黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

間違いを上塗り?ごめんね息子

目安箱とクロスケ

 オリパラ東京2020大会のためにNHK大河ドラマ「青天を衝け」が休止になっていた頃だと思うが、その頃、見た夢は楽しかったな、と今日になって思い出した。夢には、息子クロスケと、目安箱と、民部公子(徳川昭武)が出てきたような気がする。

 夢を見たのは、休止中だったドラマの録画を見たのと、徳川吉宗アメリカの歴史の教科書に2ページも割かれて長い説明が載ってると家族に聞いたことも、たぶん影響したのだろう。

 舞台は江戸時代だったのだが、着物姿の私は、普通にクロスケを大事に大事に抱きかかえていたような・・・目安箱に何かを書いて入れに行ったような・・・息子と。

 目が覚めて時間が経つと、どんどん内容を忘れてしまうのが残念なのだけれど、楽しい気分だけは起きても残っていたので、よほど楽しかったのだろう。こういう夢は大歓迎だ。

 毛並みの良い息子をたくさん撫でる自分の姿を、断片的に思い出す。そう、息子を思い出すのは基本的に楽しいのに・・・やはり、不意打ちを喰らうと辛かったりする。

 先日は、新聞に挟まれている折込広告にやられた。

 その広告には、ある場所に作られるという、いわゆる高級老人ホームが掲載されていた。どこだろうと思って地図を見たら、息子がお世話になっていた動物病院の近くだった。

 ドキーンとした。

 動物病院までは載っていなかったけれど、いつも苦しい泣きそうな思いを抱えて息子と通った道が、地図にはあった。もうそれだけで、息子につらい思いをさせた後悔がドッと襲ってきてしまう。

 ことごとくと言っていいほど、私は大事な選択を間違えてしまったような気がしている。息子をできるだけ苦しめずに天寿を全うさせたかったのに、初っ端から間違えて、引き返せない苦しい闘病生活を送らせてしまった。

 それは、これまでもブログに記した通りだ。

息子が強制成仏?

 その後悔を、上塗りするようなことをしでかしてしまったかもしれないと、最近気づいた。あるコミックの存在を知ったからだ。

 「視える」能力をお持ちの占い師・流光七奈さんの原作で、七奈さんが亡くなってしまったダンナさま「ハカセ」と、3回忌に成仏するまでは普通に同居するように暮らしていた(!)という、俄かには信じがたい驚きの内容が、この『ダンナさまは幽霊』には書かれていた。

 私にとって一番の驚きだったのは、このシリーズの「霊界だより」というバージョンの中で、亡き猫の霊が、お線香が自分のために上げられているとわかると、煙に乗って「強制成仏」してしまうというくだりだった。

 「愛するペットを亡くし良かれと思ってお線香を焚く・・・その煙が自分のために焚かれた煙だとわかると・・・本当はまだ大好きな飼い主のところにいたいと思っている子も強制成仏しちゃうんだよ」

 その猫ちゃんが、まだ成仏しないで一緒にいたいと思っていても、お線香で成仏させられてしまうので「死んだ子に線香電話を使うときは注意することがあるんだ!」と成仏したハカセが「あの世」から七奈さんに注意を促していたのだ。

 お線香を上げながら地上から声に出して気持ちを言うと、成仏した人間にはその内容が伝わるという機能があり、それが「線香電話」。

 七奈さんの場合は、成仏したハカセとやりとりできる能力があるため、その「線香電話」は一般人のように一方通行ではなく、双方向になることがまた驚きポイントではあるのだが・・・私は猫が強制成仏させられてしまうというその一点に、ドーンと衝撃を食らった。

 えー、だってお線香どころか、先日だって息子クロスケのための彼岸会に参加してしまったよ、私・・・。

 その後は、息子を夢にも見ないし、気配もない。ずっと一緒にいたいと思っているのに、息子を大事に思うから法要にも参加したのに、無理やり息子が望まない形で成仏させてしまったということになるのだろうか。

 法要の様子は、こちらで書いた通りだ→ ばれちゃったかな? - 黒猫の額:ペットロス日記 (nekonohitai.tokyo)

 ということは、イヤイヤしている息子が、成仏していく様子が子どもたちの目には見えてしまって、驚いてガン見していたのかな・・・。

 なんてことだろう。無理やり成仏させてしまって、息子がひとりで寂しい思いをしていたらどうしよう。息子が死んだ後まで、やることなすこと私は間違えているのか。

 コミックの続きでは、「強制成仏した子たちが不幸ってことじゃないんだよ」とハカセが説明する。

「もちろん次に生まれ変わる準備に入るよ。この世に未練がない子は(自分から)すぐに成仏してしまうしね。生まれ変わりは早い子も多いけど、飼い主さんに合わせて待っている子もいるみたい」

 悲しいかな、霊界については真実はどうなのか、全くわからない。でも、このコミックの通りだとすると・・・できるだけ息子を待たせないようにしたい。それだけだ。

 ごめんね、息子。

地震と息子

 地震があった。ニャンコたちがとても心配だ。イカ耳になったり、シッポを膨らませて警戒する猫がいるかと思うと、腰が抜けたニャンコもいるようだ。怖かったのだろう。家族のところで飼っている4匹のニャンズは、姿見が倒れ物が落ちた部屋の中を、恐怖に駆られてワーッと走り回っていたそうだ。

 うちの亡きクロスケも、地震後にはとてもビクビクしていたから、それを思い出している。東日本大震災の時には、私は少し離れていたもののちょうど家にいて、息子がひとりではなかったのが本当に良かった。息子がコタツの中で寝てくれていたのも助かった。

 あの大震災の揺れは長かった。なかなか息子のそばに行けなかったので相当怖かったらしく、後から見たら、コタツの敷布に息子がしがみついていた部分が冷や汗で濡れ、しっかり4つの肉球の跡が染みになっていた。

 私はキッチンにいて、テーブルの下に飛び込んだ。

 キッチンでは、揺れる方向がぴったり合ってしまったらしく、オープンな食器棚からかなりの数の食器が、揺れの波が来るたび、タイルの床へと降り注いだ。床は傷だらけ、陶磁器は粉々だった。

 「あー、あれをクロスケが踏んだらケガしちゃう、大変だ」と思いながら、私はテーブルの脚をつかんで一緒に跳ねるように揺れて、為す術もなく食器たちの落下を見ていた。揺れが収まってからは一番に床の破片を片付け、それから息子を探してコタツにいるのを見つけた。

 あの震災は、しばらくの間は余震続きで、テレビや携帯の警報が鳴ることが多かったように思う。息子は警報のせいでビクビクと神経質なまま。私も、めまい持ちだったから何となくずっと揺れているような、船酔いが続いているような状態になった。

 それで、その年の春休みの家族旅行は関西に足を延ばした。それが大正解だった。

 息子の安心の場となっていたコタツも持参することに決めたので、旅館では驚かれてしまったが、まずは家族全員がゆっくり眠って心身を休ませ、その後、忍者屋敷やお城巡りを満喫した。1週間近く同じ宿を拠点に関西にいたおかげで、息子も含めてみんなが落ち着き、それから帰ることができた。

 クロスケはあちこちに旅行に行ったが、あの関西旅行は、クロスケが行った旅の中では一番遠距離だっただろう。

網戸が無かったら

 今、地震が徐々に増えてきているように思うので「南海トラフか」と思うと不気味だが、東日本大震災前にもかなり揺れた地震があり、ヒヤリとしたことがあった。

 あの時、網戸が無かったら、息子は2階の窓から飛び出してしまっていたのではないか。その時いたのは親戚宅で、窓側の建物下は崖だった。

 地震だ!と揺れを感じた時に私も同じ部屋にいたので、クロスケは明らかに私の方に飛んできて抱きつこうとした。私も「クロスケ!」と名前を呼んで、息子を抱っこしようとした。

 けれど、その時、隣にいた幼い甥が「怖い!」と言って私に抱きついた方が早かったのだ。

 (ああクロスケ!)と内心では思っても、もちろん、甥を振り払うことなどできるわけがない。私も甥を抱きしめ返して「大丈夫だよ」と守りつつ、息子のことは目で追うしかなかった。

 甥が私に抱きついたのを見た息子は、一瞬びっくりしたような目をしてからクルリと方向転換、慣れない親戚宅で行く手に迷った挙句、開いていたように見えた窓に向かって走り出し、バーンと大きな音を立てて網戸に衝突した。

 その場にいた一同が今度はその音に驚いて、「戸を閉めてください!」と叫ぶ私の声に応えて、クロスケを逃がさないように動いてくれた。

 あれは本当に怖かったけれど・・・今思うと懐かしい息子の思い出だ。あの後、自宅に戻る車の中で、抱っこされていた息子はかなりホッとした顔をして甘えていた。

 あのとろけるような息子の顔を、いつの日かまた見たい。

 

きょうは月命日、ブロガーさんにも合掌

息子の重みはどこへ

 今日は、亡き息子の月命日。数えてみると、20回目だ。

 もう、そんなに経っていたのか・・・今でも私は、そしてどうやら家族も、息子とまだまだ一緒にいる気でいる。

 毎晩、以前いつもそうだったように、寝る時には息子に「寝るよー」と声をかけている。息子は専用のステップを駆け上がり、ロフトの上で私と寝たものだ。

 息子は、私の掛布団の上の足元というか、私の膝を枕にして寝ることが多かった。そうやって18年の間に、私はいつしか左膝が痛くなった。

 その後、膝にけがをした時に思わぬ重症になってしまったのも、もしかしたら、毎晩の重みの積み重なりが影響したのかもしれない。

 あんなに小さい猫の頭が載るだけなのに、大したインパクトだ。

 寒い時期は、息子は両足に挟まれるようにして寝たがるので、こちらは自由には寝返りもできなかった。

 だから、息子を起こさないように、そーっと足を抜いて姿勢を変えるようにしていた。それでも息子は、目が覚めてしまうのがほとんどだった。夜中にトイレに立つときは、寝ぼけ眼の息子に「そのまま、そのまま。すぐ帰ってくるから」と後をついてこないように言い聞かせた。

 お年寄りニャンコになっていくにつれ、布団にそのまま寝て待っていることが多くなったが、ドアを開けるときちんと座ってこちらを見上げニャーとひと声、迎えに来てしまっていることもあった。

 そうすると、息子を抱きかかえてまた布団に戻る。息子は早く横になって定位置になれ、急げと催促するので、息子のベッドとなるべく慌てていつもの姿勢を取ると、息子はノシノシと布団に乗ってきて眠るのだった。

 今でも、私は寝る時にその姿勢になっていることが多い。息子のスペースを自然に空けてしまう。

 その格好になってから、いつもの通り「いいよー、おいで」と言う。そうすると、膝の周りにフワッと乗ってくるような、息子の重みを感じるような気がしていた。

 もちろん、布団の重みをそう感じているだけかな?とも思っていた。本当に息子が帰ってきているのだとしたら、うれしくてたまらないけれど、現実には息子の姿はもうない。

 しかし・・・最近、布団に重みを感じないのだ。フワッと乗ってくる感じがしないのだ。今日も、何か遠い感じがしてしまうのはなぜなんだろう。

 先日の彼岸会で、息子のあちらでの幸せを祈った。よくわからないけれど、お坊様たちも息子の成仏を祈っているのだろうし、だとするとそうそう私の膝に来て眠ることなんか、もう無いのかもしれない。

 息子の幸せはうれしいような、けれどやっぱり寂しいような。結論として、早くあちらに呼んでくれないかなと思うのだった。

あるブロガーさんの死

 でも、息子が天使だとすると、その地位に見合うような、息子に会えるような行いをして死を迎えないと、せっかくあの世に行っても息子は立場があまりにも上で、会えないかもしれないと心配にもなっている。

 つまり、修行が足りないのではないかとの漠然とした不安だ。こんな未熟を絵に描いたような人間だから、息子に恥ずかしくないように、しばらくは頑張って生きないといけないような気がしている。

 ただ、自分よりも若くに命を落とす方を見てしまうと、軽々しい気持ちではなく、代わってあげたかったとやっぱり思ってしまう。

 先日、ずっと拝読していたブログを書いていた、45歳の女性が亡くなってしまった。まだ小学生低学年のお子さんもいる。

 ご自身の病気の記録のため、そのブログを始められたそうだが、病気のことをまっすぐに書いているにもかかわらず、その文章は温かく、爽やかで、清らかささえ感じるものだった。

 だんなさんのこと、お子さん方のことを本当に愛しているし、周りに感謝していることが伝わってくる。亡くなってからだんなさんの手によって掲載されたラストメッセージには、「寿命を生き切った」ことが記されていた。

 お子さんたちのことは、だんなさんに任せて。そのだんなさんを信じている、息子さんたちのことも信じているからそういう心境に至ったのかもしれない。

 そう達観されている文章を拝読して、本当に本当に余計なことだとは思いながらも、お子さんたちの将来をそばで一緒に見守ってほしかった、できれば代わってあげたかったと思ってしまった。まだ45歳だもの。

 もちろん、願ってもそんなことが実現できる力は私にはない。

 45歳以降の自分を振り返ってみると、体調も徐々に回復してきて頼まれて本を書かせていただいたり、まったく及ばない、不十分ながらもボランティア活動もさせていただいた。

 息子もかわいい盛り、元気な息子と旅もした。たくさんの幸せを息子にもらいながらの生活は「幸せの絶頂だね」と家族で話をしていた時期だった。

 でも、それも息子がいてこそ。息子を見送ってからの1年半の生活は、家族とカラ元気を精一杯連発しあって生きている感じが否めない。

 きっと、あのブロガーさんも幸せな瞬間がこれでもかと訪れる時期に入っていたんじゃないか。45歳はもったいなさすぎる。あんなにも素敵なママなのに、お子さんたちも悲しくないわけがないと、勝手ながら想像する。

 「生き残った者には、やらねばならない勤めがある」と、NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、主人公・渋沢栄一が、早世した従兄・尾高長七郎に夢の中で言われていた。

 そう、きっちりやり遂げなければならない、やりかけのことは私にも確かにあるんだけれど・・・世の中、うまくいかないものだ。

 ブロガーさんに合掌したい。

ばれちゃったかな?

 シルバーウイークもあっという間に過ぎていく。私の物事を忘れるスピードも年々速度を増しているので、忘れる前に先日のペット彼岸会についても書かねば。

 前日の散歩で疲れ切ったかと思いきや、筋肉痛もなく、無事に彼岸会の催される寺院に行くことができた。と言っても、車で。

 10時からの会なので、入れるのは9時半からだそうだ。少し早すぎた。コロナ禍ならでは、まだ会場に入ることはできないのだった。

 日差しがしっかりあったので、駐車場の車中で待つことに。車は日陰に移動した。

 そこは「前向き駐車」と大書きしてあり、正面には今まで気づかなかった石仏がすっくと立っていた。それで前向き駐車・・・縁起が書いてあるが、車中からは読めそうで読めない。

 法要に来ているのに、車を降りて読もうともしない私。その程度の態度じゃ、有難い法会に参加しても、ねえ。まさに馬の耳に念仏か。

 あの世の存在は信じているけれど霊感もなく、私はお世辞にも信仰心が篤いとは言えない。毎日、お経をあげているわけでもない。

 それでも、亡き息子のためだと思うと、こうやってノコノコと法会には来る。自分の知らない世界に息子がいるのなら、誰かに祈って息子のことをお頼みするしかない気がするからだ。

 死に際の豊臣秀吉は、誰かれ構わず秀頼のことを頼む頼むと言っていたというが、それを私は一つも笑えないのだ。息子のあの世での安穏を保証してくれる誰かが欲しい。

 猫など動物の守護をしてくれるのは馬頭観音(!)という観音様なのだそうだ。「馬の耳に念仏」なんてさっき書いてしまったが、皮肉でも何でもないです。偶然です。

 ググってみたところ、柔和な顔をしている観音様方の中で、馬頭観音だけは怒髪天を衝いた憤怒の形相をしているという。

 だけれど、こちらの馬頭観音の仏像には、犬がまつわりつき、猫も膝でリラックスして、いかにも優しそうな表情をしておられる。

 優しいお顔の観音様でよかった。ビビりの息子が怖がっちゃうものね。

 時間になり、手指消毒を入口でしっかり施されてから会場に入った。参列者は先に焼香を済ませ、ひとりずつ1メートル程度は離れた席に着席。椅子の背の部分には、後頭部を覆うような透明のカバーが張ってあった。

 前列や後列とは、互い違いに座る。全体としてみると市松模様に見えるのかな。

 私の斜め前にはまだ学齢前の女の子がひとりで座っていたが、お坊様たちが入場してくるころには近くに座る家族との賑やかなおしゃべりも静かになり、隣に座っている(たぶん)おばあちゃんに抱きついて、完全に寝てしまった。

 お坊様方の朗々とした美声のお経は、きっと子守歌のように気持ちが良かったのだろう。コーラスをおやりになったらすごいだろうなあ。

 こんな心の持ちようでは、法会中に眠りに落ちた幼子と大して変わらない。反省しつつ、暗くなった会場でお経を有難く聞きながら、私もとにかく息子のあの世での幸せを祈った。

 その間、息子が降りてきて私の膝に乗っているような気がしてきて、右手は息子をいつも撫でていたように、ほんのちょっとだけ軽く動かしていた。エアなでなでだ。

 そうしたら、いきなり強烈な視線を感じた。

 通路を挟んで横並びの列の、一番遠い端の席。父親の膝に抱っこされて参列していた小学1年生ぐらいの女の子が、わざわざ伸びあがってこちらを見ていた。手前の、母親の膝の上にやはり座っていた弟らしいもっと幼い男の子も、こちらをじっと見ている。

 ふたり揃って、親にそれぞれ抱っこされている態勢から、私を「ガン見」していたのだ。

 「え?なんで・・・」と、気づいて面食らってしまった。私は決して、手を大仰に動かしていたわけではないのに。会場は暗く、遠い席から私が何をしているかなんて、わかるはずもないのだ。

 どぎまぎしてしまったが、しばらくすると子どもたちは、私から視線を外してお経の方に意識を向けた。

 女の子は手を合わせてしっかり拝んでいるところを見ると、日頃からご家庭で熱心にお経をあげているのかもしれない。

 男の子はお坊さんが木魚を叩くのに合わせてそれを生き生きと真似て、その勢いでお母さんの膝の上で座ったままちょっと跳ねている。法会が始まる寸前まで、むずがって体をひねったり伸ばしたりして抱っこしているお母さんを困らせ、お坊さんから「あちらへ・・・」と「ご案内」を受けていた同じ子とは、とても思えない。

 すごいなあ。取ってつけの私とは、信仰心の年季が違うようだ。私も亡き息子への気持ちだけは、間違いなくあるんだけど。

 やがて法会は終わり、退出の順序の案内を受けながら、その子たちは家族で先に帰って行った。

 あの子たちは、私のいったい何を見ていたのかな? 何だったのか・・・。私の膝の上のエア息子が、あの子たちには見えちゃった、ということにしておこう。

台風一過の散歩

 今日は快晴。台風一過、外に出てみたら雲が本当に1つも見つからないくらいの青空だった。

 自宅でじっと動かないままだと頭痛が始まってしまうタチの家族が、前日の連休初日にして「明日は散歩に行こう」と言い出した。洗濯機を回したままだったけれども支度をして、午前中に出かけた。

 目的地は、地元では大きめなS公園にしようと昨日、家族が言っていた。

 面倒くさがりの家族の言うことだから、出かけようと言われても、結局なんだかんだと用事に追われて出かけずじまいに終わることも多い。だから、私の方は前日の話も話半分に聞いていたし、朝から洗濯もスタートしていた。

 それなのに、予想に反して家族は出かける気満々だ。明日も出かける予定があるのになあ・・・息子の回復祈願をしてもらった寺院で、ペット彼岸会がある。そこに申し込んであるのだ。

 いつだったか、その公園には1度やはり歩いて行ったことがある。帰りは電車で帰ってきたのだったか・・・行くだけで1時間弱はかかるような気がした。

 玄関で、家族がいくぶん古めの地図の本を持ってきて道を確認していたので、私は「スマホの地図アプリは設定しないけどいい?」と聞いたらOKだという。それで、完全に家族任せで歩き出した。

 引っ越してきて10年近くになるのに、まだ周囲の道がすっかり頭に入っている状態ではなく、過去に迷った道を、また迷いながら適当に歩いた。そろそろベーグル店があるはずだったが、ここを出たら左にあるよね?と思ったら右だったり。うろ覚えもいいところだ。

 行くと閉店していることが多い、私とは相性があまり良くないこのベーグル店が珍しくもオープンしていたので、せっかくだから1つずつ購入。目的地の公園で食べようと思った。

 ここから先、もうしばらくすると途中に激安の店があったはず。そこで水を買おうと思ったが、がまんできずに目に入ったコンビニで買った。

 相変わらず、以前歩いた道のような気もするが、違うような気もして自信がない。「ここが○○だったら正解!」などと家族が持つ地図情報を頼りに、歩き続けた。

 前にあの公園に歩いて行ったときは、息子クロスケはお留守番だったんだ・・・帰って「どこに行ってたんだ!」と怒られたんだったか、どうだったっけ。

 考えてみると、よく息子を置いて出かけたものだ。よほど、歩きたかったのか。

 そんなことを考えて歩き続けていたら、そろそろK院があると家族が言う。息子が天国に昇って行った、ペット供養施設を併設している寺院だ。

 ああ、そうだった。昨日、家族が「公園に行くまでの途中にK院があるね」と言っていた。隣にあったお寺にお参りをしてなかったとか何とか言っていたような・・・「そこでお参りしてもいいんじゃない?」と私は適当に答えていたのだった。

 以前の散歩の際には、K院の存在は頭になかった。息子は元気で、まさか散歩途中に将来、息子を見送る施設があるなんて、考えもしなかったから。

 散歩自体、前日に話をしていた時には実現可能性が低いと見ていたくらいだったので、K院の出現にはちょっと心の準備が間に合っていなかった。

 曼殊沙華の咲き始めた広い境内には、夏草がまだ元気に生えているところもあった。剪定をしてあげたい!とYouTubeで最近はまっている園芸動画のにわか知識を振り回して家族と喋っていた時にはまだ良かったが、裏に回ってペット供養施設が目の前に見えてきた時には、急に涙が出て息が詰まる思いがしてしまった。

 ああ・・・ここだ。ここ。ここで息子に別れを告げたんだ。あの日も、今日の雲1つない空には負けるけれど、同じような真っ青な空だった。

 そう思ったら、胸がキューっと痛くなってしまった。ふさがっていたはずの傷口が、一気に開いたような・・・まだここまでの気持ちになってしまうことに、自分でも驚いた。

 この施設に来るのは、息子を送って以来、初めてだった。

 確か、この地域で猫の世話をしている団体の共同墓がこちらにあるはずだと思い出し、見てみるとすぐに見つかった。そこに手を合わせてから、たくさんのペット名の書かれた卒塔婆に囲まれた、大きな合同供養塔にも手を合わせた。

 こちらに供養をお願いしていたわけではないので、息子の卒塔婆は無い。

 施設の人が気づいて、「お線香を上げますか」と言ってくださったので、ありがたくお線香をいただいて、その合同供養塔にお供えした。

 たくさんの人たちが既にお参りに来ているらしく、お線香を上げようにも容器がいっぱいだし、まだ燃えている状態だった。気をつけて、端に入れた。

 息子を見送った日に比べると、なるほど人が多い。みなさん、お彼岸にペットの供養に来ているんだろう。

 家族は、満足したようで「もう帰ろう」と言った。「公園は?」と聞くと、「もういい」と言う。すたすたと、道を戻って歩き始めた。

 「ここに来られてよかった、来たかったんだ」「ここは、クロスケが天に昇って行った場所だから、クロスケにとってのエルサレムだ」と、晴れやかに言う家族。

 そうか・・・初めから、公園になんぞ行こうと思ってはいなかったのかな。やられた。

 明日、以前から回復祈願をお願いしていた関係で、別の寺院での彼岸会に行くことにしてしまっていたが、このK院からも、彼岸会の案内をもらっていた。K院にすれば良かったのか・・・。

 また、涙があふれてしまうかもしれないけれど、たまにはこのK院にも散歩に来ようと思う。

 胸がいっぱいになってしまって食欲もなかったが、ベーグルは帰宅して食べた。

 

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑰

悲しみをせき止めない

 2020年2月4日未明、息子は息をするのを止めた。翌日に火葬を予約してしまったから、その日は形ある息子との最後の1日になった。

 明日には、全身愛らしさの塊である息子の姿形が失われてしまうと思うと、現実感が全くなかった。本当はずっと撫でていたいのに。

 保冷剤を抱かせ毛布で巻いておくるみにした息子。安置したのは、以前はテレビ台として使っていた棚の一番下の段だ。そこは、家の作り付けの息子用ステップから息子が直接ぴょんと飛び移って上の数段を歩き回り、時にはびろーんと伸びて、休憩がてら高い位置からリビングなど部屋を一望できる場所として使っていた。

 その棚は普段からの息子の居場所のひとつだったから、そこに息子を休ませるのは自然に思えた。

 かわいいかわいい息子。感謝で一杯、もう痛みや苦しみもない、完全に自由になっていると思うとうれしいが、寂しい。比べるものじゃないが、実父を失った時よりも泣けるし、圧倒的に悲しい。お父さんごめん。

 その父に、今、クロスケがそちらに行ったばかりだから、どうかかわいがってあげてねと祈った。娘は勝手なものだ。

 翌日の準備のあれこれを考えた。やはり、段ボール箱なのだろうか・・・それはやっぱり抵抗があり、おくるみのまま、息子をいつものカートに乗せて行こうと決めた。

 息子は2枚の毛布でぐるぐる。家族に花を買ってきてもらうよう頼んだ。後のことは実はもうよく覚えていないが、たぶん、息子の前に呆然と座り込んでいたのだろう。

 いつだったかは定かではないが、「悲しみをせき止めないで」という、いつもグリーフケアのワークショップでご参加の方たちにお伝えする内容を、どこかで家族にも伝えた。

 今、私たちは最愛の息子を失ったのだから、悲しくて当たり前。その感情を押し殺してフタをしてしまうと、後々良いことはない。

 悲しさのイガイガがフタの下で発酵し、怒りになる。それを我慢して我慢して抑え込んでいても、イガイガは必ず出てこようとしてフタが動く。

 ちょっとだけ出そうとしても、一度フタが開けばそれは難しい。地下のマグマが噴き出すように、怒りのイガイガがバーッと暴発し、自分だけでなく周りをも傷つける結果になってしまう。

 こういう時に、家族の中で傷ついているのは自分だけじゃなく、周囲もロスで弱まっているのだから、気持ちに余裕が無くて受け止められない。そんな時期に怒りを暴発させてしまえば、家族同士の関係性の致命傷にもなってしまう。

 だから、互いに異なるペットロスの悲しみの形があることをそれぞれが認め、無理にせき止めないようにしよう。悲しくて当たり前、だから悲しみにゆっくり向き合って、コントロールしやすくできるように持っていこう。そんな話をしたと思う。

 そして、ワークショップで使う資料の一部をプリントアウトして、家族にも渡し、自分でも読み返した。

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NPO法人レジリエンスでいただいた資料

 この資料は、傷ついた心のケアを勉強させていただいたNPO法人レジリエンスのもの。他団体のリヴオンのサイトからの引用だとの表記がある。被害者支援を学ぶ一環として、このレジリエンスでは勉強させてもらった。

 こうやって書いているブログも、どなたか扁平上皮癌の猫さんを抱える飼い主さんの参考事例(反面教師でも)の1つになればとの考えと共に、私にとってはグリーフワークの1つ。レジリエンスのお陰で、ゆっくり家族と互いの痛みを尊重しながら昇華していくことができそうだ。息子も少しは安心してくれるだろう。

青空に息子をお返しした

 猫友さんのお友達にご紹介いただいた寺院併設のペット供養施設には、車で30分もかからずに到着した。この2020年2月5日のことは、その翌日のブログでも書いた。

toyamona.hatenablog.com

 施設に着くと、敷地には小さな動物たちのお墓が並んでいるのが目に入った。別棟の納骨堂らしきものもあった。建物入口の横には、2~3匹の丸々とした猫がいて、ごはんも置いてあった。

 その猫さん達に見られながら、息子を乗せたカートを押してスロープを上り、受付のある建物に入っていった。

 しばらく待ってから、隣の焼き場のある建物へと移動。そこで息子とお別れの準備をした。

 説明によると、痩せて小さな息子が跡形もなくなったら困るので、ある程度温度を押さえて焼くのだという。おくるみにしていたフリース毛布は、化繊でありお骨に張り付いて残ってしまうのでダメ。着せていたセーターも、同じ理由でダメということで、鋏を借りてところどころを切り、脱がせた。寒くないように、着せてやりたかったが仕方ない。

 ちなみに、このズタズタになってしまったセーターは、家に持って帰ってから、家族のリクエストで縫って形を整えた。しばらく家族の机の上にあり、折々に撫でていたようだった。

 さて、いよいよ、いかにもな焼却台に息子を寝かせなければならない。

 息子カラーの山吹色のバスタオルを敷き、その上に息子を横たわらせた。お花を上から散らし、枕元に好きなカリカリごはんやチュールをいくつかの紙コップに入れて並べた。そして、息子の回復のための祈願でいただいたお札も2枚。あちらで息子を守ってほしい。

 それから、息子クロスケが、一心に布団を踏み踏みする際に咥えていた夫のグレーの靴下と、夢中になってしゃぶりついていたスイス土産の小さな靴下(たぶん、キャットニップ入り)、ニャンコOKの温泉に旅行した時にホテル玄関で撮影してもらった唯一の家族全員が揃った写真を、クロスケに持っていってもらうことにした。

 見ると、全身「真っ黒クロスケ」な息子の中では唯一のピンク色をしていた愛らしい舌が、暗赤色に乾いていた。それを見て、まさに往生際が悪くなりそうだった私も、もう、ここにはいないんだ、ここを離れて天国に行くんだねと、気持ちの区切りがつけられた。

 これで、本当にもう姿ある息子とはお別れだ。ありがとう、クロスケ。

 その日は、快晴。青い空に、煙となった息子が虹の橋を上っていくのが見えるかと思ったが、煙突を見ても、あまり煙らしい煙も見えてこない。かすかに蒸気の流れが見えるか・・・という程度だった。

 そして、1時間ほどで、息子は、か弱いお骨に変化していた。

 しっぽの骨は、漫画でよく見るような骨の形をしているパーツが、連なっているんだと知った。胸のあたりが青緑に一部染まっていたのは、最期の1週間の点滴の影響らしいと聞いた。そうなのか。

 股のあたりに小指の先ほどにも足りない塊が見つかったが、これは排便できず残ったウンチ。2月に入ってからはお通じが無かったが、哺乳瓶で飲ませたごはんは、こんなにも小さな固まりに集約されていた。

 それっぽっちで、息子が生き続けるエネルギーとして足りるわけはなかった。

 あまりにマジマジと見ていたせいか、「持って帰りますか?」と聞かれてしまったが、さすがに断った。息子のお骨で十分だ。

 生涯の最大体重は6.6kgを誇った息子が、こんなに軽いお骨になって家に帰る。車の中で膝に乗せたら、ずいぶんとコンパクトだった。

 もう、痛みも何の制約もない。具体的な姿形を失った代わりに、どこでも自由に飛んで行ける。どんなに暴れん坊将軍と呼ばれても、うちでは天使扱いだった息子は、いつかは天にお返ししなければならなかった。その時が来たのだった。

 でも、呼べば、空からあっという間に降りてきて私の膝にちゃっかり座っているはずだ。見えずとも、息子はきっと一緒にいる。今も、ずっと一緒だ。

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煙突からは何も見えなかったが、息子は天に昇って行った(2020/2/5)

 

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扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑯

冷たくなっていた、息子の額

 ちょっと息子愛を爆発させてみる。つやつやと豊かな毛をまとった黒猫の息子クロスケは、プライド高く一筋縄ではいかぬ性格で、動物病院では「暴れん坊将軍」扱いだった。

 だけれど、私に言わせれば反抗心旺盛でありながらも繊細で思いやりのある、今でいうところのツンデレ体質が「沼」ポイントでパーフェクト。普段は世話係の私を「ウザイ」と見向きもしない勢いだが、ガス器具の点検にキッチンに入ってきた作業員のおじさんに対しては、おもむろに私の前に立ちはだかり、ニャー!と一声威嚇する男気もある。

 いやほんと、私を守る気満々としか見えなかった。男前だったな。

 日常的にシャーっと怒られてばかりいたけれど、私は構わずイイコイイコと撫でまわす。実はまんざらでもない息子は、毎日のように私が座るのをウズウズと待ち、膝上にぴょんと飛び乗って座る。そのまま私はパソコン作業に入り、ベッタリの下僕となって「猫かわいがり三昧」してきた。

 息子のビジュアルにももちろんゾッコン、首から上だけ語ってもパーフェクトだ。

 ぴょこりと生えた両耳、丸みを帯びた後頭部。「横顔が決まってるね」と親バカ丸出しでいつも褒めていた、シュッと高い鼻筋。「狭い」と形容される定番の愛らしさ満点の額。ひとつひとつのパーツが、どうしてこうも完璧な出来なんだろうと思ってきた。

 それだけでは当然終わらない。立派なヒゲの生えているぷっくりした口元も可愛らしかった。顎の下をコチョコチョすると、「もっと」と言うように目を閉じて顎を突き出す仕草も・・・語り出すとキリがない。

 透明な半球体の輝く瞳には、宇宙に吸い込まれるような気分になって、いつも近くから飽きずに見つめていた。

 クロスケの瞳は、中央寄りがうっすらピスタチオグリーン、周囲が黄色みがかっていた。ずっと、この瞳を見つめていたかった。

 2020年2月4日火曜日。立春、大安の朝だった。

 私が目覚めたのは5時頃だったように思う。昨夜寝た時と同じポーズで左腕に横たわる息子の後ろ姿が目に入り、ちゃんと布団にいることにまずホッとした。そして、息子から腕に伝わる温かみを感じながら起き上がり、顔を覗き込んだ。

 言葉を飲んだ。息子は息を引き取っていた。何かに驚いたような表情で、目は見開かれたまま、両手両足が冷たくなっていた。

 いつも撫でていた額に触れると、あり得ないくらい芯から冷えていた。

 え?じゃあなんで温かいの?生きてるんだよね?・・・一瞬混乱したが、ああそうだ、背中のホカロン、とすぐに気づいた。息子が寒くないように、この頃、特に夜間には、服の上から背中に小さなカイロを貼っていたのだ。

 セーターの上からのホカロン周りだけが、温もりがあった。それをすぐ剥がし、おむつも外した。夜にトイレに行っていたから、おむつもほぼきれいだった。

 既に、息子の両手両足はピンと固くなってきていた。死後硬直なのか?

 そんなに前に逝ってしまったのか、とショックだった。じゃあ、寝てからすぐ? 眠っている意識の底で微かに息子が動いたように感じた、あの時が旅立ちだったのだろうか?

 隣にいながら気づいてやれなかった。笑っちゃうぐらい、私は爆睡していた。

 前夜、恵方巻を食べながら、息子の長生きを祈る代わりに穏やかに生を全うしてほしいと初めて祈った時、曇りなく輝くまなざしでこちらを見返していた息子。あれから、たった数時間で逝ってしまったことになる。

 私たち家族の心の声が届いたのか。あの時「そうなんだ、もう頑張らなくていいんだね」と理解したのだろうか。もうすぐ八方塞がりの年が終わるよ、と言い聞かせていたから、きっちり立春になるのを待ってから旅立ったのか。

 とにかくありがとう、本当にありがとう、と息子への感謝の気持ちで一杯だった。

 こんなにも、たくさんの愛情をもらった。私は子どもの頃にぼんやり考えていた「将来の夢」=窓際で猫を撫でて暮らす、をクロスケにはたっぷり叶えてもらった。

 にゃんこ1匹に、ここまで人生を豊かに、幸せにしてもらえるなんて思わなかった。毎日、とても楽しかった。これ以上の幸福は、もう望めない。

息子をおくるみにして安置 

 家族に声を掛けたら、私とクロスケはまだ寝ていると思っていた、と家族は言った。そして息子の名前を呼びながらひとしきり息子を撫でた後、私の腕枕で逝って良かった、と言った。

 息子が死んでも、家族はいつも通り早朝に出勤しなければならない。私も、泣いてばかりもいられない。

 まず、息子をきれいに拭き、大きめの保冷剤を抱かせてからフリース毛布でおくるみ状態にした。冬だから、とは思っても、室内は暖房で暖かい。息子から完全に温もりを奪い、死を確定的にする行為には大きな抵抗感があったが、息子を傷ませてしまう訳にもいかない。

 毛布を巻く際には、息子のピンとまっすぐ固まっている手と足を少しずつ折り曲げて、自然に抱え込む形に整えた。力を入れ過ぎて折れてしまわないか心配だった。

 手術以来首に巻くようになっていたネックウォーマーは外し、着ていたセーターはそのまま。これは、年末に息子のために買った物だった。

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息子が最期に着ていたセーター。冬になって買ったばかり

 毛布は、やはり息子が寒くないようにと冬に入るにあたり購入した。くるくると巻かれて、息子の形の良い両耳と頭だけが、少しのぞいて見えた。棚の下段を整えてそこに安置、寂しくないように小さなぬいぐるみ等と、花を置いた。

 クロスケの目は、閉じようか迷ったが、そのままにした。濁りのない、相変わらず美しい息子の瞳。もし、目を閉じて亡くなっていたら、悲しみは余計に深かったかもしれず、もう一度、見せてほしいと必ず心残りの種になっただろう。そんな気がした。

お弔いの場所を探す

 さて、お弔いはどうしよう。息子を、ちゃんと送ってあげたかった。

 2週間前、お留守番のクロスケの面倒を見てくださった猫友さんに、飼い猫を葬ったご経験を伺うことにした。LINEを送ったのは、まだ8時前。朝から申し訳なかった。

 そうだ、と思い出し、やはり飼い猫を見送った姉にも相談のLINEを送った。打ち合わせが終わったら電話すると返事が来た。

 猫友さんは、親身になって相談に乗ってくださり、私の近くに住む知人にも連絡を取って情報を仕入れてくださった。猫友さんの猫さんを葬った霊園①と、その知人の猫さん2匹を見送った寺院併設のペット施設②と、そしてLINEの返事が来た姉の愛猫を葬った施設③の3カ所で迷い、②に決めた。

 電話を入れると、予約はすぐに取れた。翌5日午後3時だ。こうやって、自分が絶対したくなかったことを自分でどんどん進めていき、息子とお別れすることがすんなり決まってしまった。

 昼過ぎ、仕事の打ち合わせを終えた姉から電話が入った。子どもの頃のように、姉に甘えて1時間余りも泣きながらしゃべった。

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑮

愛する猫型息子、最期が近づく

 猫は、その死の際に人の目から身を隠すと言う。一方で、具合が悪くなって物陰で体を休めているうちに、その生を全うすることになり、結果的にそうなる、とも言う。

 本当はどうなのだろう。誰にも邪魔されず、静かに逝きたい気持ちもあるのかもしれない。

 息子の場合は、こうだった。点滴を開始してごはんを食べなくなってすぐは、物陰ともいえる「納戸」に入るようになり、用意してあった猫ベッドに横になっていたので、本当は身を隠す方向を望んでいたのかもしれない。

 人間と住んでいると、そうもいかない。用が無くても、しばしば私は納戸で身を横たえている息子の傍らに行き、並んで横になって息子を見つめていたから。家族もそれは同じで、入れ代わり立ち代わり、息子の様子を見に行っていた。

 うっとうしいなー、また来たのか。きっと息子もそう思ったはずだ。

 視線を感じて、息子は目を開けた。こちらは既に涙涙、止められなかった。息子は、そんな私をじーっと見ていた。

 それで、本当は隠れていたいけどね、もう出てもいいや、と諦めたらしい。納戸にいても、みんなが入り浸っているんじゃ目的は果たせないもんね。

 息子は立ち上がると納戸を出た。リビングの方に息子のために敷いてあった布団、息子用ベッド、窓際の座布団のあちこちに寝転ぶことを選んでくれた。そうすると、自然と家族でいられた。 

 最後の3日間、息子は本当にやさしかった。

 もう、ごはんを食べなくなってからの数日で、一気に瘦せた。点滴をしたことによって息子から食べる気が失せてしまったのかどうか、今となっては分からない。

 息子は、細い体を支えるのもやっとだったかもしれないが、前述のように、2月1日には家中をゆっくりゆっくり歩き、最後のパトロール。そして、冷たい風にもかかわらず、窓際でしばらく風を浴び、「風ぴゅー」した。

 さらに、膝に乗りたいよ、と床に座った私を見上げてニャーと鳴き、ようやく私の膝にずりずりぴょんと上った。

 あまりこちらの方が良い態勢ではなかったから居心地が悪かったのか、あるいは疲れてしまって乗ったままではいられなかったのか、息子は少しすると降りてしまい、布団に横になった。

 夜は、私の左腕を枕に寝た。

 これも、その頃になっての態度の変化だった。家族にはともかく、「お世話係」の私には終始強気な息子だった。寝る時も、ずっと私と寝てはいたものの、私への信頼感が薄いらしく、膝回りでしか18年間寝てくれなかった。

 仕方なかった、嫌がる息子に激マズの薬を飲ませたり、爪を切ったりしていたから。動物病院で、泣き叫ぶ息子を看護師さんと一緒に抑え込んでいたのも私だし。

 でも、最期の頃は「こんなに甘えてくれるのか」という程だった。息子も悟っていたのかもしれない。

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窓際の座布団からあと少しで布団。届かず床に横になっていた(2020/2/1)

 

 2月2日、ほぼ息子は横になっていたが、トイレ(小)には6回行った。哺乳瓶からも5回、ごはんを与えた。まだチューチューする気の見えた前日と比べると、ほぼ吸わなかった。最後の点滴もした。この日はステロイド無し。

 倒れてしまったのは、21:45のこの日最終のトイレだったか。息子が楽に使えるように、段差のない、犬用トイレに紙製の猫砂を敷いてあったが、その上に、ぱたりと横になったままだった。どうも戻ってこないと、探しに行ってみたらそうだった。

 息子にすれば、廊下を歩いてきてトイレも済ませ、ただ疲れて休んでいただけかもしれなかった。でも、ごはんも明らかに進まない様子だったし、こちらは息を飲んでしまった。

 抱き上げて息子に付いた猫砂を払い、リビングに連れてきて布団に横たえた。胸がいっぱいになってしまい、言葉もなかった。

 軽くなってしまった息子。軽々と、もう2㎏も切っていたと思う。冬服に包まれて、フワフワと綿毛のように感じた。

2020年2月3日

 朝、私の腕枕で寝ている息子に「おはよう」と声をかけて、にゃんだ~と横目でこちらを見てくれるとホッとするような毎日が続き、節分の2月3日も無事におはようを交わすことができた。

 この日も、7:30、10:30、14:30、19:00の4回、哺乳瓶で口元にごはんを持っていったが、口に含みはするけれど、もうごくんとは飲まない様子だった。

 哺乳瓶でごはんを与えているのも私の自己満足か・・・と、認めるのは怖かった。

 ごはんの後、口元をたっぷり水を含ませたガーゼで拭いた。それで少しでも水分を補給してくれたらと思ったからだったが、息子の上顎に張り付いていたごはんのカスが、うまくはがれ、まとめて取り除くことができた。

 ペリッと剝がした瞬間、息子は「ニャッ!」と怒って私の右手親指の付け根をひっかいた。いかにも気が強い息子らしい。「ちょっと痛かったね、ごめんごめん・・・」しっかり、ひっかき傷からは血がにじんだ。

 剝がれたものは1㎝×1.5㎝の、薄くて小さなおせんべいかクッキーのよう。イヤイヤされてしまって困っていたが、ようやくきれいにすることができた。

 見ると、剥がれた後の端が少し膿んでいた。猫の口内に使える消毒薬のスプレーをガーゼに含ませ、改めてその場所に当てた。

 ちょっとした反抗はあったものの、息子はいつもと違い、ある程度は素直に拭かせてくれたので、この3日の日記には「ガーゼで拭えば効果的に口内をきれいにできる。小さい頃からガーゼでやればよかった」と書いてある。

 ペット用の歯ブラシ、指のソケット型の歯ブラシ、ハミガキシートといったものを使い、息子の口をきれいにしようと工夫してきたつもりだった。動物病院主催のハミガキ教室にも、家族が参加した。

 結局、ハミガキには限界があって、一番良かったのは、病院おすすめのジェルを食後に舐めさせるものだったかもしれないが、歯ブラシやシート類は、犬仕様で分厚いと言うか、うまく使いこなせなかった気がして、猫の息子には悪かったなといつも思っていた。

 そのため、息子は「吸収病巣」という歯が溶ける病気にもなり牙を削ることにもなったし、口内に癌までできてしまったのだ・・・と今でも思っている。

 息子の最後の日に、「小さい頃から濡れたガーゼで拭えば」的な後悔が書かれているのも、皮肉だ。遅すぎた。

 猫さんの飼い主さん方・・・もしもハミガキでお困りでしたら、濡れたガーゼが一番シンプルで効果が高いような気がしましたよ。

見つめられながら食べた恵方巻

 この日は節分だった。ようやく私たち家族にとって「八方塞がり」の年が終わる分かれ目の日。息子には「もうちょっとで八方塞がりの年が終わる、頑張ろう。そうしたらきっと良くなるよ」とその頃、言い続けていた。

 夜には、息子が見ている前で恵方巻を食べた。その話は、以前のブログ(やっとのお礼状 - 黒猫の額:ペットロス日記 (nekonohitai.tokyo))でも書いた。

 息子は、ちょうど私から見ての恵方のテレビ前に寝転んでいた。私と家族が恵方巻を食べ始めると、鉄火巻のにおいにつられてか息子は目をパッチリと見開き、天井を向いて斜め逆さになるような姿勢でこちらを見つめていた。

 私も家族も、クロスケを見つめて無言でモグモグ。息子もそっくりかえったまま、じーっと見て・・・その光景は今でもはっきり目に浮かぶ。うつらうつら、どんよりといった力無い表情ではなく、息子の両目はその時、キラキラしていた。

 ここは、前述のブログで書いたままを引用してしまおう。

 毎年毎年クロスケの長生きを祈りつつ食す恵方巻。夫婦ともども東京出身なので、恵方巻を知って食べ始めた時には、既にクロスケは一緒にいたと思う。以来、恒例の願いはずっと「クロスケの長生き」だったわけだが、今年は私も夫も、初めてそれを祈らなかった。代わりに「クロスケが苦しまずに生を全うできますように」と祈っていた。打ち合わせをしたわけではなく、クロスケが死んだ後で(互いの祈りの内容を)知った。

 クロスケは、泣きながら恵方巻を食べる私たち家族をじっと見ながら、何かを感じ取ったのではないだろうか。

 夜、またリビングに布団を敷いた。息子は私の腕枕で寝る。だが、その前に初めて息子におむつを穿かせることにした。

 またトイレで倒れていたら。夜中に、こちらが寝ていて気づかなかったりしたら。暖房をつけていても2月であり、寒いタイルの上や廊下で倒れたままだったら・・・と心配したからだ。

 以前の手術時に買ったおむつやおむつカバーがあるので、それを穿かせ、トイレ方向に歩いていけないように、通路をふさいだ。こちらにも息子スペースに別のトイレがあり、息子もたまにこちらも使っていたから、いざとなれば、おむつをはずしてこちらを使わせればいいと考えた。

 誇り高い息子だ。おむつは不本意だったかな。

 小さく軽くなってしまった息子に、おむつは余裕があった。おむつとセーター姿で、息子は私の左腕に頭を載せ、眠った。

 息子の小さな愛らしい後頭部を見ながら、私も眠った。途中、息子が動いたような感覚が腕にあったが、眠りに落ちた。

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑭

久しぶりに夢で再会

 ゆっくり寝たのが久しぶりだったのだが、長時間寝てしまうと、私は大抵明け方に夢を見る。あまりいい内容でもない夢が多く、しかもグロテスクにクリアだったりすることもあって、どちらかというと夢を見たくない方だ。

 だが、息子クロスケに会える夢ならば、いくらでも見たい。当然ながら。先日見たのも、起きて心がホカホカするような、楽しい夢だった。

 夏の旅行。キャンピングカーの中か、アメリカのダイナーの中にいるかと一瞬思ったようなポップな飾りのある車中で、私は息子を抱き上げている。家族が車を運転していて、息子はそちらに行きたがって大変だ。

 いつも、そうだった。ドライブが好きな息子は、後部座席で私と乗るのだが、前の運転席と助手席の間に立ち上がり、ドライバーの家族と肩を並べるように進行方向をしっかり見つめているのが好きらしかった。

 でも、今回の夢の中で、結局息子は私と見合う形になり、抱き上げられて膝の上に納まったのだった。

 5年以上も前、息子が甲状腺機能亢進症で発熱し始めていた頃だったか、まだそうとは知らない夏の旅行で、長野県上田市の高原に泊まった。ちょうど今頃、8月下旬だったように思う。サイトにはアメリカ製のキャンピングカーがいくつか並べてあって、その車内に泊まった。

 暑い自宅からその高原に行き、息子は本当に涼やかで楽そうな表情をして、一人前の人間のように、どっかり座席に座っていたっけ。キラキラ光るガラスの器で、水もよく飲んだ。

 その心地良さそうな表情をよく思い出すが、今回の夢に出てきたの車中のつくりも、そんな感じだった。

 それにしても、どうして夢の中の私は、亡き息子を抱っこできているという特別な機会を、もっと大事に有難がらないのかな・・・それが不満だ。息子をもっとナデナデしたかったのに、そうすればよかったのに、夢の私は。

哺乳瓶で、ごはん

 さて・・・2020年1月27日に食欲が落ちてしまった息子が、点滴を始めた話を前回⑬で書いた。明らかに食が細ってしまったのだが、全然食べてないわけではなかった。

 ただし、自力ではない。私が、哺乳瓶で半ば無理に与えようとしてしまったのだった。

 ニャンコを「ブリトー巻き」にして薬を与える動画を参考にしたのだと思う。バスタオルを使って息子をくるくると巻き、人間の赤ちゃんを抱っこするように抱く。そこに、流動食を哺乳瓶に入れ、乳首の先は少しカットしてご飯を飲みやすくして、くわえさせた。

 当初はシリンジで与えようとしたが、それだと先端が口に迫ってきて「刺さる」感じが怖かったのかもしれないが、息子はイヤイヤしてしまって受け付けなかった。それが、哺乳瓶だと大丈夫だったのだ。

 ちゃんと、くわえてチューチューと1回10ccは食べた。前週よりも圧倒的に少なかったけれど・・・。

 哺乳瓶で与え始めたのは、1/28の夜からだった。急に食べようとしなくなり水も飲まなかったので、前日から点滴が始まったのだったが、あまりにガクッと食べなくなったのも、逆に点滴をしていたからかもしれない。

 自分自身の経験からも、点滴をするとお腹いっぱいの感覚になることがあった。口から食べていないのに、十分な栄養が摂れているわけでもないのにお腹が膨れる感覚になったのだった。

 息子は、本当は食べられるのに錯覚で食べようとしていないのじゃないか? それでは困る、食べなくなったらおしまいだと思った。

 そう考えて始めた哺乳瓶ごはん。1日に4回、息子は付き合ってくれていたものの、迷惑な話だったのかも・・・と今は思う。

 ちゃんと、寿命がわかっていたんじゃないのか。ぴったり1週間前から、飲食をやめてしまうって。

 人間でも、尊厳死の意思を示す書類が無いと、死の間際までどんどん点滴を続けられてしまって体がタプタプになってしまう、それで死を迎えるのが本当にいいのかといった話がある。本来、放っておけば人間は飲まず食わずになって、枯れて死んでいくのだという。

 自分だったらそうしたいと願っても、今はお医者さんがそうはさせてくれない。死ぬまで生かそうとするのが仕事だから。家族親族など周りも、諦められなくて生かそうとしてしまう。

 私がやっていたことは、まさにそれ。息子を静かに見守れば良かったのに。きっとそうだ。おせっかいだった。

 そのおせっかいに、息子は付き合ってくれていたんだと思う。

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手術からぴったり半年。体を横たえる息子クロスケ (2020/1/31)
最期まで自力でトイレ

 1/31、息子は下顎切除の手術からちょうど半年を迎えた。手術死するかもしれないと思われていた息子が、半年も生きてくれた。最初に猫の扁平上皮癌の予後を調べたことがあったが、すごいことだった。

 この日も、8回も自力でトイレに行き、うち2回はお通じもあった。

 いつものトイレは遠くて大変だろうからと、窓際の息子スペースにももう1つのトイレを用意したが、やはり息子はいつものトイレまで延々と廊下を歩いていき、そちらを使うことが多かった。

 ただ、高さのある縁に上るのが大変そうだったので、数か月前に犬用のトイレを買い、そこにペットシーツを敷いて、猫砂を上からおいて、トイレにした。

 息子は少し戸惑ったようだったけれど、すぐ慣れてそちらを使ってくれた。ただ、砂が周囲に撒き散らされるので、3方向に段ボールで壁を作った。

 2/1にはフラフラしながらもしっかりパトロールをし、おしっこも7回もトイレでした息子だったが、2/2、帰ってこないと思ったら1度、トイレの中で倒れていた。この日も6回トイレ通いをしていたが、やっぱり、遠いトイレまで起き上がってくるのは大変だったのだろうと思う。

 2/3には4回。2月に入ってからはお通じが無かったが、ちゃんと最後まで自力でトイレを使い続け、誇り高い立派な息子だった。

 

 

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑬

風の通り道

 毎年夏になると、エアコンの掃除を依頼する。家をリノベーションした時の業者さんに色々な付帯サービスがある関係で、そのまま頼んでいる。その掃除に、先週晴れた日に来てもらった。

 エアコンの掃除だから、エアコンは止める。普通なら暑い。夏らしい暑さも戻っていたから。

 幸い、窓を開け放してしまうと、うちはすごく風通しが良い。「風が通りますねー」と、業者さんも口にしていた。風のある日だったから、尚更涼しかった。

 その風通しの良い自宅の、最も風が気持ちよく吹く場所は、息子・クロスケに教えてもらった。いつも息子が夏にどーんと寝ころんでいたところだ。

 通路の狭い場所は、風が集約されるのだろう。涼しいのは分かるけど、邪魔だったな!引き戸を閉めたくても閉められなかったし。

 その日の朝、顔を洗って化粧水と乳液を付けたところで「あー、ベタベタして暑い!」と思ったので、そこに立ってみた。そうしたら、風が顔を撫でるのがはっきりわかるくらいに吹いて、乳液もさっぱりと吸収されていった。

 息子が吹く風を好きだったのは、夏に限らない。寒い時期でも、風に顔を当てたい欲求があるらしく、冬に換気のために窓を細く開けていると、そこに出向き、風がぴゅーぴゅーいうのも何のその、座り込んでいることもあった。

 それを「風ぴゅーしてる」と、うちでは呼んでいた。

 もちろん、寒くなればコタツに戻る。うちは毎年、猫の息子のためにコタツを出していた。「風ぴゅー⇔コタツ」が気に入っていたようだった。

 息子の最後の風ぴゅーは、2020年年2月1日のこと。その日は、風ぴゅー後、見守る私を引き連れて自宅内をぐるっと歩き、パトロールもした。私が座ったら、膝にも少しだけぴょんと跳ねて、乗った。

 うれしくてうれしくて。息子の痩せてごつごつした体を撫でながら、もしかしたらこれが膝に乗ってくれる最後なのかもしれないと思い、涙した。

突然、ごはんを食べなくなった

 2/1の時点で予感があったのは、週始めから、息子が自分からは、ごはんを食べなくなってしまったように感じたからだった。

 前回の⑫で猫友さんに来ていただいた1/22後も、息子は旺盛な食欲があった。自分で進んで息子スペースの食事場所に行き、ポタージュ状の流動食を、不自由な舌を使って周りにはね上げながらもよく食べていた。

 ただ、1/26(日)に私が家族に息子の看病を頼んで、午後から長時間外出。そうしたら、午前中はハナマル付きでご飯をよく食べた息子なのに、午後から食欲が落ちてしまったのだった。

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2020/1/26 私の外出前に撮影。息子は熱心に外を見ていた

 こういうことはよくあった。甘えん坊の息子は、世話係の私が外出するとごはんや、ひどい時はトイレも我慢してしまう。いつからこうなってしまったのかはわからないが、「我慢しちゃだめだよ~」とよく息子に言ったこともあったのだった。

 またそれなのかと、この1/26に帰宅した時も思った。ところが、息子は翌1/27になってもごはんを食べないどころか、水も飲まないのだ。

 癌のためにぷっくりと腫れた口元が急に気になったのだろうか? それとも、口内の方で、腫瘍が大きくなって障りになっているのだろうか。もしかしたら、舌が曲がっている関係で口内にたまりやすい食べかすを気にしているのかも・・・理由は分からなかった。

 お通じとおしっこはしていたのが幸いだったが、水も飲まないのでは心配だ。往診を頼むしかないと、以前もお願いした往診専門の獣医さんに、急だったが連絡した。

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ごはんのお皿を覗き込むクロスケ。でも、食べなかった (2020/1/27)
息子に、素人の家族が点滴することに

 すると、他に予約がある獣医さんの指示で、急遽、いつもの動物看護師さんだけが来てくれた。

 やはり脱水している様子なので、ステロイド剤を入れた点滴をすることに。そして、今後のこともあるから、私たち家族が息子に点滴できるように練習しましょう!となった。

 そうでした。飼い主が点滴したほうが、猫は楽なのだと獣医さんに言われていたのだった。確かに、精神的に怖くないかも。何しろ、この獣医さんが部屋に入ってきたとたん、私の膝でお漏らししてしまったこともある息子だ。

 覚悟を決めてトライすることになったものの、手順を注意深く聞いても、すぐに忘れそう・・・まずは息子に点滴する看護師さんの様子を録画することに。その後、タオルを丸め、息子に見立てて練習した。

 聞いた手順を、録画を見ながらリスト⓪~⑧にまとめたが、その手書きのリストを今読むと、所々、よくわからない。とにかく、「無菌エリア」には触れないように、輸液パックから60ccを注射器で吸い出して、その輸液パックを電子レンジで温め、そこにステロイド薬液を注入して・・・という準備があった。

 それをいざ息子に点滴する。肩から背中にかけて余裕のある部分の、皮膚の間に入れるイメージだ。この、親猫が赤ちゃんを咥えるおなじみの部分は、つかむとニャンコ一般はおとなしくなるそうだ。

 ここの皮を、3本の指で持ち上げる。「3指で△テントを作って持ち上げる。真ん中の指で作った面に、垂直に針を刺すイメージ」とメモの④に私は書いたのだが、むむむ・・・今やわからない。

 「刺すときには、小指を使って底辺を押さえ皮膚をピンと伸ばす。刺す面に対しては垂直だが、全体としてみると肩に対しては45度」むむむむむ・・・。

 こんな覚束ない理解で、息子に点滴?しり込みしたいが、やるしかなかった。

 アルコール綿で拭くと、生えている毛が分かれて道ができ、肌が見える。針を刺すのは2回まで。針先がなまってくると、息子も痛いし刺さりにくい。針の数も限られ、息子になるべく痛い思いをさせないよう、失敗して何回も刺すわけにはいかないと思うと緊張した。

 親猫に咥えられたように動かなかった息子も、こちらの緊張を感じ取って固くなっているような気がした。

 この1/27から隔日に4回、息子には点滴した。ステロイド薬液を入れたのはこの日と、3回目の31日だった。 

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑫

焼酎に化けた息子

 先日、育ちすぎてしまったベランダのユーカリを使い、お風呂に入れるチンキを作ろうと、焼酎に漬け込むことにした。ウォッカが良かったらしいのだが、焼酎でもいいらしいとYouTubeで知り、大き目の焼酎ボトルを買ってきた。その量4リットル。

 ペットボトルなので、まあ4kgの重さ。刻んだユーカリ入りの焼酎ボトルを、朝晩振る。緩んだ腹筋のためにもいいよね、と思いながら振っていたとき、癌を発症する前の息子とちょうど同じくらいの重みなんだなと気づいた。

 両手で持つと、ペットボトルの形状からも、まるで息子の両脇の下に手を入れて「高い高い」をしているような格好になった。抱っこもしてみる。

 この重さ、身に覚えがある。

 毎日のように膝にずっと乗っていたんだもの、実際とても重かった。焼酎ボトルだと載せれば煩わしい重みで、すぐにもギブアップだけれど、愛する息子だと思えば不思議なもの。連続4時間ぐらいは日常的に耐えたまま、パソコンを打っていた。

 もちろん、立たねばならない時は当然ながら降りてもらったけれど、暖かくうれしい重みだった。

 無機質な焼酎ボトルが、まさか息子の重みと体温(逆説的に)を思い出させてくれるとは。高い高ーいと、今日もボトルを振っている。

頼りになる猫友さん

 さて、前回⑪の続きだ。

 2020年1月。体力が思いのほか回復してくれた息子ではあったものの、その息子を残してどうしても外出しなければならない用事ができてしまった。ボランティア関係の研修で、関連の推薦もいただいての機会なので、私が放り出すことはできない。朝から晩まで、参加しなければならなかった。

 さあ、どうしよう。

 家族は仕事を調整して、半日で戻れるようにできるそうだ。とはいえ、残る半日も、今にも急変するかもしれない病身の息子に留守番させ、出かけることはできなかった。

 どうしようどうしようと悩んで、猫友さんにお願いして、来てもらうことにした。

 その方は、ご自身で保護猫2匹を引き取るにあたり、猫の飼育関係の勉強をして、資格も取ったという勉強家。そのうちの1匹を、1年ほど前に看取った経験のある方だった。

 当初は、その方が懇意にしているペットシッターをご紹介していただこうと思い、お伺いを立てたのだった。でも、その優秀なペットシッターの担当地域にうちは入らない。残念、どうしようと思った時に、猫友さんご本人が申し出てくれたのだった。

 病気で痩せ細った息子を見ても、気味悪いなどとは思わず看病してくれそう。快く引き受けてくださったのには、心底ホッとした。

 研修2日前の1/20、下見に来てもらった。

 その日は息子の食欲もバッチリ、本当にこのまま元気になっていってくれるんじゃないかと夢のようなことまで思ったぐらい、元気だった。もしかしたら、猫友さんに格好いいところを見せようとしていたのかな? おしゃべりに花が咲き、息子はのんびりしていたように思う。

いよいよ、息子のお留守番

 そして当日の昨年1/22。10時から14時までの4時間は大丈夫とのことで、9時半ぐらいには来てくれたと家族から聞いた。

 ありがたく、家族は予定よりも早く出勤。そのあとの息子の様子については、猫友さんが詳細にメモを残してくれた。

 9:55にトイレ(小)。10:00に廊下をパトロール、リビングへと移動、テレビ前にしつらえてあった息子用ベッドもどきにてお休み。しばらく寝たらしい。

 10:40に全豪オープン大坂なおみが勝つと、さすがにその放送の音に起きたらしく、立ち上がって窓から外をしばし眺める。キッチンに移動して、また座る。

 11:15、ごはんを食べる。窓際の息子スペースに移動して食べたのか、キッチンでそのまま食べたのかは不明。11:20には人間用トイレの横にあるトイレに行き、大。猫友さんが片付け中に戻り、小。

 息子はこのパターンが多い。大を片付けないと、小を我慢してしまうことが多くなり、それがシッターさんを頼まねばと思った大きな理由の1つだった。猫友さんは、きちんとすぐに片づけてくださり、ありがたい。

 11:30、玄関の方を気にしながらキッチンで座る。たぶん、家族の帰りを待っているポーズだ。

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猫友さん撮影の、キッチンから廊下に身を乗り出して座っている息子(2019/1/22)

 11:50、宅配便が来た。「何度も鳴らすので、サインして受け取りました」とメモがある。宅配便屋さんが帰って後ろを見たら、息子が玄関近くまできていて「うぉーんうぉーん」と鳴くので、息子がパパが帰ったのかと思ったのかなと「ごめんね、パパじゃないよ」と猫友さんが言うと、「うぉん!」と一声、リビング方向に戻ったと。

 息子はそのままリビングを突っ切り、窓際で外を見ていたそう。「パパとママの帰りを待っているのかな」とメモがあるが、待っているのはきっとパパの方なんですよね。いつもそうなので・・・。

 自虐でもひねくれているわけでもない。事実として、息子は極めてはっきりしたところがあり、私の帰宅時、玄関へと途中までは勢いよく来るのだが、私と分かったところで踵を返すのだ。いやー、鮮やかなくらい。

 一方、家族が帰ると甘えん坊全開で大変だ。玄関から外に飛び出してしまうのではないかという勢いで、たたきにまで下りる。危ないよ、と何度も声をかけるほどのストーカーっぷりで、家族はとても歩けないと嘆く。それくらいギャップがあるのだ。

 ただ、宅配便のおじさんも大好きで、荷物を点検するのが自分の係だと思っている節があったので、点検をしたかったのかもしれないなと思う。

 さて、正午。猫友さんがコタツに座っていたら、横に来て入りたそうなしぐさをするので、布団を持ち上げたら息子はするっと入り、中で横になったそうだ。

 1月22日の話だから、当然寒い。コタツで暖かくしてもらった方がこちらは大安心だ。猫友さんが時々中を見ると、息子は横になりつつ猫友さんと目が合う感じ。やはりリラックスしきれないところもあるだろうが、それでも一緒のコタツに入るなんて、打ち解けている。

 12:50、自分からコタツを出た息子は、少しだけごはんを舐め、またトイレに移動して大。13:05、またキッチンに移動して待ちポーズ。13:20、家族が帰宅。息子は歓喜のお出迎えだったろう。

 本当に不思議なことだが、家族が帰宅する少し前には、いつもちゃんと位置について待ち始める息子。猫族のみなさんは、耳が良くて何かが聞こえるのでしょうかね。

 猫友さんは、息子に語りかけ続けてくれたそうで、そのおしゃべりに心がほどけたらしい。少なくとも害はない、私と同種だと思ったかもしれない。猫友さんも、息子がキリっと誇り高くしていた、みたいなことを言ってくれた。有難い有難い。

 この日は水曜日だった。こんな穏やかな日が、ずっと続いてほしいと思っていたが…その2週間後の水曜日に息子のお弔いをすることになるなんて、その時は思いもしなかった。

 

息子の知らない冷蔵庫

 唐突に、冷蔵庫を買い替えることになり、昨日量販店に行ってきた。

 今の冷蔵庫を使い始めたのは、現在住んでいる住まいの前の場所に入居した時だったと思う。そこを東日本大震災を機に引っ越して出たのだが、そこには5年は住んでいたような気がするので、15年以上は使ったことになる。

 冷蔵庫の寿命ってよくわからない。「電気代が気になるなら、一番電気を消費する冷蔵庫を新しく買い替えましょう」と聞いたことがあるので、10年以上も使っていることが、少々気にはなっていた。

 まだ使えるのかもしれないね、でもゴメンナサイね。明日新しい冷蔵庫がやってくる。中身を全部出して、クーラーボックスに入れなければ。

 今の冷蔵庫は、新品のが届くのと引き換えに業者が明日引き取る。リサイクルに出されるのは分かっているのだが、埃だらけなのも運ぶ業者さんに悪いし、どうかと思い、少しお掃除シートで拭いた。特にてっぺんは埃がたまっていた。

 椅子に乗って上辺を拭いていたら、何やらビニール袋が扉の上部分から外にはみ出していた。

 開けてみると、扉の最上段の棚には、亡き息子のモニラックシロップが新品のまま入っていて、その包みのビニール袋が顔を出していたことが分かった。シロップと、そして使い切りタイプの息子の目薬も、新古品状態で見つかった。

 どうしよう・・・息子の物となると、途端に手が止まる。今日はちょうど、18回目の月命日だしね。もう、1年半が経過していたとは。

 この冷蔵庫の扉に映る自分の姿を見て、息子はクルクル回って自分の尻尾を追いかけ始めたり、扉に向かって威嚇したりしていたことがあったなあ。

 またひとつ、息子の知っている物が家から無くなるんだなあ。

 息子が死んでから、こんなに大きな家具の変更は初めてかもしれない。こうやって、徐々に息子の見知らぬ家になっていくのだろうか。

 そんなことはないか。人間は変わらないんだしね。

 でも、息子が知らない家に住むとしたら、ちょっと嫌だ。ここも、今の冷蔵庫が来た前の家も、その前も、息子と一緒に暮らしていたんだものね。ずっと一緒だった。

 この家も、その前も、リノベーション工事中は仮住まいをする必要があったから、そこも数えると、結構引っ越ししてますね、息子さん。

 新しい家に移るたび、息子は念入りに点検をしていた。新しいルンバが来た時もそうだった。点検しすぎてルンバの箱が倒れ、びっくりして1メートルぐらいも飛んで逃げたっけ。

 そのびっくりぶりが、こちらにはびっくりだった。

 昼間ネットで見た、オリンピックのピクトグラムのパロディー「Nekonadenade」(開会式で話題 ピクトグラム「新競技」、SNSで続々(産経新聞) - Yahoo!ニュース)で息子を抱っこしたくてたまらない気持ちになっていたから、寂しい。月命日だし。 

 シロップと目薬、とりあえず判断は先送りして、そのまま次の冷蔵庫にもしばらく入れておくことになりそうだ。

 

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑪

息子が落としたガーベラの花

 オリンピックの東京2020大会が始まった。今年はもちろん2021年、周知のとおり、コロナ禍がなければ、本来ならこの大会は昨2020年に行われていたはずだった。

 息子と一緒に大会観戦をしようと、その前年に買い替えたテレビ。テレビ前にあるソファに今、息子は寝転がっているだろうか。夏だから、びろーんと全身思い切り伸び切って。

 いや、ソファじゃないな、床ですよ床。風の一番通る涼しい床に、お腹を見せて広がって寝ていると思う。

 こうやって書いている今も、姿が見えなくなった息子は一緒にいるはず。台風の風が吹き抜けた窓から外を見上げ、天を眺めていると信じたい。

 ちょっと先走るが、息子の火葬を済ませ、しばらく経った頃のこと。魂は一緒にいるんじゃないかと思い、おーい、と息子に呼び掛けてみたことがある。

 高校時代のクラスメートに霊感の強い人がいて「昔の飼い猫とか、普通に家の中を歩いているよ」と言うので、目を丸くしたことがあった。彼は家族みなが霊感が強いので、そんなものだと思っていたらしい。

 私は霊感など何もない。だけれどその話を思い出し、洗い物をしながら、リビングやベランダへと見通せるキッチンの小窓から、誰もいない(はずの)リビングに向かってこう言ってみた。

 「クロスケ、いるんでしょ? 何か、何でもいいから落としてみて。そしたらママもわかるから。やってみて」

 すぐには何も動かなかったので、そんなバカなお願いをしてもね・・・と思ったところ、しばらくしてガサッと変な音がした。

 見ると花瓶にあった花の中の紫のガーベラが1輪、不自然に花の根元から落ち、茎と葉が残っていた。花瓶は、息子のお骨を置いた棚の前にある、コーヒーテーブル上に置いてあった。

 そんな風に落ちたガーベラは、見たことが無かった。他の花は何ともないし、高さから言っても、クロスケがコーヒーテーブルに上って一心に鼻で小突いて落としたとしたら届く。花の中央も、不自然にばらけていた。

 人為的というか猫為的? それを見て、涙が噴き出た。

 「わかった、わかったよクロスケ。本当にいるんだね、ママ信じてるよ」ともう1度、リビングに向かって言った。声が響いた。

 今思えば、ちゃんと写真に撮っておけばよかった。秘密にしなければならないとでも思ったのか、何を考えたか、私は慌てて片付けてしまったのだった。なんでだ。

 これを書いている今日は7/27、ちょうど2年前の7月、息子は扁平上皮癌の発症が確認された。この日は、手術前の入院が始まっていた。手術できるかできないか、貧血の状況をにらんで人生で一番やきもきしたかもしれない微妙な時期だった。(1年前の7月、愛猫に扁平上皮癌が見つかった⑤ - 黒猫の額:ペットロス日記 (nekonohitai.tokyo)

 思い出すと、やりきれない。人生でまさに最悪の選択をしてしまった頃だと思うと。取り返しがつかない結果として、もう息子は天に帰り、いるとしても床で伸び切っている姿は見えず、抱っこもできなくなってしまった。

 この思考に陥ると、なかなか這い上がってこられない。

2020年1月を奇跡的に迎えた

 さて、前回⑩からの続きだ。手術から5か月が経ち、無理かもしれないと思った2020年への年越しを、息子は果たした。奇跡的だった。

 元旦には、朝4時からお通じもあり、ごはんもちゃんと5回食べている。お風呂マークがカレンダーに書いてあるので、新年でもあり、息子をお風呂に入れて、さっぱりさせたようだ。

 息子がまあまあ落ち着いていたからだと思うが、三が日に私はひとりで短時間外出し、その帰りに思いついて駅近くの神社に寄った。

 初詣というか、せっかく近くまで来たので息子のことをお願いしたかった。ところが、多過ぎる人が列を作って遠くまで並んでいたので、あきらめて境内を通り過ぎて帰ろうとした。

 その時、貼り出してあった年回りの表が目に入り、立ち止まって見て、気づいた。私も家族もクロスケも、3人ともが2019年は「八方塞の年」だったのだ。

 えええええ・・・今更気づいても。毎年のお札はいただいてお祀りするけれど、そこまで熱心でもなく、気づいていなかった。だから、八方除けのお祓いはしなかった。しまった、それでクロスケが家族の3人分を一身に背負ってしまったのかな・・・そう思って愕然とした。

 でも、もう八方塞の2019年は明けた。節分で年が切り替わるとしても、残るところあとひと月。「クロスケ、あと1か月頑張れば悪い年は終わるよ、頑張ろうね」と、帰って息子に話した。

息子が吐血➡点滴でV字回復

 2020年1月10日には、久しぶりにホメオパシー獣医を受診して、注射を打ってもらっている。内容は、何だったか・・・確か、癌が小さくできたらいいのに、と言ったらそれを打ってくれたように思う。ホメオパシーの薬は、説明が難しいしわからない。

 こちらに伺うには距離もあるので、息子をそこまで連れ出して受診できたということは、曲がりなりにも体調もそれなりに持っていたはず。体力を奪うので吐かせないように、便秘をさせないように気をつけて、毎日を過ごしていた。

 この頃、私は自分の布団をリビングに敷いて、夜はそこで寝るようになった。すると、顔を拭いたり薬を飲ませたりする私のことをどちらかというと避け気味だった息子なのに、私の腕枕で寝てくれるようになったのだった。

 これはうれしかった。人生初。「こんなに幸せなことがあるか」と手帳にはメモがある。

 このメモを書いた14日は、クロスケは4回もお通じがあり、うち2回は下痢気味だった。これには訳がある。2日前、便秘解消のために処方されていたモニラックシロップを、家族が間違えていっぺんに2cc与えてしまったのだった。多すぎる。

 青くなって、日曜日だったのでネットで相談できる獣医を探して聞いた。「Just Answer」というサイトで、「頻回少量の水分補給を」とのアドバイスだった。すぐには大事には至らなかったように見えたが、そのシロップの影響が、2日後の14日に出たらしかった。

 余計に体力を消耗させてしまったのではないかと、とても心配だった。

 関連は不明だが、15日朝、息子は大量に吐血した。鮮やかな赤い血で、口腔内の癌からの血なのか、それとも胃から吐いたものなのかわからなかった。すぐに出血は止まったようで、息子はいつもの澄ました顔を普通にしている。

 それでもこちらは「とうとう来る時が来たのか」と緊張した。この15日は昔実家で飼っていた猫の命日。その子は、私の腕の中で死んだのだった。それを思い出し「クロスケ、一緒に乗り越えよう!もうすぐ節分、八方塞も終わるよ」と言ったが、息子はポカンとしていた。

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2020/1/15 落ち着いて寝ているクロスケ

 心配だったので、翌16日は往診専門の獣医さんにお願いし、来ていただいた。

 前年夏の手術後、息子が退院したころに、抗生剤アモキクリアと下痢のバランスで苦労して、注射で2週間効く抗生剤コンべニアを打ちに来てもらっていた獣医さんだ。息子の在宅医療では、ゆくゆくはお世話になるだろうなとは考えていた。

 口の中をチェックしてもらったが、口内に出血点は見当たらないという。出血の仕方から、胃潰瘍ではないかと。鎮痛剤として飲ませているステロイドが関連するかもしれないと聞いて、使い過ぎたのかと心配になった。

 こちらの往診の獣医には、胃薬のガスター、吐き気止めのプリンペランとセレニア、抗生剤のビクタスの飲み薬を処方してもらった。また、息子は点滴もしてもらったのだが、ガスター注、プリンペラン注、セレニア注のほかに、抗生剤のエンロフロキサシン注、そして止血剤のアドナ注も入っていた。

 その時に、「お父さんお母さんがする方が、本人(猫)は気が楽にできて良いんですよ」と言われたものの、「素人がいきなり点滴なんかできるわけないよね」と内心では思っていた。

 息子は、元気を取り戻した。1月18日には「クロスケ、すごい食欲!!」とアンダーライン付きでメモが書いてある。薬が効き、まさにV字回復だった。

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食事中のクロスケ。口元に白く癌が見えるが、ここまで抑えられていた(2020/1/15)



 

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑩

2人の獣医さんに見守られ、持ち直した12月

 2019年11月30日から、鎮痛剤のメタカムに代わってステロイドを与えることになった。高齢猫である息子の腎臓が持つかどうか、心配だったからだったと思う。その変更は、手術を受けた動物クリニックのS先生も、ホメオパシー獣医も双方が賛同してそうなった。

 鎮痛剤がそんなに腎臓に負担だとは。腎臓の寿命がその個体の寿命を決めると、確かNHKスペシャル番組(タモリが出ていたような?)で見たような気がする。(探してみたら、ありました↓)

 高齢猫である息子の腎臓を気にして、麻酔の回数も決まってくるようだったし、それでなかなか踏み込んだ治療もできない場面もあって歯がゆかったことも正直あった。では、早々にステロイドにしちゃえばいいじゃん!という訳にもいかなかったんだろうけれど、未だにここら辺の判断が良く分かっていない。

 獣医さんならわかる、当たり前があるんだろうな・・・説明を受けたのかもしれないが、忘れてしまった。いや、もしかしたら、この頃はもう何を聞いてもそもそも頭に入らなかったのかもしれない。

 そのステロイド投与が始まったことで、11月末でお別れかと一時覚悟もした息子が、何のこと?と思うくらいに回復したのだった。緊張で目が見開きっぱなし、頭ガンガン、めまい発作でフラフラのハイパー状態だった飼い主も、ホッと肩の力が抜ける思いだった。

 例えば、「ステロイドのお陰で持ち直しています」とホメオパシー獣医に電話で報告した12/5は、息子クロスケは、ほたて貝柱や介護用メルミルなどの「カクテル流動食ごはん」を8回(0:20、4:00、8:30、13:10、15:20、17:05、18:50、21:25)も食べ、おしっこも9回、お通じも花丸付きを1回している。穏やかな1日で、うれしかった。

 11月から飲ませ始めていたホメオパシーの不思議な薬は、電話で病状などを伝えて追加を送ってもらうようになっていた。薬を出してもらったのは、11/21、12/5、12/17、2020年1/10、1/21、そして2/3。初診以外は息子は行く必要が無く、それが助かった。息子は病院に行くだけで毎回おもらししちゃうくらい怖い。久しぶりの初診でもそうだった。だから、できるなら行かせたくなかった。

 一方で、S先生の方を完全に切った訳ではなかった。

 ただ、もう息子クロスケを連れて行って受診させることはなかった。最後にS先生に診てもらったのは、たぶん11/16。その後は、ステロイドと、甲状腺機能亢進症のためのメルカゾールをS先生に出してもらい、家族が薬をもらいがてら、息子の様子を相談しに行っていた。

 11/30、12/6、12/13、12/28、そして2020年1/11の、S先生のクリニックの診療明細書が残っている。12/28にイーケプラを出してもらっているのは、おおむね穏やかに過ごせていた息子が12/17に久しぶりにてんかん発作を起こしたので、念のためお守りとしていただいた。

 その日、朝5:30に発作が起き、息子は失禁。床で大暴れ状態になり、見守るこちらも真っ青、メンタルダメージは大だった。

 が、慌てないよう自分に言い聞かせながら、指示通り息子が舌を噛まないように気をつけつつ、バスタオルでくるみ、落ち着くまで抱っこした。残っていたイーケプラとステロイドを与えて一安心・・・かと思いきや、また夜21:30にも発作が起きてしまった。

 朝の発作後、息子が落ち着いてからホメオパシー獣医に電話で相談、ホメオパシー薬を調整して送ってもらった。

 その発作が起きた12/17は、流動食ごはんも5回だけ。気づくと、12月上旬には7~9回はごはんをねだって食べていたのに、12/12の5回を境に減り、12/13は3回しか食べていなかったので、少し気を揉んでいた。

 もちろん無理には食べさせず、月末まで息子のごはんは毎日4~5回。量が減っても、ちゃんとコンスタントに食べてくれていることに感謝だった。

息子の清潔を保つには

 相変わらず、食べると周りにも自分にも盛大に撒き散らすことになるが、とはいえ息子も、食べ方が慣れてきているようだった。

 こちらも、ガーゼとボールに入れたお湯、そこに消毒スプレーも準備して待機、終わった頃合いを見計らってきれいに拭いた。

 息子は拭かれるのが嫌なんだろうなと思っていたが、例えば息子が食後に口を手で拭ってしまうと、ごはんが手先の毛の間で、毛も巻き込んで硬い固まりになって残る。通常の猫のように、自分の舌を自由に操って手先のごはんを舐め取れたらいいのだが、それが息子にはもうできない。

 その、体中のあちこちに残ったごはんは、息子にとって気持ちいいはずはなかった。

 ごはんが固まってしまったら、その部分を濡らして緩め、細かいコームでとかして除去しなければならない。その予防に、食後にはある程度、息子をせっせと拭いてしまわないと仕方なかった。

 あまりにもごはんがべったり付いていると、ガーゼで拭うぐらいでは間に合わない。毛の奥に押し込んでしまうだけになってしまう。そうすると、洗面器か大き目のボールにお湯を用意して、そこに両手を突っ込んでもらって洗うしかない。

 お風呂に入れられたら一番いいのだが・・・お湯とはいえ、冬場に手先を濡らされる息子は、不機嫌そうに一声「にゃー」と言う。文句は言いたいのだろうけれど、その実、気分は良さそうに見えた。

 口元右側の癌の再発部分は、残念ながらぷっくりと風船のように膨れてきていた。そのドームのように出てきた部分にも、ごはんがぱりぱりと張り付く。そこはお湯に浸したガーゼで丁寧にぬぐい、さらに消毒液のガーゼで慎重に拭いた。

ウルトラ隊員、クロスケ

 この頃はもう、瘦せた息子の体重を測ることもなかった。部屋の中には、息子がどこでもすぐに横になれるようにあちこちに猫ベッドらしきものをしつらえた。少なくとも6カ所。他に人間用のソファや座椅子、座布団もあったので、そこでも横になれた。

 痩せた息子がどこで横になっても痛くないようにしようと、猫用の半纏やら洋服をペットのコジマで買ってきて着せた。サイズを合わせたり、ヒモの代わりに着脱しやすいようにマジックテープを付けたり工夫した。

 ごはんで汚れるたび、息子はお着替えだ。「何を着ても可愛いな、うちの息子は」と愛おしくて仕方なかった。

 ちょうど12月、冬用のペット服は厚みがあっていい。ただ、ある服は長さはちょうどいいのだけれども横のサイズがぶかぶか。ちょうど背骨のあたりに沿ってつまむ形で縫ったところ、元々の生地の感じも手伝って、なんだかウルトラマンに出てくる隊員の衣装みたいに見えた。

 窓際に置いた座布団に座り空を見上げることの増えた息子が、そのウルトラ隊員の衣装もどきを着て外を一心に見ていると、空にいる仲間と交信しているようにも見えた。

 そんな様子を見るとたまらない。駆け寄って「そろそろお空に帰っちゃうの? もうちょっと待ってよね、クロスケ」と交信の邪魔をすること数回。竹取物語で月に帰ると言うかぐや姫を引き留める翁のようだ。

 そして、こちらを無言で見返すウルトラ隊員もどきの息子。任務を邪魔しないでくれと言わんばかりで、かぐや姫のように日ごとに気高さが増しているようだった。

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てんかん発作が起きた日、日課の窓から外を見る。雪だるま模様のちゃんちゃんこを着て(2019/12/17)

 

扁平上皮癌になった愛猫を、天にお返しした⑨

息子のジューサー

 この6月で、息子クロスケは20歳になるはずだった。猫の20歳。超えたら化け猫「猫又」になるんだったっけ?尻尾が2つに裂けて(痛そう!)、話ができるようになるんだったか。猫又になった息子とは、是非とも喋りたかったな・・・「子離れしろ」と一喝されただろうけど。

 今日、息子の流動食を毎日作っていたジューサーで、バナナスムージーを作った。バナナを凍らせておいて、豆乳を流し込み、スイッチを入れる。ボトルからスムージーを飲み終えたら、ボトルやブレンダーの刃がついている部分を洗う。そうそう、穴に串の先端を入れてパッキンを外して洗わないといけなかったよね・・・。

 こういった一連の簡単な動作が、息子専用の道具などに触れると、今もぎくしゃくする。今日も最初は何ともなく行けるかと思ったが、途中から涙をこらえながらになった。「ごはんー、ごはんー」と足元で催促する息子の姿がパッとたちどころに浮かぶからだ。

 元々は、家族の野菜不足を補うために買ったジューサーだった。そのボトルのまま、フタだけ取り換えて仕事にも持って行ける小ぶりなサイズ。色もビタミンカラーで可愛いし、いちいちバーミックスを出す必要が無く、重宝していた。それが、サイズ的にピッタリでもあり、いつの間にかクロスケのごはん専用になっていたのだった。

 昨日も、ちょっとココナッツオイルを入れる小さめなガラスの器が必要だなと考えて食器棚から手に取ったのは、息子の薬をいつも溶いていた器だった。そこでまた、しばし立ち尽くすことになった。

 家の中はあちこち息子の痕跡だらけ。昨年2月に息子が死に、気づいたら世の中はコロナ。家で仕事をしながらの引きこもり生活が1年以上も続き、ずっと息子三昧だ。なんと幸せなことか。

闘病生活、後半戦

 2019年10月末、1センチ×1センチの扁平上皮癌の局所再発が確認されたとき、息子の肝機能の数値は、意外にも半月前よりもかなり改善していた。10/15に231.0だったGPTは101.0と半分以下、GOTは56.0➡ 34.0と正常値になり、ALPは234.0➡ 194.0とまだ高いながらも大幅減。S先生が考えたのは、その回復の流れに乗っての、11月上旬のセンダイウイルス治療の導入だったのだろう、きっと。 

 そこで私が踏ん張れなかったのは、前述の通りだ。いや、むしろここまで検査結果が改善しているのだから回復をしていると考えて、「センダイウイルス治療で無理をさせなくても、紅豆杉だけでも行けるのでは」と思ったのかもしれない・・・よく覚えてない。

 手元に取ってある息子クロスケの血液検査結果は、この10/29のものが最後。息子が泣こうが喚こうが、センダイウイルスを続けて注射していたら?もっと良い検査結果を見ることができたのだろうか。

 ウイルス治療を諦めてすぐの11/10は、息子クロスケの体調は良かったらしく、記録によるとお風呂に入れている。猫タワーにも登ったと書いてある。息子は、トイレの後に自分でお尻を舐め、きれいにもしたらしい。家族の字でそう書いてあった。

 これは、下顎半分を手術で失って、いきなり方向性の定まらなくなった舌を操る必要が出てきた息子にしては、すごいことだった。舐めたいところが舐められなくなっていたから、ストレスがたまっていたはず。それが、とうとう狙い通りにできるようになっていた。すごいよ息子。

 この頃は、少しずつ2~3時間おきに流動食を与えていて、日付をまたいだ午前2時とか3時ごろまでは夜型の私が、その後は早起きの家族が5時とか6時の息子の求めに応じてごはんを用意していた。トイレもちょっとずつ、ちょこちょこ行っては「出たよ~出たよ~」と本人からその都度のお知らせがあり、また吐きやすいのでその始末もしなければならない。息子も大変だったが、世話をする側も寝不足が続いた。

 11/12~14には、少しではあったのだけれど、口から出血。どこから血が出ているのかわからないのが不気味だったが、癌部分からの出血ということも今後はあるだろうと覚悟しなければならないとは思っていた。

 15日からは血が止まり、落ち着いた5日間が過ぎたが・・・私のめまい発作が再発してしまった。23日には合唱の公演本番も控えていたので週末は毎週練習があり、12月2日には大事な仕事のミーティングもあったため、準備もあった。

 息子に毎日与えていた鎮痛剤のメタカムを1日おきに与えることになったのは、11/21。あまり痛くなさそうで、要らないようなら消化器症状やそろそろ限界が来るかもしれない腎臓との兼ね合いで、漫然と与えず様子を見ていこうとホメオパシー獣医と話をしたのだったと思う。

 23日の様子については当時、ブログにこう書いていた。(猫と3人(匹)での結婚記念日 - 黒猫の額:ペットロス日記 (nekonohitai.tokyo)

 (息子が猫型でなく)人間型だったら・・・。18歳と半年で見送る心の準備をしなくても良かったのにな・・・。

 ホメオパシー獣医に飼い猫を連れていってから2週間が過ぎた。2週間程度で腎臓に限界が来るかもしれないとの話だったので、少しヨタついて歩く後ろ姿にも、身構えてしまう。

 でも、とにかく生きてくれている。がんも、表立ってはひどくなっていないというか、見た目の変化はない。私たちの29周年は、おだやかによく食べて一緒にいてくれている。口回りや手についた食べこぼしを拭きとると、相変わらず威勢よくシャー!!と怒ってくる。

 食べてよく寝る、かわいい我が猫型息子だ。

11月末、弱っていく息子

 息子は嫌いなメルカゾールが朝晩の計2錠ではなくて1回1錠だけに減らされて、一時はマックスだったこちらに対する怒りの感情も薄れ、穏やかな表情も見せるようになっていた。しかし、落ち着いていたように見えた息子が、実は徐々に弱っていたらしい。

 メルカゾールを半減させてしまったことで、引き換えに確実に体力が消耗したのかもしれなかった。1日当たり9回前後も少しずつのごはんを食べる元気はまだあったが、24日と27日の夜に吐いた息子は、30日には見るからに弱ってしまった。

 「クロスケは、もうダメかもしれない」と初めて思ったのはこの頃だった。自分もめまいで焦点が定まらずフラフラしているところに、息子を失うかもしれない恐怖。取り返しのつかない、張り裂けんばかりの気持ちで、12/2の仕事のミーティングも無理無理のところを頼み込んで、延期をお願いした。

 当然ながら先方には呆れられてしまい、仕事は流れ、信頼を完全に失うことになってしまった。が、どうしようもなかった。頭の中は涙で詰まり、判断力は失われていた。

 その30日、獣医の指示でステロイドを与えた。おかげで、するすると手の平からこぼれ落ちそうだったクロスケの命は、一旦つなぎとめることができた。 

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横はぴったり、丈が足りない「隊員服」。背中にホカロン(2019/11/24)

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大好きな家族の膝で、とてもうれしそうなクロスケ (2019/11/24)

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ヨロヨロしながら何とか「買い物点検」職務を果たそうとする(2019/11/30)

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