オンベレブンビンバ、分かるわけなかった
畠山ショックを忘れるほど、脳内で咀嚼不可能
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第37回、「なんだそれ」なサブタイトルの「オンベレブンビンバ」が9/25に放送された。
前36回「武士の鑑」は、畠山重忠の無念を思うと涙無しでは見られない重い内容だった。ところが、次回予告で「オンベレブンビンバ」が示された途端に「へ???」と脳内がクエスチョンマークで一杯になった。
鳩が豆鉄砲を食ったよう、という譬えは鳩がかわいそうだからあまり好きじゃないが、オンベレブンビンバという脳内ですぐには咀嚼できないものを突っ込まれたおかげで、重かった畠山一族の悲劇も気分的にあっさり横に置かれた感じ。三谷幸喜にしてやられた。
オンベレブンビンバの意味を巡り、日本中がああでもないこうでもないと考え考え、37回の放送を迎えたのだったが・・・何のことはない、北条時政が大姫から教えられた「いいことがある」というおまじない「オンタラクソワカ」を思い出せなくて、適当につぶやいていたフレーズが「オンベレブンビンバ」だったのだ。分かるわけがなかった。
“考察班”も即座に動き「オンベレブンビンバ→イタリア語だと『子どものための影』。愛情を注ぐのが母親ならば、時には手本となり、反面教師となり、影から子どもの成長を支えるのが父親。最後に時政パパ(影)に立ち向かい、勝つことで、子どもの小四郎はいよいよ2代目執権・北条義時が完成するんだ…」とイタリア語説も浮上。同時に「#鎌倉殿オンベレブンビンバ知ったかぶり選手権」「#ぼくのかんがえたオンベレブンビンバ」も自然発生し、大喜利大会となった。(「鎌倉殿の13人」長澤まさみ“訂正ナレ”も!副題「オンベレブンビンバ」まさかの謎解明 ネット再び話題(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース)
三谷幸喜は、オンベレブンビンバにイタリア語の意味も込めたのだろう。時政の心情を思うと泣ける。
北条が幸せだった頃を呼び覚ます、大姫の記憶
おまじないを大姫が教えてくれた頃は、八重も頼家も大姫も三幡も、悲劇の死を迎えた北条の婿殿3人(全成、畠山重忠、稲毛重成)も、実衣の息子・頼全も、妹「あき」も生きていた。宴の席にもいた「ちえ」は確か身重だったから、お腹には誅殺された畠山重保がいたのだろう。
そうそう、その場は「りく」の産んだ政範の出産後のお披露目の席だったような。北条家が打ち揃い、幸せな宴が開かれていたのだった。大姫は、じじさまが赤ちゃんに生気を吸い取られている!みたいなことを言っていなかったか?今思うと、怖い。
政範が享年16歳だったから、たった16年ほどの間にいったい何人死んだのか。政範の死が「りく」を狂奔させ、そして今や、父の時政と子どもたち(政子、義時、時房、実衣)は正面切って対立しようとしている。時政とすれば、あの大姫のいた幸せな宴の時に帰りたい、良いことが起きないか、との思いだったのだろう。
大姫に言わせれば、「みんな、おまじないを正確に唱えられないから災いを避けられないのよ」となるのかな。
時政は実朝に実力行使、気になる義村
今37回のラストでは、「出家して平賀朝雅に鎌倉殿の座を譲る」との内容の起請文を、「じぃじ」時政に頼まれても書かないと突っぱねる孫の実朝に対して、時政が刀を抜いて終わった。
とうとうの実力行使。実朝は、時政の言うままに下文に花押を書いて畠山一族を滅亡させた責任を感じているから、時政に警戒心を抱いて当然だ。そして、孫ではあるけれど、鎌倉殿・実朝に対して刀を抜いたとなると、もう時政は言い逃れができない。
時政の計画を義時に内通した後、義時の指示とはいえ、そのまま時政の指示に従うことになった三浦義村も気になった。あれだけ気の回る義村なのだから、時政もろとも三浦が葬られる危機感は抱かなかったのか。
上総介広常の話を乗っ取って和田義盛が実朝に披露していた。その上総介のように、味方側だと信じた義時から三浦が裏切られることを暗示していないか・・・。
三浦と北条は、義時が生きている間は盟友であり続けることは知っているけれど、気になった。それだけ、ふたりの信頼関係が厚いというか、義村が義時を信じて委ねたということだ。
それとも、義村が義時に対して面従腹背の姿勢を取るきっかけにでも、この牧氏事件がなるのだろうか。
ギラギラ輝いている「りく」宮沢りえ
しかし、悪女「りく」を演じる宮沢りえはここのところ輝いている。キラキラというよりも画面に出てくるたびにギラギラしている。
あんなにも気丈で、強欲な無理難題を仕掛けるプランナーとして時政を操縦しているが、反面、息子を奪われた母として悲しみに打ちのめされている様が、死んだ政範の髪を握りしめる切ない表情に浮かんでいた。だから、時政もわかっていて殉じる気になっているのだろう。
しかし・・・「りく」のベースにあるのは、強欲というよりも不安なのでは?その不安は自分が生んだもので、種は自分の中にある。時政の子(政子ら)をも自分の子として信頼できれば良かったのに「私の血縁ではない」と切り捨てて敵にしてしまった。だから不安なのだ。
「りく」は政子と年齢的には同世代らしいから、夫の子とはいえ、政子や義時を自分の子どもと同じとは考えられないのだろう。でも、前の妻の子とはいえ、手元で育てただろう、ちえ、あき、トキューサは?可愛がれなかったのか、眼中になかったのか。
不安をエンジンにしてしまうと止め処がなく、あまり良いことではなさそう。一緒に乗っかってあげるのは、ちょっと違うのではないか?時政よ。
そういえば、政子に対して不思議と「りく」と実衣の反発の仕方が似通っているのはどうしてだろう。実衣が「りく」に学んだのか、憧れでもあったのか。
とにかく、最近は物語を裏からガンガン引っ張っている「りく」。オープニングでなぜ宮沢りえがトリなのかな?と感じないでもなかったけれど、考えを改めた。
次回、牧氏事件はどこまで描かれるのだろうか。予告を見ると、いよいよ義時は黒い衣装、ブラック義時で登場するようだ。アサシン・トウも出てくる。ということは…。
番外編・北条安千代の伝説
北條寺と珍場神社の創設にかかわる話
ところで、ふるさと納税を「鎌倉殿の13人」ゆかりの静岡県伊豆の国市にした人が、送られてきた書類の中に「北条義時がうまれた里『伊豆の国』の中世」という冊子があったので見せてくれた。
編集は伊豆の国市文化財課、発行は令和4年3月10日とあるから、今年の大河ドラマを見据えて作ったか・・・しかし、3月に入っての発行とは、少しのんびりしている。
その冊子5ページに、ドラマでは見かけない名前を見つけた。「義時の長男」安千代である。義時の長男は、太郎泰時ではないのか?義時と伊賀の方夫妻のお墓のある「北條寺」について、冊子にはこう書かれている。
北條寺は、義時が長男安千代のために建立した寺院である。北条義時館跡(江間公園)からほど近い場所にある。境内にある小高い山の上には「北条義時夫妻の墓」が佇む。
北條寺に伝わる寺宝のひとつである「阿弥陀如来坐像」は仏師集団「慶派」による作品であり(略)義時が亡き安千代の冥福を祈って造立したと伝わっている。その他(略)北条政子が寄進したと伝わる牡丹鳥獣文繍帳(県指定文化財)など、数多くの貴重な寺宝を有する。
そして、もうひとつ気になる「珍場神社(ちんばじんじゃ)」の説明がこちら。
珍場神社は、長岡地区北江間の千代田団地南側に鎮座する。元久元年(1204)、亡くなった安千代の霊を祀るために、若宮八幡を勧請して創立したと伝わる神社である。安千代に似た木造を彫刻して若宮八幡神とした、という言い伝えも残る。
ふたつの寺社の創立に共通するのが安千代。つまり、安千代は確かに存在した蓋然性が高いように思う。彼を祀っている寺と神社が現実に今もあるのだ。しかし、こんなに大々的にお祀りしたのだし、安千代はよほど悲劇的な死に方をしたのか・・・冊子には、「池田の大蛇伝説」という囲み記事もあった。
昔、池田郷内というところに大池があり、大蛇が棲んでいた。江間小四郎(北条義時)の長男安千代は勉学のために、珍野村の千葉寺という真言宗の寺院に通っていた。安千代が11歳の時、千葉寺から家に帰る途中の大池の堤で、大蛇に襲われ水底に沈められてしまった。家来が義時にこのことを報告すると、義時は大いに怒ったが、大池の仕業であったためどうしようもなかった。
ある時、義時自ら大蛇の左眼を弓で射た。射られた大蛇は水底に潜り姿を消してしまった。この時から大池はだんだん浅くなり、ついに田地となり、そこが池田という地名になった。《『伊豆志』伊東祐綱 享保12年(1727)を参照》
このほか、大蛇は雌雄であり、雄の蛇が逃げた坂を「男坂」、雌の蛇が逃げた坂を「女坂」とする説などもある。
確かに悲劇的な死を迎えた安千代。親の気持ちとしたら、あの世での安寧を祈るために何でもしたくなるだろう。
安千代は比奈の長男?
安千代が義時の長男だとすると、金剛泰時はどうなる?彼は側室(阿波局、「鎌倉殿の13人」では八重)の子で、庶長子として1183年に生まれている。安千代は泰時の前に生まれていた子なのか?
先ほど珍場神社の項に1204年創立とあり、伝説では安千代11歳とわざわざ言っているから、1204年に11歳だとすると1193年生まれ。泰時が10歳の時に生まれていることになる。
ちょっとググってみたら、1193年生まれの義時の子にはちょうど朝時がいる。「鎌倉殿の13人」では正室の比奈が産んでいるので、庶長子をカウントしないで「正室の長男」の意味で言ったら、朝時が「義時の長男」だと呼ばれてもおかしくなかったのか。
けれども、「次郎」と呼ばれた朝時は成人して1245年に死んでいる。1204年頃に11歳で死んでしまった安千代とは別人だ。
では、珍場神社や北條寺に祀られている安千代とは一体誰なのか?
可能性として、比奈が産んだ朝時は、もしかしたら双子だったのでは?双子の片割れが不幸にして大池で亡くなり、もう片方が朝時として成人したというなら、納得がいく。そうすれば、伝説とはピッタリだ。
1203~1204年に起きたこと
しかし・・・1204年(元久元年)というのが気になっている。この伊豆の国市の冊子には、「北条義時関連年表」が掲載されている。同年表によると、その年に義時は相模守に就任しているのだが、2代目鎌倉殿頼家が修善寺にて死んだのもこの年なのだ。
前年の1203年には比企氏の乱が起きている。頼家の長男、一幡は比企一族と一緒に死んだという説もあれば、逃亡してしばらくして義時に殺害されたという説もある。
義時が1204年に神社を勧請し、寺も建立する動機づけとしては、この頼家と一幡の悲劇の方が強くあるような気がするが・・・もしかしたら、実のところは滅ぼした頼家と一幡の為だけれども、大っぴらにはそう言えないから、伝説を拵えて「自分の長男安千代の為」と対外的に披露したのではないのだろうか。
そう思うのは、珍場神社は「安千代の霊を祀るために、若宮八幡を勧請して創立」とあるからだ。そして、若宮八幡をウィキペディアで見ると「源氏、ひいては後の武家全体の守護神たる八幡宮から分祀され、日本各地に存在する」と書いてあるからだ。
やはり、珍場神社に祀られたのは源氏の頼家か一幡の方が順当ではないのか。北条義時は息子のために、源氏の守護神の八幡宮をわざわざ勧請するのだろうか?
北條寺には政子が寄進したと伝わる文化財もある。尼御台の政子にとって、11歳の甥は、そんなに文化財となるような貴重な物を寄進するほどの存在だったのだろうか(弟の長男となれば寄進ぐらいする、と言われればそうかもしれないが)。甥よりも、政子の長男と孫、と考える方が自然な気がするのだが・・・。
素人が色々と妄想してみた。何か関連の資料があれば、読んでみたい。