黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

【どうする家康】#44 家康が徳川SDGsに目覚めた10年、秀頼は大成長

母に欺かれていた家康

 NHK大河ドラマ「どうする家康」は第44回「徳川幕府誕生」が特別なオープニングと共に11/19に放送された。今回だけのスペシャルバージョンだそうな。今回は1600年の関ケ原の戦いが終わってのひととき、というよりも1611年に手が届く10年もの期間がブワーッと一気に巻き気味に描かれ、家康の母・於大、股肱の臣の平平コンビ(本多忠勝、榊原康政)、そしてドラマでは出てこなかったが家康の息子らが死んでいった。

 この間、大坂方の豊臣秀頼が確実に成長していく。一方、家康は天下を返さぬための手を打っていった。

 あらすじを公式サイトから引用する。

家康(松本潤)は大坂城で、関ヶ原の戦勝報告を行う。茶々(北川景子)から秀頼と孫娘・千姫の婚姻を約束させられ、不満を隠せない。時は流れ、征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた家康。ウィリアム・アダムズ(村雨辰剛)らと国づくりに励むが、秀忠(森崎ウィン)の頼りなさが不安の種。そんな中、忠勝(山田裕貴)が老齢を理由に隠居を申し出る。一方、大坂では大野治長(玉山鉄二)が茶々の下に戻り、反撃の機会をうかがっていた。(これまでのあらすじ | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK

 家康は、秀頼への関ヶ原の戦勝報告の際にこう言って頭を下げた。あくまで豊臣の大番頭の体だ。

家康:天下の政は、引き続きこの家康めが相務めまするゆえ、何卒よろしくお願い申し上げまする。

茶々:誠に結構。・・・毎年、正月にあそこにお背丈を刻んでおりましてなあ。(略)あと十年もすれば、太閤殿下に追いつこう。さすれば太閤殿下の果たせなかった夢を、秀頼が果たすこともできましょう。それまでの間、秀頼の代わりを頼みまする。

 あなたはあくまで秀頼の代わりだから忘れるんじゃないよ、と念を押されたのも衝撃だったが、また朝鮮に出兵する気なのか、と空恐ろしくなった。そんな自身の意志の無い、ただただ亡き父の夢だからということで海外出兵をされては、日本が滅んでしまうよね。

 もし秀次が生きて「秀頼の代わり」だったら?とも考えたが、やはり秀吉の遺志に縛られてしまう豊臣の人たちでは長続きもしなかったな。日本は徳川で良かった。

 去り際、家康は孫・千姫の秀頼への輿入れを茶々にせがまれた。秀忠は「ようございましたな、茶々様も徳川と豊臣がしかと結ばれることを望んでおられる。これで安心じゃ、よかったよかった」と喜ぶが、「早う人質をよこせと言っておるんじゃ」と家康は不機嫌だ。きっと「秀頼の代わりをお願い」と茶々に念を押されたこともあるのだろうし、茶々の真意が汲み取れない息子秀忠にもイラ立っている。

 困難を増す豊臣との関係に、本多正信は、征夷大将軍となることを家康に提案。足利将軍がその権威を落としてしまったが、幕府を開けば武家の棟梁として「やれることはずいぶん増える」のは確かだと。

 家康は、徳川が武家の棟梁、豊臣はあくまで公家として住み分けができるのではないかと模索。つまり、ドラマの家康は、この関ケ原直後の時点では豊臣を潰そうとは思っていなかったのだね。

 そうそう、1602年に寧々、都に招かれた於大、家康の三者が会った時に、寧々は家康に「やはり将軍様は寅の方がようございますものな」と口にしたのはどうしてだったのだろう?もう家康が征夷大将軍になることは、その時期、寧々を含め、周りにも意識されて既定路線だったのだろうか?それとも、単なる軍団の中の一般名詞としての将軍だったのか。

 この時、家康母・於大は、家康が実は寅年生まれじゃなくて兎年生まれだと寧々に打ち明けた。それを聞いていた家康は、「寅の年生まれの武神の化身」とのアイデンティティを、まさかの母に突き崩されポカーン。かわいそうに、子としては為す術もない。

 ふと考えると、長いこと主人公が信頼できるはずの人の嘘にまんまと騙されていた点で、昨年の「鎌倉殿の13人」での「おなごは皆キノコ好き」に騙されていた北条義時を思い出す。

 あれも、真っ赤な嘘が暴かれたのはラスト前ぐらいだったか。年数で行くと家康が騙されていた方が長そうだし、母という存在が子に対して生まれの嘘をつくのは罪深い気がする。

 過去の「すべて打ち捨てなされ」と家康にかけた過去の言葉を悔い、於大は「もう捨てるでないぞ、そなたの大事なものを大切にしなされ。一人ぼっちにならぬようにな」と言ったのが救いだ。もう遅い気もしないでもないが。

 この3か月後に於大は家康に看取られて死んだという。やはり老人の旅は命を削るものだね。もう一息で家康は「征夷大将軍~(今年は誰もやらないのか)」だったのに。

 家康は1603年に幕府を開き、若い世代の「戦以外の才」「太平の世を担う才能」に恵まれた優秀な人材に囲まれ、江戸を拠点に国づくりは盛んだ。ウィリアム・アダムズは一瞬の登場で、もうちょっと出してくれないかと思った。

 イカサマ師の息子・本多正純は、父・正信と同じように扇子で首を叩いているが、大久保忠世にまっすぐ育てられ、父を不埒と呼ぶ。あの律義さで身を滅ぼしていくんだね。

平平コンビも涙の退場、四天王サヨウナラ

 本多忠勝は生涯57度の戦いに出ても無傷だったという。それが、死の直前につまらないことで傷を負って、死が近いことを悟ったという。それに近いエピソードが今回は再現されていた。たぶん愛用の蜻蛉切を手入れしていて、忠勝は手を切った。

 前回、オイラこと井伊直政がフラグを立てていたと思ったが、忠勝が榊原康政と話すセリフ「関ヶ原の傷がもとで死んだ直政は、うまくやりおった」の中で、視聴者に直政が没したことが伝えられた。

 「島津の退口」で負った重傷の無理を押して戦後処理に奔走、関ケ原の戦いの2年後には死んだ直政。何事にも完璧主義で、家来は悲鳴を上げていたと聞くが、コントロール欲が強そうでDV気質が垣間見える。誰かに任せて大人しく寝ていられないで、傷が治るわけもない。体力が削られてしまうよね。逆に、そうできていたらもう少し長生きできただろうに、惜しい。

 直政は四天王の中で一番若いのに、アラフォーでの死。本多忠勝、榊原康政も心情的に堪えただろう。彼らも、1548年に生まれ家康より5歳も若いのに、アラカンで死を迎えるとは(康政1606年没、忠勝1610年没)。徳川四天王は、大坂の陣を前に、皆いなくなっていた。

強くて頭も切れる、榊原康政が惜しい

 「どう家」を見ていると彼らがどんな立場に就いていたのかがフワッとしているのだが、ウィキペディア先生で確認すると、康政(榊原康政 - Wikipedia)は北条攻めの後は関東総奉行の地位にあり、関ケ原の戦いでは秀忠軍の軍監、戦後は老中。徳川家中の重鎮としてずいぶん忙しそうだ。

 ドラマでは1603年の時点で「もう我らの働ける世ではないのかもしれんぞ。殿の下には新たな世を継ぐ者たちが集まってきておる」なんて気弱なことを言っていたが、ドラマみたいに、桑名の忠勝の下にしょっちゅう来る暇があったのだろうか。

 康政は、老獪な本多正信と共に、ハッピーな秀忠の相談役を務めていた様子が面白かった。ウィキペディアでは、康政の主君は「家康→秀忠」と書かれていた。「私も、秀忠様にご指南申すのが最後の役目と心得ておる」と言っていたように、知恵の働く康政に、正信と共に秀忠を教育してもらいたいのは家康の意向だろう。(ちなみに、忠勝の主君は「家康」だけだった。)

 関ケ原では秀忠の率いる徳川本軍が間に合わなかった。が、あるいは家康の東軍が負けたとしても、秀忠が康政と正信と共に残れば徳川は何とかなる、道は開けると家康は考えたのかもね。それぐらい、康政の価値は家康に高く見積もられていたと思う。

 康政の死因だが・・・「どこが悪い」と忠勝に聞かれ「はらわたじゃ」とドラマでは答えていたが、面疔とかヨウとかセツとかの毛嚢炎じゃなかったか?自分もなったことがあるため、そう記憶していた。

 私は子どもの頃、川で泳いだ後に黄色ブドウ球菌のせいで毛嚢炎になり、酷く腫れて外科で切開した。あれは、膿の芯がずんずん皮膚の下に伸びて育っていくから「首筋だったら死ぬところだ」と言われた。「タコの吸出し」のようなものを、少し昔だと貼って膿を出したらしい。

 とにかく、ずるずると酷くしてはいけないから、康政も、早いうちに思い切って切開したら良かったのに・・・タイミングを失して手が付けられなくなってしまったのだろうか。

 そういえば康政死没の翌年、1607年に没している秀忠同母弟の忠吉が、やはり腫れものを患って命を落としていたはず。「葵 徳川三代」ではその様子が描かれていた。同母弟の死は、秀忠もショックだったはずだ。

忠勝には真田親子の助命嘆願を期待したが

 一方、本多忠勝は、関ケ原の戦後は初代桑名藩主として藩創設のために城や宿場整備、街づくりなどに忙しかった模様だ(本多忠勝 - Wikipedia)。ドラマにもあったように、病にかかるようになって家康に隠居を申し出たのが1604年。ドラマでは康政の「戦に生きた年寄りは、早、身を引くべき」という言葉も影響したということか。

 結局、「関ケ原はまだ終わっておらぬ」「隠居など認めんぞ」と家康に言われ、「全くいつになったら主君と認められるやら」と忠勝は嬉しそうに答え・・・最後には1560年の桶狭間の戦い後の大樹寺で、実は既に認めていたと康政に明かしたのだった。

 そして、康政死後の1607年に忠勝は眼病を患ったとウィキペディア先生に書いてあるのは、ドラマ的にはとうとう隠しきれなくなったということか。1609年に隠居、翌1610年に没した。

 これは作家・池波正太郎の創作なのかもしれないが、「真田太平記」ファンとしては、関ケ原の戦いの後の本多忠勝と言えば真田昌幸・信繁親子の命乞いだろう、と期待していた。

 忠勝の娘が小松姫(稲姫)、彼女が真田信幸に嫁いだ関係で、忠勝と真田家は切っても切れない間柄として、信幸が命乞いをする時に忠勝も一緒に家康に対して盛大に駄々をこねる・・・という筋書きが頭に入っている。それをやってくれるかな?とワクワクして待っていた。

 が、残念ながら真田信繁が蟄居先の九度山で、家康憎しと鍛錬している様子がチラリと映ったのみだった。そこに至るドラマはやってくれないのか・・・💦佐藤浩市の昌幸パパはどこに?もう出ないのか。

秀忠に「おめでとうございます」と言った秀康も没

 先ほど、ドラマの中で幼少期以来最近触れられていない家康四男・松平忠吉(松平忠吉 - Wikipedia)について、今回サッと通り過ぎた1607年に没していたと書いた。そうしたら、なんと家康次男の結城秀康も1607年に死んでいた。死因は梅毒だとか(結城秀康 - Wikipedia)。

 忠吉は4/1没、秀康は6/2没なのだが、立て続けであり、家康や秀忠の心情を考えるとドラマで扱わないのは奇異だ。どちらも頼りにしていただろう息子だったのに。それとも、家臣の死に比べ、息子ら兄弟らの死の影響は極小だとでも?

 康政の「皆の面前であのようにお叱りになるべきではござらぬ!秀忠様の誇りを傷つけることでございますぞ」との生涯最後の諫言の後、家康は秀忠に1年以内に将軍職を譲るから準備しろと伝えた。その直前、家康はチラリと秀康の方向に「しっかり聞けよ」と言わんばかりに視線を送っていた。

 優秀な秀康は、戸惑う弟・秀忠に対して真っ先に「おめでとうございます。秀忠様」と頭を下げた。逆だったらとても秀忠にはできない芸当だ。

家康:秀忠。

秀忠:(暗い顔)はっ。

家康:関ヶ原の不始末、誰のせいじゃ。

秀忠:(悔しそうに)私の落ち度にございます。

家康:そうじゃ。そなたのせいじゃ。理不尽だのう。この世は理不尽なことだらけよ。わしら上に立つ者の役目は、いかに理不尽なことが有ろうと、結果において責めを負うことじゃ。うまくいった時は家臣をたたえよ。しくじった時は己が全ての責めを負え。それこそがわしらの役目じゃ。分かったか?

秀忠:心得ましてございます。

家康:(秀康の方向に一瞥くれてから秀忠のそばに座る)征夷大将軍、1年の内にそなたに引き継ぐ。用意にかかれ。(去る)

秀忠:はっ!・・・え?わしが・・・将軍?!(本多正信が頷く)

秀康:おめでとうございまする。秀忠様。

 気付けば、この場面での家康の貫禄が凄い。よくよく一挙手一投足を見て、あのヘタレがこんなにも、と今さら思った。松潤だから若い頃だけ演じて終わりかと当初は思っていた。それがこの堂々のタヌキおやじぶり。特殊メイクやら装束やらで助けがあるにしても、松潤も不自然さは全然ない。

 言っている内容も、どこぞの政治家さんや上司さん、みんな聞いてるー?という名言だった。

 この場面を受けての、秀忠と康政、正信の会話も面白い。

秀忠:わしを選んだのは、兄が正当な妻の子ではないからか?

康政:殿がさような理由でお決めになるとお思いで?

正信:才があるからこそ秀康様を跡取りにせぬのでござる。

秀忠:えっ?

正信:才ある将が一代で国を栄えさせ、その一代で滅ぶ。我らはそれを嫌というほど見て参りました。

康政:才ある将一人に頼るような家中は、長続きせんということでござる。

正信:その点、あなた様はすべてが人並み!人並みの者が受け継いでいける御家こそ、長続きいたしまする。いうなれば、偉大なる凡庸と言ったところですな。

康政:何より、於愛様のお子様だけあって大らか。誰とでもうまくお付き合いなさる。豊臣家ともうまくおやりになりましょう。

正信:関ケ原でも恨みを買っておりませんしな。間に合わなかったおかげ。

秀忠:・・・確かにそうじゃ。(うれしそうに)かえって良かったかもしれんな。ハハハハハ!

康政、正信:(視線を交わす)

 正信が「偉大なる凡庸」等とズケズケと秀忠に言ってしまうのに対し、康政は「さすが於愛様のお子様だけあって」と敬意を忘れない物言いで持ち上げてみせるのが流石だ。

 才ある将が一代で潰れてまた世の中に騒乱が起こり、次の才ある将がまとめるまでの戦国時代。これを繰り返さないよう考えての「持続可能性の高い家中」ということだね。SDGsみたいな話になっている。

 でも、それが民衆にとっては幸せの素。戦無き世にするという家康の悲願からすると、当然なる帰結だ。オフィスでも同様、「持続可能性の高い社中」でないと、ひとり優秀な社員が出ても無理を重ねるしかなければ、挙句に体を壊して退職するしかない。それでは社員、会社の幸せは遠い。凡庸な社員が回せる社中であってこそ、組織は成長するのね。社長さん、聞いてるー?

 ここで今一度、石田三成が「戦無き世など成せぬ」「誰の心にも戦乱を求むる心がある」「まやかしの夢を語るな」と言ったことを考えたくなった。

 当時は戦続きで誰も戦乱の無い世を経験していない、知らないとすると、むしろ家康の方が「戦無き世を作る」など相当おかしいことを当時としたら言っているのだ。「何を荒唐無稽なこと言っちゃってんの」みたいなところだ。

 その相当おかしいことを悲願として主人公に希求させるには、相当おかしい装置が必要だったわけで、それが瀬名を家康最愛の妻にして、お花畑的考えを発想させて、しかも見殺しにする(自分の心を殺すような地獄)という三段活用だった。このことがSDGsを目指す今になって胸に迫ってきた。おもしろいものだ。

 家康が幕府を開いて将軍になったら、あの瀬名の木彫りのうさぎを箱から出せるかと思ったが、まだまだ波乱が先に見えている。大坂の陣の後でやっと出せるのかな。死ぬときか。

 さて、秀忠が将軍に就任後の1607年に、兄と弟が続けて死ぬ。抗生物質が当時あればねえ。最初から秀忠が本命だったにしても、秀康は1603年からは寝付いていたという話もあるから(ドラマでは1604年でもシャンとしていたけれど)、秀康と忠吉が病身である点は、家康の次選びの判断の内だったのではないか。健康で残った秀忠が将軍になったか。SDGsにも健康は要だ。

秀頼はスクスクと成長

 家康が身内を亡くしていく一方、秀頼はとうとう秀吉の背丈を示す赤いラインを19歳にして超え、長身になった(1年間の伸び方が凄い)。オープニングアニメも、背丈を記していく柱であり、それが炎上したように見えた。後の大坂城の運命を考えると、さもありなん。

 よく、秀吉は小さいのにーと言われるが、茶々の父・浅井長政は高身長の美丈夫だったというから不自然ではない。

 秀頼に寄り添い、柱のキズを刻む茶々は満面の笑みだ。そして、正室の千姫(家康孫)は、面差しがまるきり瀬名!血縁は無いはずなのにね、驚いた。

 大野治長も流罪から大坂に戻り、秀頼の周りは賑々しくなっている。ただ、将軍職を家康が秀忠に譲った時の茶々の反応に、加藤清正と福島正則は明らかに困惑していた。

 この、あちらの様子を家康は遠方からヒリヒリ感じているのかな。戦神のように睨みを利かせる忠勝の絵を前に、時が満ちるまで、戦闘心を養っていたか。打倒秀頼、残り4回、どう描かれていくのだろう。

 次回どうなる?と前回期待しながら今回スルーになったのは、関ヶ原の行方を決めた金吾殿(小早川秀秋)のその後。決着をつけるナレ死も無く、きれいさっぱり描かれなかった。この大河のやり方にまだ慣れなくて、あれえ?という肩透かし感がある。あと4回なのに慣れないなんてね、苦笑いするしかない。

(敬称略)