黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

性犯罪と裁判員裁判

 前回、プロの裁判官のみによる裁判と、市民の裁判員の加わった裁判の量刑比較において、性犯罪では、裁判員裁判の対象事件になっている「強制わいせつ致傷」「強姦致傷」ともに、ワンランク裁判員の方が重罰を与える傾向があることについて書いた。
 
 その時に、次回予告として「性犯罪が裁判員制度の対象事件として残るべきか等について書く」と書いたものの…実は、これについては私はずっと迷っている。このままでいいとは思わないのだが、自分なりの結論が出ていない。
 
 法が規定する裁判員裁判の対象犯罪は、①法定刑に死刑か無期懲役、同禁錮を含むもの、②故意の犯罪で被害者を死亡させたもの、である。性犯罪事件のうち、「強制わいせつ」「強姦」だけならどちらも当てはまらず、プロの裁判官による「裁判官裁判」になるが、もしも「致傷」「致死」が罪名の後ろにくっつくと、①に該当して「裁判員裁判」になる。
 
 「致傷」があるのに被害を過少申告して裁判員裁判を避けようとする被害者がいることは、この制度の問題点としてよく報道もされているので、ご存知の人も多いだろう。これ1つをとっても、ひどい話だ。裁判員裁判の存在が、被害者のためにも社会正義の実現のためにも支障となり、加害者を利する結果になっている。
 
 だからこそ、制度施行から3年という区切りに合わせての見直しはぜひ図られるべきだと思うのだが…。
 
 先月21日の読売新聞では、性犯罪事件は「外すべき」として2番目に挙がる一方、逆の「含めるべき」の3番目に痴漢事件が挙がっていた。痴漢事件も性犯罪事件なのだが、この矛盾する結果は何を示しているのだろう。
 
 この記事では、裁判員・補充裁判員経験者の回答のあった118人のうち、31人が「被害者の負担が大きい」として性犯罪事件を外すべきと答えたという。痴漢事件を対象に含めるべき理由を知りたいところだが、記事中にはみつからなかった。
 
 裁判員裁判以前から言われているが、本当に性犯罪被害者の被る精神的な負担は大きい。それが、裁判員裁判になることによって助長されているようなところがある。
 
 問題の根源はプライバシー保護が十分に果たされないことだ。本来なら他人に話したくない話を、加害者に正当な刑罰を与えるためにと法廷でしているのに、ひいてはそれは社会のためにもなることなのに、被害者は守られないのではたまらない。立証のために、被害者のプライバシーが犠牲になっているような格好だ。
 
 かなり改善されてきたとも聞くが、未だに事件に直接関係のないプライベートな話を微に入り細に入り聞く被告人側弁護士や、それを許したままの裁判官もいるという。そして、その話を己の欲のために喜んで聞こうとする「性犯罪マニア」と称するゆがんだ人たちが、傍聴席に出没する。
 
 2000年以降、性犯罪の被害者を想定して、「証人」の負担を軽くするために、法廷とつないだ別室で証言する「ビデオリンク」とか、法廷の証言の際についたてを立てるとかいった「保護措置」が設けられている。
 
 この保護措置によって、被害者は証言中、傍聴席や加害者本人からの視線を避けられる。しかし、裁判官、被告人側弁護士、検察官には顔を見せて証言することが求められる。つまり、裁判員裁判になれば、一般市民から選ばれた裁判員にも、顔をしっかり見られてしまうことになる。
 
 被害者が一番嫌がることは何かと言えば、「顔を見られること」なのだそうだ。性犯罪被害者の事件を多く受任している弁護士が言っていた。だから、顔を見られる人数が自動的に増える裁判員裁判は、それだけで、被害者の負担が増すことになってしまう。
 
 それに、人数だけの問題ではない。性犯罪事件に関しては、裁判員裁判の特性が悪い方に出てしまうような気がする。
 
 プロの裁判官には「多くの中の1事件」だけれど、裁判員にとっては担当する事件が全てであり、しっかりとまじめにその事件に向き合うこと、そして、被害者を証拠の1つとして見慣れたプロと異なり、素人の裁判員は「被害者の苦しみ」を「人間の苦しみ」として受け止めること…そんな内容を前回書いた。
 
 裁判員経験者が、テレビのインタビューで「被告人や、被害者の今後が気にかかる。控訴審の裁判を傍聴したいので、予定を知らせる制度があったらいいのに」と言っているのを見たが、裁判員が事件関係者との関わりをそう簡単には忘れないことの証しだろう。
 
 そういった裁判員の姿勢は、顔を見られたくなくて、すぐにも忘れてほしい被害者にとっては、大きな負担になるように思う。
 
 法務省の「裁判員裁判に関する検討会」に招かれたある団体の弁護士が言っていた。裁判員の候補者名簿から、被害者の知人を振るい落とすことは、フルネームを知らずに顔だけ知っているという知人が通常は多いため、至難の業だと…。さらに、それに加えて不可能なこととして、「将来知り合いになる人はどうやっても避けられない」と。
 
 被害者が、多大な苦しみを乗り越えて足を踏み出そうとした時に、例えば新たに就職した先で、自分の事件の裁判員を務めた人間に出くわしたとしたら。その絶望感たるや、想像するだけで声を失う思いだ。その場で膝から崩れ落ちてしまうくらいの衝撃ではないだろうか。
 
 どこか近隣に自分の知られたくない過去を詳細に知っている人間がいて、自分の住所も名前も顔も知っている。その人にとっても特異な体験だから、自分を忘れてくれない。そう思うと…性犯罪被害者に何の配慮もないも同然の今の制度のままだとしたら、プロの裁判官だけで裁くべきなんじゃないかと思ってしまう。
 
 しかし、裁判員裁判で自分の声をしっかり届けることができたことによって、加害者に対して従来よりも重い刑罰を与えることができ、裁判員に理解してもらえたことが大きな自信になった被害者の存在も知っている。自分の力で前に進む、大きな原動力になったようだ。
 
 何より、既に書いたように、従来のプロの裁判官によって裁かれるよりも、裁判員によって性犯罪の重罰化(あえて適正化と言いたい)が進んでいることは、大いに歓迎すべきことだ。
 
 では、裁判員裁判と、裁判官裁判を被害者が選べる「選択制」にすべきなのか。私は、以前は選択肢を残すことがいいのではないかと思い、悩みながらもそう答えていたのだが、ここのところは大いにぐらついたままだ。
 
 本来の意味での選択をさせるには無理のあるほど、重症の精神的ダメージを受けていたらどうするのか、と思うのだ。通り一遍ではない、本来の意味で内容をしっかり理解してもらえるような説明を、PTSDや記憶の途切れるようなトラウマに苦しむ被害者に、誰ができるのだろう。
 
 そんな中で選ばせても、形ばかりの選択になってしまうのではないだろうか。そして、その選択の責任を、被害者が負うことになるのは酷だ。
 
 私が知る中にも、とても優しい被害者の方たちがいて、何かを頼まれても自分が無理をしてOKしてしまうようなところがある。例えば、隣の空いている席に座ってもいいかと男性に聞かれて、本当は断りたいのに「どうぞ」と答えてしまう。
 
 そして、それがきっかけでフラッシュバックを起こして苦しんでしまったりすると、トラウマを深めてしまうことになるのだそうだ。
 
 前述の法務省の検討会でも、被害者支援をしている弁護士が言っていた。「他の被害者のためにも、自分がここでしっかりしてちゃんとした刑罰を加害者に与えねば」と裁判員裁判を選択した被害者がいたとする。その後、裁判員の選任手続きなど裁判員裁判の方向で進んだギリギリになって「やっぱりできない」とその被害者が言い出した時に、「選んだのはあなたですよ」と突き放すことなどできないと…。国は、検察官は、弁護士はちゃんと説明責任を果たしたから後は知りません、あなたの責任ですとは言えないだろうと。
 
 そうなって裁判員裁判に臨んだりしたら、被害者の精神がぼろぼろになって再起も危ぶまれることになる。本当に心配だ。
 
 統計には出てこないけれど、性被害を受けて、何年か経っても乗り越えられずに自死している人数はかなりのものになるだろうと、ある支援者が言っていた。被害後に精神的ショックの大きかったある女の子が、20歳を迎える前に単独の交通事故を起こして亡くなった話も聞いた。因果関係などと言われると、それは定かではないけれど…。
 
 ここまで書いて、やはり、裁判員裁判か裁判官裁判かの選択肢を残すにしても、限定的にするというのはどうだろうかと思う。性犯罪事件に関しては、原則的に裁判官裁判にする。被害者が「どうしても」と望む場合のみ、例外的に裁判員裁判への移行を認めるというのが良いのかもしれない。
 
 そして、被害者の二次被害を防ぐために興味本位や不必要な尋問を禁じる「レイプシールド法」や、刑法の改正など、性暴力の本質を理解した立法が何より待たれる。
 
 おとなりの韓国では、そういった特別立法を含め、かなりのスピードで性犯罪被害者に対する状況が改善されていると聞くが、例えば日本がすぐにもできそうなこととして、証拠保全の意味で、公判前に裁判官が被害者を直接尋問して調書を作成することが行われているそうだ。今月2日にあった日本被害者学会でそんな話が出ていた。
 
 そうすると、被害者は法廷に出てこないので、加害者側の証人審問権はどうなるのか…との質問が出ていたが、韓国ではそんなことを口にできないほどの被害者擁護の雰囲気があるとのことだった。実際には、裁判官が被害者に尋問するときに、加害者側の弁護士が同席はできるらしい。
 
 日本でも、そのように公判前に裁判官が被害者に別個に話を聞くというのは理屈の上ではできるはず。残念ながら、特に性犯罪被害者に対してその手法が活用されているなどは聞かないが。
 
 要するに、日本では性犯罪被害者のダメージというものが、軽く軽く考えられてしまっているからなのではないだろうか。韓国のように、多少は加害者の権利を抑制しても仕方ないくらいの酷いダメージを被害者に与えるものだという理解が社会にあれば、それなりの特別な制度設計も出てきそうなものだ。
 
 そうすれば、裁判員裁判においても本来の意味での「選択」を被害者ができるようになるかもしれない。