黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました。大河ドラマが好き。

【どうする家康】番外編・瀬名を偲ぶ岡崎への旅(平山優先生ご案内付き✨)

瀬名ロスが高じて、ひとり大興奮の旅

 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第25回「はるかに遠い夢」で非業の自死を遂げた瀬名こと築山殿。前27回ブログの冒頭で明言した通り、瀬名ロスに現在どっぷり中だ。瀬名と言うべきか、有村架純を再登板させる方法まで勝手に妄想を重ねていた。

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 そんな私にぴったりの岡崎を巡るツアーが開催されると知り、ポンコツの体に鞭打って急遽参加してきた。申し込んだ時には残席僅か、危なかった。(平山優先生と行く激震の岡崎!家康公の人生の岐路めぐり|令和5年度岡崎おでかけツアーズコース紹介|特集|岡崎おでかけナビ - 岡崎市観光協会公式サイト (okazaki-kanko.jp)

 しかもこのツアー、なんと「どう家」時代考証担当の平山優先生が特別講師だと・・・ありえない。いや、これはもう本当に行けて良かった。もうしばらくはどこにも行けなくてもいいくらい良かった。(+ツアー中に倒れなくて本当に良かった。)

 ツアーのタイトルは「平山優先生と行く激震の岡崎!家康公の人生の岐路めぐり」。「激震の」がとても良い感じだ。まさに、瀬名ロスの私の心を言い当てているような・・・なんて。

 家康だって、真っ当な人間なら「激震」じゃない訳がない。どんなに時代が変わっても、たとえ夫婦間の情が薄かったとしても、ご縁の有ったパートナーと息子の命が奪われるとなったら話は別、たまらないはずでしょ?

 そうじゃなくたって大規模なクーデターが隠れていたのだ。「返り忠」で謀反を家康に申告してきた山田八蔵がいなかったら成功していたかもしれないと考えると、家康は本当に運が良いね。

 ツアーは、まず名鉄東岡崎駅東口に集合。「名鉄」にも生まれて初めて乗った私は、駅に着いてコインロッカーを探せてホッとしたのも束の間、小銭の持ち合わせが無くて焦り、さらに集合場所に行くまでに迷い、時間の余裕を見ていたはずなのにギリギリで大汗をかいてしまった。

 集合場所はあまり風も通らず、暑い。ドッと噴き出る汗をさまそうと、スタート前の説明を観光協会スタッフからして頂いている間、扇子を広げて盛大にパタパタし続けた。

 駅前の「家康公ひろば」で平山先生が合流、冷房の効いた「はとバス」タイプの上等なバスに乗って各所を回ったが、暑いさ中だったので助かった。そうじゃなかったら途中で熱中症で倒れていたに違いない。

家康公ひろば、家康像。四天王像は乙川対岸の銀行にあるそう

 コースは「家康公ひろば」からスタート。以下のように回った。

  1. 大樹寺/松平八代の墓/宝物殿
  2. 大正庵釜春本店で昼食
  3. 築山屋敷址など(バス車窓から)
  4. 祐傳寺(築山御前首埋葬寺)
  5. 若宮八幡宮/信康公首塚
  6. 小豆坂古戦場など(車窓から)
  7. 山中城址(車窓から)
  8. 法蔵寺/三方ヶ原忠死者の墓/手習いの書、文机(拝見)
  9. 岡崎公園散策/岡崎大河ドラマ館(閉館時間後に見学)

 ・・・そしてスタート地点の「家康公ひろば」に戻って解散、だった。

 ①大樹寺では、岡崎城までのビスタラインを確認。条例が作られ、寺の門から覗ける岡崎城まで、視界を妨げるような建物は建てられなくなったそうだ。大事な歴史的遺産だもんね。

 また、空襲でも焼けずに残ったという、1535年建立の多宝塔が国指定重要文化財になっていた。平山先生によると、家康の祖父・松平清康が「世良田」を名乗っていたことがこの棟札で確認できたのが大きな発見だったらしい。

大樹寺多宝塔

 ②大正庵釜春本店で八丁味噌煮込みうどんを食べ、帰ろうとした時に階段飾り棚で見つけたのが、写真の木彫りのウサギだった。

 「神宮えと守」と書いてあるので、今年の干支・ウサギの人形らしい。それが、「どう家」で瀬名と家康をつなぐ、例の大切な兎の人形に色といい大きさといい、イメージがすごく似ていた。ドラマの方が細かく彫ってあるけれど、ここまで似ているのだからモデルかな?

 ツアー参加者の数人もそう思ったらしく、皆で「どこの神宮ですか?」とお店のスタッフに伺ったものの、知らないと。残念。熱田神宮かな?

今年の干支、うさぎの木彫り

 ③築山屋敷址は、今の岡崎康生郵便局のあたり。地元ガイドさんによれば、高台になって開けている様子がドラマでも良く表現されていて感心したらしい。しかし!通過するバスの中からでは一瞬過ぎて何とも・・・😢

 ④祐傳寺は、バスの車窓から眺めるだけだったはずが、お寺のご厚意かタイミングの良さか(?)不明なれど拝観できることに。きっと平山先生が同行されていたからでは?専門家パワーでしょうね!

 (おまけに、道を挟んで反対側の岡崎市消防本部には、日本でもまだ2台というレッドサラマンダーがあり、NHKの取材を受けている真っ最中。有難みが分からずボーっと見ていたが、ラッキーだった模様。)

 肝心な築山殿首塚は、門を入ってすぐ左手に、本当にささやかな五輪塔がちょこんと有ったので面食らった。徳川を憚ってこんな扱いだったのかは分からないが、もうそんな時代でもないし、損壊や盗難も心配だし、もうちょっと管理が何とかならないものかしらと考えてしまった。余計なお世話かな。

 平山先生のご説明では、築山殿の五輪塔は、途中の石が変わっているようで、全てが当初の物という訳ではなさそう。後ろには、小さな「一石五輪塔」が2つ。細長い石に五輪塔の形を省略して形成されているようで、もしかしたら築山殿の侍女のものかも、と。

 お仕えする主と共に命を絶たれたか、後追いしたか。気の毒で胸が詰まった。

祐傳寺にて、築山殿首塚について説明する平山優先生

 ⑤若宮八幡宮には、バスを降りて少し歩いた。それだけでも暑くて、この季節に日傘は必須アイテムだと実感。暑いのも生きていればこそ、こちらに首塚のある1579年にたった20歳で落命した信康公には申し訳ない話だ。

 4年前の1575年には家康伯父の水野信元が武田への内通を疑われて粛清され、岡崎クーデター(大岡弥四郎事件)も明るみに出て、首謀者らは処刑された。岡崎奉行3人の内2人が嚙んでいたというのは驚きだ。当時、軍事的に徳川を追い込んでいた武田に通じる流れの中心には、まだ幼い信康というよりは築山殿が担がれていたとの話がある。

 クーデターの際に、大岡弥四郎は築山殿も信康も始末して城を乗っ取るつもりだったのに、築山殿は信康が武田に通じることで、家康に代わって家を存続できると騙されていたらしいと・・・子を思う母の心を利用されたのか。哀れだ。

 ツアー中に出ていた話では、築山殿があんな場所(佐鳴湖畔)で死んだのは、やはり自死だったのではないかと・・・申し開きに浜松城に赴く途上に、全て諦めて死を選んだか。駕籠の中で自死したのかもしれないとの話をどこかで読んだ時、昨年の大河「鎌倉殿の13人」で中川大志が演じて大評判だった、畠山重忠の側室の駕籠塚を思い出した。

 瀬名の死から信康の死までは少しタイムラグがある。もしかしたら「私が全ての責任を負って死ぬから、何とか信康を助けてほしい」との瀬名の気持ちを受けて、家康も努力した結果が(実らなかったことになるが)、あのタイムラグとなったのではないかなとも感じた。

 今回は行けないが、彼女の浜松の墓地(西来院の月窟廟)にもいつかお参りしたい。平山先生が言うには戦時の空襲で墓碑もボロボロになってコンクリート(?)か何かで固められたそうだが、それってあんまりじゃ・・・💦隣には、あの武田に人質に出され両足の指を凍傷で失った家康の異母弟・松平康俊が葬られているという。

 小豆坂古戦場に至るまでに、八柱神社を通過。築山殿の首は後に④からこちらに改葬されたそうで、てっきりお参りできるのかと思っていたのでかなり残念だった。仕方ない、バスの停車が難しいらしい。岡崎にまた来てね、ということか。

 また、大岡弥四郎の妻子が磔になって後、お地蔵さんが建立された場所も通過。地元の人じゃないと、なかなか知られてない所だそうだ。惜しかったが、車中からでは良く分からなかった。その周辺で、グーグルマップによれば石川数正の墓もあったので「え!」と思ったが、ツアーの悲しさ、いきなりの思い付きによる個人的な行動は難しい。仕方ない。

 ⑦山中城址は、いかにも立派そうな山城。ゆっくり城歩きができれば楽しいだろうなと思いながら通過。

 ⑧法蔵寺に到着。701年創建、徳川家の始祖・松平親氏が1441年に伽藍を建立し菩提寺とした寺で、古くから街道に面しているせいで色々な方々の位牌がざくざく出てくるとか。今川義元のまで出てきて驚いた、と先生がおっしゃっていた。近藤勇の首塚もあるし、ウィキペディアを見たら、幕末にはシーボルトまで参拝していた。

 このお寺にはいつか行きたいと思ってはいた。しかし、行ける場所の限られるポンコツではもう絶対無理だろうなと思っていたので、今回のツアーでカバーされていたのは幸運だった。

 が、既に暑さと疲れで集中できない。ポンコツおばさんの体力もここまでか。せっかく本堂をお借りして平山先生のお話を聞けたのに、熱中症気味でメモも取れなかったのがかなり悔やまれた。

 それでも日傘を頼りに何とか登っていったお寺の墓地には、松平家霊廟の区画が。家康父・広忠と同じくらいの大きさのお墓がもう1つあり、松平忠政と表記があったが誰?とウィキを見たら家康の庶兄だった。広忠の側室・お久の子で、母の墓もあった。

 家康の父方の異母兄があまりにも知られていないのは何故に。後に、幕府への申し開きに子孫は困ったらしい。下には家康と同年同日に生まれた弟もいたというのに、正室を憚ったか。母方の於大が産んだ異父弟たちは知られているのにね。

法蔵寺、松平家霊廟。

 忠政公の隣には、薄井姫(碓井姫・ドラマでは酒井忠次の正室登与)の墓があった。地元ガイドさんが「今、ドラマに出ている方のお墓がある」とのことで、振り返ってみたら・・・だった。「庶民的な描き方をされているけれど、松平の姫なのにねー」とガイドさんはおっしゃっていたが、その通りだ。

 猫背椿さんは好きな女優さんではあるけれど、登与さんキャラには物申したい。だって、あの絶世の美女、ミス東海の華陽院がお母さんで於大の妹なんでしょう?華陽院が美人過ぎて求められて5回(!)も結婚し、清康の娘なので父方でも母方でも家康の叔母に当たるという不思議な立場にいるのが碓井姫。身分が高いため、高齢になっても「姫」と呼ばれた人だ。

 いつか戦国時代で大河ドラマを作るネタが尽きたら、華陽院と碓井姫のふたりを主人公に据えてくれないかなと妄想する。サブの柱は酒井忠次ね。映画でもいい。忠次は単独でもなかなか面白いが、何と言っても華陽院の実家が伊賀の忍びの関りがあるとの話を小耳に挟んで以来「華陽院、あちこち嫁がされて気の毒だけど面白過ぎる」と思っている。

 華陽院は振り回されるばかりじゃなかったかもしれない、と描けばどうだろう。碓井姫の母子が伊賀者を手先に家康のために謀を張り巡らし、優秀な忠次が動くとか。駿府では謀略に生きた華陽院が支え、岡崎に戻ってからは油断ならない出来物の忠次夫婦が支えた家康。ダメかなー。

 大きく脱線したが、法蔵寺での今回のツアーの目玉は三方ヶ原で家康の身代わりになった、あの夏目吉信や忠死者のお墓参りだったが、夏目吉信はともかく、その他の五輪塔などはあまりに小さく、ツアーの参加者の誰かが「わ、気をつけないと踏みそう」という状態だった。

 先ほどの④もそうだけれど、岡崎は、史跡があり過ぎて管理にあまり手が回らないのだろうか・・・それとも、普通こういうもの?

 それから、法蔵寺では家康が幼き竹千代時代にした文机の落書き(城だった)や、手習いの書も拝見した。平山先生としてはこの書については真偽を疑っているらしい。え、そうなの?

 その後、⑨岡崎公園に向かった。城の石垣が好きなはずの私も、写真を1枚撮るのが精一杯で朦朧としてヨロヨロと歩いた。婉曲しているお濠と緑が美しい。埋まっているけれどもっと下まで石垣がある・・・との説明を地元ガイドさんから聞いたような気がする。

 ちょうど家康公のからくり時計が鳴り始めた。いわゆる家康公の遺訓といわれる「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し・・・」の一節がスピーカーから聞こえたので、手の空いてそうだった平山先生に「これは日光東照宮にもでーんと掲示してあるのに、偽物だと聞きますが本当ですか」と聞いてみた。

 そうしたら・・・やっぱり偽物作り物なんだとか!「水戸藩に近い誰かが作って、よくできているんだよね」とのこと。えええ!

 「青天を衝け」では主人公の渋沢栄一と15代将軍の慶喜がこの遺訓を唱和する感動的なシーンがあったが、それはどうなるのか?と思ったら「江戸末期には既に成立していて、慶喜も本物だと信じていた節がある」と。ましてや栄一も、ということだ。

 真偽について信頼できる方にお伺いしたかったので、これで諦めがついた。この後、お礼もそこそこに涼しい売店めがけて突進してしまったが、先生失礼しました。

岡崎城の濠。緑が美しい

 そして、岡崎大河ドラマ館。元気を振り絞って、倒れないように有難い平山先生のお話を伺いながら回った。既に時間外なのに見学をさせて頂く。スタッフも倒れたいぐらいの暑さだろうからきっと疲れもひとしお、迷惑だろうけど許してね。このツアー一行が出たら夜を徹しての展示替えだそうで、古いのに滑り込みセーフだったのか、新しいのが見られず惜しかったのか。

 平山先生が大河ドラマ撮影の裏話を許される範囲で少々してくださった。長身の先生が現場に行った時、先生よりも高い俳優さんは榊原康政役の中の人(杉野遥亮)だけだったそうで、彼はそんなに背が高かったかと意外だった。(武田信玄役の阿部寛はいなかった模様。)そして、やっぱり有村架純は驚くほどきれいだったそうだ。

本田忠勝の等身大パネルと平山先生

 今後、ドラマでは退場していく出演者が多いので、先生としては「だからもっと多く出しておけば良かったのに」とご不満があるご様子。私としても「鬼作左」は出してもらいたかったなと思うが、特殊メイクが大変すぎるのか。

 詳細は省くが、時代考証を担当している先生が仰天するシーンも度々あったようで、案を出して「ああ、いいですね~」と言われても、その実「全然聞かない」そうで採用してもらえないとか。それで映像を見てビックリでは、提案するのも悲しく虚しい話だ。以前、私がブログで「平山先生、これでいいの?」と書いたシーンも、先生が見てぶっ飛んだ類だったらしい。清須城もね。

 そうそう、千代はお楽しみに。今後の活躍が期待できるらしい。

 ・・・ということで、バスは東岡崎駅前の家康公ひろばに戻って解散となった。暑くて疲れたが、充実したツアーだった。平山先生と、バスでお隣になった方と写真を撮っていただいて、お別れした。

 岡崎の町にはあちこちに史跡がある。当然ながら今回のツアーでは回りきれたものではないが、先生の他に観光協会職員さんと地元の「岡崎歴史かたり人」なる御仁が興味深く説明してくれて楽しいツアーになった。

 岡崎クーデターの大岡弥四郎が鋸引きの刑に処された辻があった場所なども通過したが、バスはどんどん移動する。あっちこっちとキョロキョロしていては車酔いになりそうで、メモも取れなかったのがもったいなかった。車中で器用に写真も撮影しメモも取っている参加者の皆さん、たくましい!

ひとりで築山屋敷址へ

 解散後、まだまだ日も明るいので、瀬名推しの私はツアーで通過して心残りだった築山屋敷址へ戻ってみることにした。どこにそんな体力が残っていたのやら。次に岡崎に来られるのはいつの日かもわからないから、もう一息頑張った。せっかく彼女を偲ぶ旅なんだから。

 東岡崎駅から乙川に沿って西に歩き、桜城橋を渡った。歩行者用に整備された橋だ。橋だけじゃなく、国道1号線の大通りを渡り、築山御殿推定地である岡崎康生郵便局を越えて籠田公園に至るぐらいまでだったか、中央緑道やデッキがあって歩行者向けになっていた。まだ新しい。いいね、こういうの。

桜城橋から岡崎城方向の夕景

 その道をガンバレガンバレと自らを励ましつつ、えっちらおっちら上がっていく。ペディストリアンデッキのような造形物は続き、築山屋敷址の郵便局前でデッキに上って振り返ってみると、なるほど開けた丘からのような風景が眼下に見て取れた。

 「誠に良いところを頂戴したのぉ」と庵を訪ねた於大が瀬名に声を掛けていたのが分かる気がした。風が通り、気持ち良い。瀬名もこの風を感じたのかな?バスも楽だけど、やっぱり歩くと良い。満足して、ツアーを終えることができた。

築山屋敷址の前の道。ゆるやかな下りの坂道

左は築山屋敷址の郵便局、その周辺

 (ほぼ敬称略。ブログへの掲載を「いいよ」と快くご了承いただいた平山先生、ありがとうございましたm(__)m)