黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

【どうする家康】#48 家康は「鎌倉殿の13人」義時と相似形、でも最期は幸せに海老すくい

「神の君へ」から来年の「光る君へ」

 もう片手で数えれば2024年が来る。年末だ。毎度のようにああだこうだに追われて年の瀬を迎えているが、気づけばまだ「どう家」最終回について書いていなかった。下手すると来年の大河「光る君へ」が始まってしまうじゃないか。

 NHK大河ドラマ「どうする家康」第48回(最終回)「神の君へ」は、もう10日以上前の12/17に放送された。この記事を12/29の総集編前に書き始められて良かった(アップできるのは後かもわからないけど😅)。

 最終回サブタイトルの「神の君へ」は明らかに来年大河の「光る君へ」を意識したものだろう。Amazonで発売されていた脚本をチラ見したら、最終回のオリジナルのサブタイトルは「~でどうする!」という形式だったから。

 「光る君へ」では、まだ劇中劇で必ず出てくるはずの光源氏を誰が演じるのか発表されていなかったような。今思うと、松本潤は徳川家康役よりも光源氏役の方にキャスティングされるのが普通だったかなと思うのに、若い頃の「ぴょんぴょんぴょん」だけじゃなく(初めて見た時は唖然としたが、見慣れてしまうと懐かしい)、よくタヌキ親父の晩年まで走り抜けたものだ。

 最終回では、そのタヌキ親父も白兎に戻るとオープニングアニメでは示唆していた。やっと肩の荷が下りると。

 それを指し示す「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は江戸時代に水戸藩あたりで創作されたもので、神君家康のご遺訓とは・・・💦と今どきの時代考証の先生方はおっしゃっているらしいのによく出したなーと思ったら、それを語りの福(春日局)が「遠き道の果てはまた命を賭した戦場にございました」と続けた。彼女の言葉として処理したってことだよね、考えてる。

 それから、まだまだ引っ張る「鯉」バナ。京の二条城で、これから戦場に赴く家康が阿茶局と会話をする。

家康:わしに言いたいことがあれば、今じゃぞ。これが最後かもしれん。

阿茶:ありません。私は最後とは思うておりませぬので。(家康に羽織を着せかけて)あ、ひとつだけ。よろしければ、あのお話をお聞かせ願いとうございます。

家康:あの話?

阿茶:鯉。

家康:コイ?

阿茶:魚の鯉のお話でございます。

家康:ああ、あれはな、信康と五徳の・・・。

 ここでまたお預けが入るのだ。場面は大坂城の乱世の亡霊の皆様へと移ってしまう。鯉の話を聞かれて、さすがにもう家康は笑い転げたりしないが、口が重そうだ。あの後、満面の笑みを浮かべていた阿茶は、話を聞かせてもらうことはできたのだろうか。

 でも、ここで家康の脳裏にはしっかりと浮かんだんだろうなあ、最後の戦を前にして、幸せだったあの頃が。

 視聴者側の私にも浮かんだ。散々お預けを食らってきたイライラ。最終回に及んで、まだするかと。この脚本家は、全編を通じてあっちこっち話を飛ばすものだから、そんなイライラがあちこちに散りばめられてきた。最終回ではそれらを一気に晴らしてもらいたいと仇を取るくらいに期待していたものだから・・・もう!

 「○○はCMの後で~」と引っ張る手法がいつからか日本では当たり前だけれど、それを、少し前の話だけれど、韓国在住が長い知人が驚いていた。「こんなことをしたら視聴者をバカにするなと韓国だったら暴動が起きるよ」と。今も韓国ではそう受け止められるだろうか。よくよく日本人は従順に躾けられたものよ。

 この引っ張る手法も、視聴者を繋ぎ止める「ロングパス」などとかえって称賛されて乱発されるようになって、もはや制作側では当たり前なんだろう。ミテルガワノコトカンガエロヨ。ああ、私も一話完結とか二時間ドラマしか見られない体質になってきちゃったかな。要するにガマンが利かなくなってる。

 さて、「戦とは汚いものよ」と真田昌幸(佐藤浩市)は生前、信繁に言っていた。「戦はまた起こる。ひっくり返せる時は必ず来る。乱世を取り戻せ。愉快な乱世を泳ぎ続けろ」と種を息子に植え込んでいた。徳川にとっては乱世の帝王・昌幸が生きていてはかなり厄介だったはず。やはり、彼は家康と秀頼の二条城での会見の後、始末されたかな?

 佐藤浩市と同じく、2年連続の大河ご出演となった小栗旬。演じる天海(言われてなかったら分からないレベルの特殊メイク~)が源氏物語と吾妻鏡(昨年最終回でこぼした、お茶の染み付き)を手にしながら源頼朝について語るという、しゃれっ気いっぱいの登場の仕方をした。

 言うまでもなく、小栗旬は昨年の「鎌倉殿の13人」主役の北条義時を演じ、義時は源頼朝にこれでもかと振り回されていた。「世間では(家康のことを)狡猾で恐ろしいタヌキと憎悪する輩も多うございます。かの源頼朝公にしたって、実のところはどんな奴かわかりゃしねえ。周りがシカと称えて語り継いできたからこそ、今日、全ての武家の憧れとなっておる訳で」「人ではありません。大・権・現!」と秀忠に言った時の言葉がちょっと愚痴のようで、ニヤニヤしてしまった。しかし、なぜあそこに真田に嫁いだ稲姫が居るんだ?

 この、前後の大河のエピソードを最終回で噛ませるというのは、今後も恒例になっていくのだろうか。来年の「光る君へ」の主人公・紫式部は、「源氏物語」をあれだけ面白く書くくらい想像力がたくましいのだから、今年の戦国時代と再来年の江戸時代程度の未来なら無理くり想像を飛ばせるか?・・・やっぱり無茶ぶりかな。

とうとう出てきた「鯉」バナの中身

 さて、最終回のあらすじを公式サイトから引用しておこう。

家康(松本潤)は豊臣との決戦に踏み切り、乱世を終える覚悟で自ら前線に立った。家康の首を目がけ、真田信繁(日向亘)らは攻め込む。徳川優勢で進む中、千姫(原菜乃華)は茶々(北川景子)と秀頼(作間龍斗)の助命を訴えた。だが家康が下した決断は非情なものだった。翌年、江戸は活気に満ちあふれ、僧・南光坊天海(小栗旬)は家康の偉業を称え、福(後の春日局/寺島しのぶ)は竹千代に”神の君”の逸話を語る。そんな中、家康は突然の病に倒れる。(これまでのあらすじ | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK

 「家康が下した決断は非情なものだった」って、まあ「すまん」とは確かに千姫に言ったけど、最終決断を下したのは秀忠だったが。秀忠の成長を感じる大事なシーンだったのに、どうしてこう書くのか、公式サイトなのに。

 秀忠は「最後ぐらい背負わせて」と家康に言い、涙ながらに茶々と秀頼の助命嘆願をする娘・千姫を前に「将軍として、秀頼には死を申し付ける」と宣言した。家康は心配そうに秀忠の決断を見ていた。(前回、秀忠を「お子ちゃま」と書いてゴメン。彼は家康の苦悩をちゃんとわかっていたね。)

 「鬼じゃー!鬼畜じゃー!豊臣の天下を盗み取ったバケモノじゃ」と泣き叫んでいた千姫が心配だ。自分が愛する人たちを、自分の父と祖父が殲滅しようとし、自分の願いを聞き入れてくれない。これ以上のトラウマ体験も無いだろう。彼女自身が秀頼を深く慕っているだけでなく、多くの者が皆そうだと主張すればするほど逆効果、秀忠の表情が硬くなるのが切なかった。確か、家康が会いたいと言っても、千姫はおじじ様には死ぬまで会わなかったらしいよね。

 まあ、千姫については本多忠勝の孫・忠刻と再婚することがあまりに有名なので、救いにはなる。しかも、姑は信康と五徳の娘・熊姫。そこらへんでスピンオフを作ってくれないか。信康の娘たちは、信長と家康の孫なのにドラマに出てこなかった。瀬名の五徳へのセリフ(確か「そなたには娘たちを育て上げる務めが有ろう!」みたいな)で出てきたが、それだけじゃ寂しい。

 千姫の原菜乃華が瀬名の有村架純に面差しがあまりに似ていて驚きだったが、それを逆手に取って、スピンオフでは有村架純が成長した千姫のその後を、山田裕貴が忠刻を演じたらどうだろうか。

 最終回では、前半はドロンジョ茶々様率いる乱世の亡霊チーム(皆さんの亡霊メイクの白塗りが青白い程で禍々しい。「魔界転生」みたい)相手の大坂夏の陣、そして後半は、例の笑っちゃって話せなくなる信康婚儀の際の「鯉の話」がとうとう描かれた。

 話の基になった逸話は、ドラマオリジナルじゃなくて江戸時代に書かれた物の中に実際にあるとか。道理でどこかで聞いた話・・・と思ったら、滝田栄主演の「徳川家康」にも出てきたそうだ。あ~、そうだったかも、でもほぼ忘れている。

 まあ、引っ張りましたよね、鯉の謎。確か「築山に集え!」と「於愛日記」で焦らされて語られずじまい。で、話の中身は、家康が、信長から贈られた立派な鯉を食べたい家臣らにすっかり担がれ、右往左往した笑い話だった。

 これが笑い話になるのは徳川家中だからで、織田家中だったら何人家臣が殺されたのだろう?実際のところ、信長は家康饗応の席で「淀の鯉」を出して失敗した(させられた)明智光秀をひどく叱責し、恨みを買って本能寺で殺された。「家臣を手討ちにしたりしない」と家康を信頼したからこそ、徳川の家臣らは自分たちの食欲を優先して殿を担げたのだった。まさに、幸せだった頃の岡崎での1コマ。

 こういう幸せなひと時が脳裏にあれば、人は生きていけると思う。常時、最期までずーっと幸福であることなんかない。それでは、幸せに鈍感になってしまう。しがみ付いていられる幸せな記憶が過去に既にあれば、人生は幸せなのだと思う。

 阿茶は「天が遣わした神の君。あるいは、狡猾で恐ろしい狸。いずれにしても、皆から畏れられる、人に在らざるものとなってしまわれた。お幸せだったのでございましょうか」と泣き、本多正信も「戦無き世を成し、この世の全てを手に入れた。が、本当に欲しかったもの、ずっと求めていたものは・・・」と手を合わせていたが。

 信康婚儀の場にいて、家康死去に際してまだ死んでなかったのは五徳ぐらいか。亀姫もいたはず。後は皆、徳川に尽くして命を捧げ、既に死んでいった者たちばかり。そう思うと、家康が深々と頭を下げてお礼を言うのはジンと来た。

 あの場面は、家康が若いんだか年なんだかがいったりきたりで、演じている松潤が緩急をうまく表現していた。

 物語の大団円は三河家臣団や家族との海老すくい。役者の皆さんが生き生きと笑顔で踊っていたのが良かった。昨年の「鎌倉殿の13人」の終わり方があれだけ沈鬱だったので(義時に解毒剤を与えず死なせたというか殺した、政子のすすり泣き)、大きく違う。

「どう家」瀬名は、クセになる

 今年の大河の終幕は和気あいあい、スッキリさっぱりできた。何といっても、家康の幸せの象徴・瀬名と信康が出てきたし。当時、結構な瀬名ロスになった私としても、出てくるのを待っていた。こんな瀬名(築山殿)はこれまで見たことが無かったが、クセになったかな。頭の中の池上季実子の瀬名の上に、有村架純で上書き保存された感じ。

 家康死去の年月日「元和二年(1616年)四月十七日」がパーンと表示された段階で、家康が何か(寅?)の木彫りを起き上がってするってのはもう無理なんじゃ?と疑問に思ったら、瀬名と信康が武者隠しから「もう、出ていってもよいかしら」「あ~くたびれた。もう隠れなくてようございましょう」と、サバサバと登場。ああ、お迎えなんだとわかった。

家康:お前たち、ずっとそんな所に?

信康:父上。戦無き世、とうとう成し遂げられましたな。

瀬名:ようやりました。私の言った通りでしたでしょ。成し遂げられるのは殿だと。ご立派なことでございます。

家康:立派なことなんぞ。やってきたことは、ただの人殺しじゃ。あの金色の具足を付けたその日から、望んでしたことは1つもない。望まぬことばかり、したくも無いことばかりをして。

竹千代(後の家光):(走ってきて)おじじ様、上手に描けたので差し上げます(御簾の内側に差し入れた、男雛を振りつつ話す。紙を差し出し、御簾内の雰囲気に気づいて瀬名・信康とお辞儀を交わし、去る)。

信康:不思議な子でございますな。

家康:竹千代、後継ぎじゃ。

瀬名:初めてお会いした頃の、誰かさんにそっくり。あの子が鎧をまとって戦場に出なくて良い世の中を、あなた様がお創りになったのでしょう。あの子があの子のままで生きてゆける世の中を、あなたがご生涯をかけて成したのです。なかなかご立派なことと存じますが?(信康が持ってきた竹千代の描いたウサギを見て)存外、見抜かれているかもしれませぬな。あなたが狸でも無ければ、ましてや神でもないということを。(ウサギの絵を見せる)

家康:(はらはらと、涙を流す)

瀬名:みんなも待っておりますよ。私たちの白兎を。

 こんな幸せなお迎えがあろうか。家康にとってはこれが一番望んだもののはず。瀬名と信康によくやったと褒められれば、満足のはずだ。阿茶も正信も、心配すること無い無い。

 瀬名・信康・家康といるところに竹千代(家光)が持ってきたのは、実際に家光が描いた兎の絵をモチーフにした物だろう。よく似ていた。

 美術さんが描いただろうウサギは、家光が描いた本来のふわふわしたちょっと分かりにくい毛玉みたいなウサギの絵よりも、視聴者のためにはっきりそれと分かる絵になっていたが、「英雄たちの選択」で見たあの絵だ!とピンときた。

www.nhk.jp

 竹千代は小さな男雛も持ってきた。初回に、瀬名の女雛が乗るおままごとの花籠に乗せられず、別れを暗示された家康のメタファー、家康もとうとうお迎えの舟に乗せてもらえるという意味だろう。

 (ところで、最終回だけに意味深なものが色々あるが、ウサギの木彫りはどこに行ったのか?家康は木の箱に納め、長持ちに大切にしまっていたが、その後まだ見ていない。)

 そうか、「徳川実紀」によれば、前日までに榊原康政の甥を相手に遺言は済ませたのだったか。遺言部分、これもスピンオフにしてくれたら是非見たい、杉野遙亮が当然、康政の甥っ子役で。

 それから・・・「どう家」では、瀬名と信康については深く描かれているのに、他の家康の側室や御三家の祖になった息子たちやらがほとんど出てこないことが気になっていた。

 家康にとっての「幸せな家族」には瀬名と信康が欠かせないのだが、他の側室たちとの関係は、お仕えされる主従関係へと質が異なっていた。後継ぎ秀忠の母・於愛でもそうだったし、阿茶でもそう。瀬名らが死んでからは、家康は仕える家臣らに持ち上げられ遠ざけられるばかりだったかな。

 瀬名と信康がいた頃、家康は普通にか弱い白兎だった。ちゃんとお迎えに来てもらえて、白兎に戻れて何と幸せだったことか。

 そうそう、家康の辞世の句は「嬉しやと 再び醒めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空(これが最後だと思い眠ったが、また目覚めることができてうれしい。この世で見る夢は、夜明け前の空のようなものだ)」。これから取ったのだろう、オープニングテーマ曲のタイトルは「暁の空」と聞いて、このドラマで家康の死に際の走馬灯を1年かけて一緒に見てきたような気もしてきた。また最初の方を見てみたい。

徳川家康の辞世の句(最期の言葉)とは?意味もわかりやすく簡単に解説 – 和歌ラボ

どちらも、泣き虫の男の子が戦の無い世を目指した

 今年の「どうする家康」と昨年の「鎌倉殿の13人」。終わり方は対照的だったが、実は同じ「戦の無い世」がこの先にやってくる安堵感がある。それも、北条義時と徳川家康の、ふたりの主人公どちらもが、地獄に落ちたと見られるほど自分本来の優しい姿を犠牲にして得られた到達点。それがとても似ていた。

 義時も家康も、登場当初はナイーブな泣き虫の少年だった。現実に相対するうちに、自分らしさを失い黒くなっていくが、平和な世を息子ら次世代に手渡そうと、もがいてきた。

 「鎌倉殿」の場合は、しかし、長澤まさみのナレーションでも言っていたように、戦いの無い世が続いたのは、息子の泰時(坂口健太郎)が執権として存在していた間だけ。泰時が世を去ると、義時が信じ続けた三浦義村(山本耕史)の家は宝治合戦の末に滅ぼされている。

 しかし徳川の世は260年も続いた。この差は、家康の「吾妻鏡」研究の成果なのかな?

 「鎌倉殿」最終回で、ゲスト出演的に出てきた松潤の徳川家康が「いよいよ承久の変だ」とワクワクしたところでお茶をこぼしていた。これが示唆するものは?と考えると、きっと、実はそのあたりをリアル家康も何度も読んで参考にしたってことではないか。

 承久の変では、北条義時が後鳥羽上皇をも裁き、隠岐送りにした。自分は大悪人の汚名を着ても、皆の希望の存在だった賢い息子・泰時に北条がてっぺんに立つ武家政権というエバーグリーンを遺そうとした。

 泰時は御成敗式目を作ったことで有名だが、しかし、その彼を以てしても「戦の無い世」を続けられたのは泰時が治政を担っている間だけ。それは何故か、どこで失敗したのか、どうしたら永く「戦の無い世」が続くのかと家康は考え抜いたのではないか。

 それで、逆説的に気づいたのが泰時が優秀な人物であったことだったのかもしれない。秀忠を選ぶヒントは吾妻鏡にあったのかな。

 家康はあえて「大いなる凡庸」秀忠を選び、「戦を求める者」にひっくり返されることのないガッチリとした仕組みを、関ヶ原の戦い後、時間をかけて構築したのだろう。

 ただ、ドラマでは仕組み作りが十分には描かれなかった。1603年から1610年にかけて、家康が豊臣の牙を慎重に抜いていく段階もちゃんと見たかった。家康が苦心した部分だろうに、残念だ。

 「青天を衝け」の渋沢栄一の生涯も、彼は90歳以上だったから見足りない感じが強く残ったが(特に「青天」の場合は41回しかなかったし💦)、家康の人生も75歳と比較的長い。大河ドラマ2年ぐらいかけないとダメだったかな。三谷幸喜が、足りないところを補って、もう1回家康で大河ドラマを書いてくれないか。物足りない。

日本がPAの国になったのは、大坂の陣以来?

 ドロンジョ茶々様は、炎に包まれる大坂城と命運を共にした。その前に、家康は馬印の金扇をわざわざ敵から見えるように前に掲げさせ、「家康はここにおるぞ」「さあ来い、共に逝こうぞ」と呼ばわった。心の中では「乱世の亡霊たちよ、わしを連れて行ってくれ」と唱えていたが、周りに死なれて生き残ると、それが本心なんだろう。

 でも、真田信繁らの最後の突撃を逃れ、助かった家康がいたのは六文銭(真田家)の幕の張られた陣だった。これって史実通りなのか?混乱したが、つまりは信繁の兄・信之の息子たちの陣に退避したということか。真田同士なら、ここには来ないだろうと。

 さてさて、北川景子が素晴らしい茶々だった。ドラマのラスボスだったんだそうだ。その場面は見応えがあったが、「ラスボス」という言い方がどうも好きじゃない。ゲームみたいで軽いから。(あ、中1男子がターゲットのドラマだったと思い出してしまった。)

 茶々が死ぬ前に秀頼は切腹し、死ぬ間際に「わが首を以て生きてくだされ」と母に言った。そんなことできる訳がない、息子をそんな目に遭わせておいて、母だけが生きるなんて。マザコンだな、秀頼。彼が母親に反発できるような人物だったら、話も変わっていただろうにね。

 「余は豊臣秀頼なんじゃ」と宿命から逃れられないかのように千姫にかつて言っていた秀頼は、劣勢が明らかになっても「余は最後まで豊臣秀頼でありたい」と今回も千姫に言い、まさに母の誇大妄想の天下人を生きさせられた気の毒な人物としてこのドラマでは描かれた。

 千姫が瀬名にそっくりだから、千姫が秀頼の手を取って「千はただ、殿と共に生きていきとうございます」と言った時のふたりが、昔、瀬名が「どこかに隠れてしまいたい」と言った時の瀬名と家康を彷彿とさせた。秀頼を止められたのは母の茶々だけだっただろうに、茶々が拗れた上にカッコばかり付けるからさー。全部茶々のせい。

 大野治長が秀頼を介錯し、その息子の血しぶきを顔に浴びた茶々が凄まじい。その死に様を「見事であった」と茶々は言ったが、こんなに悲しい血しぶきがあるか。想像を絶する。息子の血だよ・・・。

 そして、その場にいた家臣たちも次々に秀頼の後を追い、「徳川は汚名を残し、豊臣は人々の心に生き続ける」と呪いの言葉を呼ばわった治長も茶々を残して先に切腹。茶々が介錯をし、治長は茶々の腕の中で息絶えた。え?茶々が介錯?そんなの初めて見た。今までのドラマで、そんなのあったかな。

 後にも先にも、茶々のような立場の者が自ら手を汚し腕の中で死なせてやったのは治長だけだったと思うと・・・治長が秀頼の介錯をしたと思うと・・・3人の仲は、かなり特別に見える。秀頼と治長、実の親子だったかと、ふと思ってしまった。ところで治長母の大蔵卿(大竹しのぶ)はどこだ?

 そして、ひとり残った茶々の独白。

茶々:日の本が、つまらぬ国になるであろう。正々堂々と戦うこともせず、万事長きものに巻かれ、人目ばかりを気にし、陰でのみ嫉み、あざける。やさしくて卑屈な、かよわき者たちの国に。己の夢と野心のために、なりふり構わず力のみを信じて戦い抜く。かつて、この国の荒れ野を駆け巡った者たちは、もう現れまい。・・・茶々は、ようやりました。

 中二病を拗らせた人らしく、反省するところはなかったのだな。前回のブログで、ちょうどPA(passive aggression)の話を書いた。日本はPAがあふれている国だとも。それと符合するような話を茶々が言い出した。そうか、大坂の陣で豊臣が破れて徳川の世になってから、AA(active aggression)は鳴りを潜めPAが隆盛することになったか?

 歴史家の磯田道史先生が、江戸時代には年間1000人もの人たちが微罪でも死刑になったとおっしゃっている動画があった。それが200年も続き、お上によく躾けられた国民になったらしい。徳川が表立ったAAを許さず、日本をPAの国にしたんだね。

youtu.be

 それでも「戦の無い世」がまだ全然良いと思うが・・・PAの国のしんどさは、来年の「光る君へ」で存分に描かれそう。楽しみであり、怖くもある。

 わあ、今回は特にダラダラ書き過ぎてしまった。来年からはもう少し控えよう。年末なのに、こんなに長々と読んでくださった方々、ありがとう。良いお年を。来年が素晴らしい年になりますように。なにしろ「光る君へ」だから大丈夫、期待大ですな。

(敬称略)