当時の千葉県警は被害者の祖母と姉を逮捕するという発想がもてたのか、本当に不思議だ。ふたりが身体的に女性だからだということだけではない。
 
 男性である姉の夫が絡むにしろ、よほど夫に一家が盲目的に支配されているという関係でもなければ、姉や祖母は金銭を被害者から奪取する目論見があったと仮定するとしても(その仮定もおぞましいが)、自分の家族に対する夫による強姦を、生理的に許せるはずがない。まして、従犯でなく主犯として主体的に企図したとなっていたとしたら、これは、人間を超えた化け物の発想だとしか言いようがない。
 
 こんな荒唐無稽な発想に付き合わされた被害者の家族が、本当に哀れで気の毒で仕方ない。大事な妹を亡くし、姉は心から悼む環境がきっと欲しかったはず。冤罪での逮捕が邪魔をして、そう簡単に心静かに妹の死を悼む環境を取り戻せないのも無理はないだろうが、いつかそのような余裕が持てるようになることを祈りたい。